AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:文化と読書 > 書物のある生活

Dust

4種類の方向

 あるとき、本棚に並んだ洋書をぼんやり眺めていて気づいたことがある。それは、本の背に印刷されたタイトルの方向が全部で4種類あるということである。すなわち、

    1. アルファベットを無理やり縦書きにする。
    2. 背の幅いっぱいにあえて横書きにする。
    3. 文字列を横に倒して上から書く。
    4. 文字列を横に倒して下から書く。

 これら4種類のうち、1.は圧倒的少数である。1.は、下のような街頭の看板にはときどき見られるが、私の知る範囲では、本の背に関するかぎり、全体の99%以上が2.、3.、4.のいずれかの方式を採用している。特に、学術文献で1.が用いられることはまずない。

Lost Chicago

 また、2.、3.、4.のうち、2.は、下のようなもので、特に目立ったバリエーションはない。ただ、この方式は、本の厚みを必要とするから、厚みが足りない場合、活字が大変に小さくなり、見づらくなることがある。

The Correspondence of Jonathan Swift - Swiss Cottage Library

上から下か、下から上か、並べるか、積み上げるか

 ところで、問題は、3.と4.である。まず、3.というのは、次のようなものである。

penguins

 これに対し、4.の方式を採用すると、次のようになる。

Chroniques de Mai 68

 英語の場合、3.の方式、つまり、本棚に立てると背の文字が上から始まるものが(少なくとも20世紀以降は)圧倒的多数であり、これに対し、ドイツ語やフランス語の出版物では、4.の方式でタイトルが印刷されているものがほとんどである。また、英語、ドイツ語、フランス語以外のヨーロッパ系言語では、英語と同じ3.の方が普通のようである。

 ただ、ドイツ語やフランス語でも、タイトルが上から下に印刷されるケースがないわけではない。たとえば、フランスのPresses Universitaires de Franceから刊行されている人文科学の古典の叢書”Quadrige”には、印刷の方向が上から下のものと、下から上のものが混在している。

 だから、異なる言語の洋書が本棚に混在すると、タイトルを読むのに苦労するばかりではない。書棚の外観が雑然として、あまり美的ではないのである。

 なお、3.と4.の違いについては、著名な書誌学者による次のようなコメントがある。


RKFZ~i[z[ M[g[N5

(null)



 また、主な横書きの言語の出版物の背に印刷される文字の方向を調査した人――書誌学者ではないが、書誌学の専門的な知識があるらしい――がいて、次のページに結果がまとめられている。


本棚に立てられた洋書の背文字は読みにくい

(null)


 とはいえ、「上から下」と「下から上」が分かれた原因がわかっても、読みにくさが解消されるわけではない。本をただ保管するだけであるなら、本棚に立てず、横にして積み上げればよいのであろう。しかし、本を積み上げてしまうと、下の方にある本を取り出すのが面倒になるはずである。和書とくらべると、洋書を美しく整理することは難しいようである。


AMAZON KINDLE

電子書籍は「蔵書」ではない

 電子書籍の登場以前、蔵書を管理するときに考慮しなければならないのは、紙の本だけであった。また、現在でも、電子書籍とは無縁の生活を送っているなら、電子書籍の扱い方に頭を悩ませることはないであろう。

 しかし、自分が所蔵している本を何らかの仕方で管理したり整理したりする必要に迫られている人の大半にとり、読書は、紙の本による場合もあれば、電子書籍による場合もあるというのが普通であるはずである。つまり、大半の人は、紙の本と電子書籍が混在した「蔵書」を抱えているに違いない。

 とはいえ、紙の本と電子書籍を一元的に管理する試みは、さまざまな困難に出会うはずである。たしかに、ブクログや読書メーターのようなサービスを使えば、少なくともデータの上では紙の本と電子書籍を同じ蔵書として扱うことが可能である。しかし、紙の本とは異なり、電子書籍の1冊は、書架に位置を占めていないから、両者が混在した状態を「現物」の形で一覧することはできない。少なくとも整理という観点から考えるなら、電子書籍を紙の本と同じ意味での「蔵書」と見なすことは困難である。

電子書籍は「財産」ですらない

 ところで、最近――と言っても、もう何年も前からであるが――紙の本を裁断してスキャンし、みずから電子書籍化する試みが社会の広い範囲で見られるようになった。これは、一般に「自炊」と呼ばれている。また、同じタイトルについて紙の本と電子書籍の両方が販売されている場合、紙の本ではなく電子書籍の方を購入する人も多いようである。たしかに、紙の本を電子化したり、最初から電子書籍を購入したりすることにより、新たなスペースを作ることが可能となる。たしかに、誰にとっても、蔵書について最優先で解決しなければならないのは「収納」の問題であるから、三次元空間に位置を占めない電子書籍には、すでにこれだけでも大きなメリットがあると言うことができる。

 しかし、私が所蔵している紙の本は、私が手放さないかぎり、死ぬまで私の手もとに置くことができるのに対し、電子書籍については、今後何十年にもわたって参照可能であるという保証がない。電子的なデータは消えてしまうかも知れないし、電子書籍のうち、たとえばアマゾンで購入し専用の端末やアプリを使わなければ読むことのできないものは、提供する側の都合で閲覧することができなくなる危険にさらされている。電子書籍は、蔵書ではないばかりではなく、財産ですらないのである。

スペースの節約が極度に切実な問題なら、電子書籍への置き換えは選択肢の1つ

 このような点を考慮するなら、あるタイトルを紙の本ではなく電子書籍で購入するというのは、割高であることがわかる。電子書籍の価格が同じタイトルの紙の本の価格の3分の1程度ならばともかく、両者に大した違いがないのであれば、電子書籍をあえて購入する理由はないはずである。

 ただ、電子書籍を購入したり、紙の本をみずから電子書籍化したりすることの大きな理由の1つにスペースの節約があることは確かである。実際、たとえば、漫画を何百冊、いや、何千冊も所蔵している人にとり、収納場所の確保は、特に重要な問題であるはずである。

 だから、蔵書が占有しているスペースを解放するために蔵書の電子化を進めようとしているのなら、次のように考えてみるとよいように思われる。すなわち、現在所蔵している漫画100冊が相当なスペースを占有しているとき、このスペースを空けるためにいくらまでなら支払うことができるか、胸に手を当ててみずからに尋ねるのである。

 漫画1冊が500円であるとすると、漫画100冊は50000円になる。漫画の場合、電子書籍の価格は、紙の本とほぼ同じである。したがって、漫画100冊分のスペースを空けるために50000円以上支払ってもかまわないのなら、今後は、すべての漫画を電子書籍で購入してもよいであろう。しかし、漫画100冊分のスペースを空けるのに50000円も支払うつもりがないと考えるのであれば、それは、収納の問題が切実ではないことの証しであり、蔵書の電子書籍化を進めることには慎重になるべきなのであろう。


CBT LTD 07

 昨日、次のような記事を見つけた。


【本なんて、もはやインテリア】複合書店は、出版界の救世主になれるか。(五百田達成) - Yahoo!ニュース

昨年から、本とそれ以外の商品を並べる「複合書店」の動きが加速しています。


 上記の記事は、新刊書店が雑貨屋、カフェ、家電量販店などと一体化する「複合書店」を取り上げているけれども、同じことは、古書店についても言うことができる。

 商品が新刊書である古書であるかには関係なく、本屋というのは、本を売る店であると私はながいあいだ信じていた。そして、本屋が本を売る店であるかぎり、本屋の価値を決めるのは、在庫の量と質ででなければならないとも考えていた。だから、本を探すときには、必要に応じて、アマゾンで検索したり、紀伊國屋、ジュンク堂、三省堂などのように多種多様なジャンルにわたる膨大な在庫がある本屋に足を運んだり、文学、歴史、経済、美術などの専門に特化した古書店のカタログを眺めたりしてきた。目指す本が見つかる確率が高くなるほど、本屋の価値は上がることになる。

 もちろん、店員の質もまた、少なくとも古本屋の場合には、店の価値を決める重要な要素である。けれども、古書店の店員の価値は、愛想のよさとか一般的な意味での話の面白さにあるのではなく、古書に関する知識の量に求められること、これもまた当然の話である。

magazines-1174419_1920
 しかし、最近は、「セレクト古書店」などと呼ばれるタイプの古本屋が目につくようになった。在庫している本の数はごくわずかであり、大抵の場合、ハッキリしない基準にもとづいて「選ばれた」少数の本が――冒頭の記事で取り上げられている「複合書店」と同じように――インテリア風に品よく壁際に並べられていたり、ハンカチ、カバン、額縁などと一緒に雑貨として売られていたりする。さすがに神田の古書店街でこの種の古本屋――と言えるのかどうかわからないが――を見かけることはないけれども、私の自宅の最寄り駅近くに新しく開店した古本屋はいずれも、この「セレクト古書店」である。また、私の見るかぎり、このような本屋に来る客が期待しているのは、読む本を見つけることであるというよりも、むしろ、店員/店主としゃべることであるように見える。また、客と「つながる」ために店を開いたということを堂々と語る店主もいる。(私にとって、店主との会話は、古本屋で本を探すときの単なる「コスト」にすぎず、店主と「つながる」ために古本屋に行くなど、思いもよらないことであった。本を探し、本を読むというのは、「本との対話」という本質的に私的な孤独な営みだからである。)

 このような傾向に関連し、ある古書店主――「セレクト古書店」の店主ではない――は、次のように語っている。

新しい古書店では、多くの顧客が店主との対話を求めている。本自体の魅力だけではなく、書店自体がメディアとして人と情報の結節点となることが求められている。文化を伝える道具としての本を中心として、人と人が出会う場所として本屋という空間が利用されているのである。今回の取材で、いろいろな古書店を回る中で、「エンターテインメント空間」という言葉を何度も聴いた。たとえば、十年以上輸入写真集を黙々と扱って来た某書店は本の値段をドルで表示している。しかも、そのレートは毎日変わるのだ。わずかとはいえ、買う日によって損をしたり得をしたりする。そうすることによって、買い物にゲーム性や賭博性を持たせているのだ。このちょっとした遊びが、コミュニケーションを生み出すきっかけとなる。

 このような事実から明らかなように、「セレクト古書店」というのは、本質的に本を読まない人間のための本屋である。そこでは、読むための本が売られているのではない。売られているのは、部屋に飾るための本、あるいは、読んでいる姿や携行している姿を他人に見せるための本であり、最大限に好意的に考えても、おしゃべりのきっかけになるような本にすぎない。

 このような店で売られている本の値段が表現しているのは、書物の内容の価値ではなく、表紙と厚みの価値にすぎない。だから、「束見本」のように内部の版面に何も印刷されていなくても、それどころか、内部が空洞であっても、値段は変わらないことになる。いずれにしても、真面目に読まれることはないからである。私は、このような本の扱われ方に強烈な違和感を覚えるとともに、本を読むことを前提とする文化がこれほどまでに痩せ細っていることに少なからず驚いた。

 冒頭の記事の著者が予測しているように、複合書店において、本が知的な雰囲気を作り出すためのインテリア以上の役割を担っていないのであるならば、本が売場から追い出される日がいつか到来するはずである。そして、そのとき、新しいタイプの「文盲」が社会に蔓延し、文化の再生産のための基盤が蝕まれ、崩れることになるように思われるのである。


Which one to choose

分類整理が現実的なのは、蔵書の量が一望できる範囲に収まっているときだけ

 蔵書が増えてきたとき、これを利用しやすくするために誰の心にも浮かぶのは、「本をどのように書架に並べるか」という問いであろう。

 たしかに、蔵書全体を一望のもとに見渡すことができる場合、この問いには意味がある。たとえば、1つの部屋の1つまたは複数の壁に固定された書架に蔵書が収まる程度であるなら、たとえばテーマ別、使用頻度別、著者名のアルファベット順、あるいは、背表紙の色ごとなど、自由な並べ方が可能であり、実際、それによって、蔵書が機能するであろう。

 しかし、本の分類整理は、あくまでも、すべての蔵書を一度に視界に収めることができる場合にのみ意味を持つ。蔵書が1つの空間内に固定された書架には収まらず、したがって、蔵書を一望することができない場合、本を分類整理しても無駄である。少なくとも、分類整理のためにおびただしいエネルギーが必要となり、分類整理のためのエネルギーは、蔵書の活用から生まれる効用を上回ってしまうはずである。蔵書が複数の空間に分かれているなら、本を「正しく」並べる手間をかける余裕があるかどうか、自分に尋ねてみる方がよいであろう。

 たとえば、図書館のように内容に従って本を分類して排列する場合を考えてみる。個人の蔵書は、図書館の蔵書とは異なり、原則として、所有者自身の必要にもとづいて集められた本からなっているはずである。したがって、すべての本は、所有者にとって使う可能性がある。ところが、蔵書を保管する書架が複数の空間にあり、しかも、本が内容別に分類、配列されているときには、どうしても、「使う本が別の部屋にあり、取りに行かねばならない」という事態を避けられない。そのため、本を取りに行くため、あるいは、本を戻すために席を立つことが面倒くさくなり、時間の経過とともに、本の配列が乱れることになる。配列方法が違っても、事情は基本的に同じである。複数の本を同時に並行して使用することがなく、書架からの本の出し入れの頻度が低い――つねに「何もないテーブルの上に本が1冊だけ」という状態――読書スタイルならばともかく、一般に本の分類製整理は維持に手間がかかるものであり、放っておけばエントロピーが増大する傾向にあるという事実は、つねに考慮すべきであるように思われる。

一度書架に収めたら、本の位置は大きく変えない方がよい

 蔵書が1つの空間に収まらなくなるとともに、蔵書の分類整理、および分類整理された状態の維持にかかる手間は飛躍的に増える。私の場合、蔵書は、自室ともう1つの部屋の合計2つの部屋におよそ20%対80%の割合で分かれている。したがって、もう1つの部屋の方にある80%については、分類整理を諦めている。

 ただ、これら自室の外にある本については、書架に収める際、棚の1つひとつに番号([1][2][3][4][5]……)を振り、本をブクログに登録する――私は、蔵書の管理にブクログを使っている――とき、本が収まる棚の番号を「タグ」欄に記入しておく。ブクログを見ることで、どの本がどこにあるか、ただちにわかるようになっている。自室の書架の棚には番号を振らず、自室にある本には[0]というタグを一律につける。よほど広い部屋でないかぎり、見渡すことで、目指す本がどこにあるかすぐにわかるからである。

 ただ、別の部屋にある本を自室に持って来たら、ブクログを開いて「タグ」欄に記入された棚番号を[0]に変更する作業は必要であり、逆もまた同様である。そして、このような作業をしばらく繰り返していると、やがて、本を移動させる機会は減る。(面倒くさいからである。)最終的に、使用頻度の高い本が手もとに自然に集まり、あまり使わない本は別の部屋の書架に収まることで、本を運ぶ手間は少なくなって行くはずである。

 なお、自室にある本は、場所を頻繁に変更しても大した問題は起こらないが、別の空間にある書架に収められた本は、よほどの必要がないかぎり、位置を大きく変えない方がよいと私は考えている。というのも、本の位置を書架の中の位置や背表紙の配列で記憶していることが多いからである。「あの本はたしか『七つの習慣』と『サテュリコン』のあいだにあったはずだ」「あの写真集は、あの書架の下の方から飛び出していたはずだ」などの空間的な記憶は、本を素早く見つける手がかりとなる。

 とはいえ、次のことには注意が必要である。すなわち、見渡すことのできる範囲にない蔵書の分類整理はせず、本が収められている棚の番号のみを記録しておくこと、そして、これらの本については、できるかぎり位置を変えないこと、このような点に注意して蔵書を管理しても、書架の眺めは決して美しくならない。「美しい書架」を作ることを最優先にするのなら、「維持がラクである」とか「使いやすい」とか、このような実際的な観点は度外視し、美しい本を美しく並べる手間を惜しんではいけないのであろう。


Detalle Restaurante Ex libris.jpeg (9)

生活の質を維持するには、蔵書のダウンサイジングは必須である

 どのくらいの量の蔵書があるのか、正確に数えたことはないが、本棚の大きさを手がかりに計算すると、家にある「私専用の本」だけで、5000冊くらいにはなると思う。以前、岡崎武志氏の『蔵書の苦しみ』を読んで、本をたくさん持つ者のつらさに共感を覚えた。

蔵書の苦しみ (光文社新書) | 岡崎 武志 | 本 | Amazon.co.jp

 本は、場所を占領するばかりではない。本の重量もまた、私たちの生活を苦しめる。今は鉄筋コンクリート造の建物に住んでいるから大丈夫であるけれども、木造の一戸建てで暮らしていたときには、本の重みで床が抜けたことがある。

 蔵書が原因の生活の質の低下を避けるためには、何らかの意味における「整理」を避けることができない。しかし、蔵書は、放っておけば際限なく増える。そして、アマゾン、大型書店、古書店、さらに、美術館や博物館の売店……、本を買うことへの誘惑に抵抗することが不可能であるなら、購入する以上のスピードで本を減らす以外に道はない。単なる書類とは異なり、本の場合、「必要/不要」の境界を明確にすることは容易ではなく、したがって、「不要な本を処分する」を作業の原則とするとしても、何が「不要な本」であるのか、決められないことが少なくない。さしあたり読む予定がなくても、「いつか必要になるかも」「一度手放したらもう2度と買えないかも」などと考え始めると、すべてが「必要な本」に見えてくる。実際、本を手放し、その直後に後悔したことは、これまで何度もある。

本を減らす場合の大原則:新しくて安い本から処分する

 私自身、蔵書整理の達人というわけではなく、長期的には、蔵書は増える傾向にある。それでも、この何年かは、増加のスピードがかなり緩やかになってきたことは事実である。本をこまめに処分するようになったからである。これまで本を1冊も手放さなかったら、蔵書は1万冊を超えていたと思う。

 蔵書を減らす方法は、きわめて単純である。すなわち、ブックオフに持参するのである。毎週1回、15冊ずつ本を選び、これをブックオフに持って行く。この作業を1年間繰り返し、蔵書を約750冊分小さくした。その際に原則としたのが、発行年月日が新しく、しかも、価格の安いものを優先的に処分することである。なぜなら、刊行されたばかりであり、価格が安いなら、万が一ふたたび必要になっても、同じものを入手することが容易だからであり、処分することへの抵抗感が小さいからである。また、蔵書整理に勢いが生まれると、抵抗感はさらに小さくなる。これに対し、刊行されてからある程度以上の年月が経過している場合、あるいは、何千円もする場合、処分は先送りするのが賢明である。

 もちろん、新しくて安い本でも、発行部数が少なく、ふたたび出会う可能性が低いものがないわけではないから、書名を確認せず機械的に処分するわけには行かない。私の場合、所蔵する沖縄関連本は、新しくて安いものであっても、さしあたり手もとに残すことにしている。特に、沖縄の書肆で刊行されたものは、今まで手放したことがない。「ひるぎ社」の「おきなわ文庫」を始め、沖縄まで行かないと入手できないものが少なくないからである。

 なお、私は、蔵書の整理にブクログを使っている。ブクログに本を登録し、発行年月日の新しい順にアイテムをソートし、上から順に処分を検討するのである。今のところ使う予定がなく、また、「必要になったら、そのときに手に入れればいいや」と思えるものなら、大抵の場合、処分しても大丈夫である。


↑このページのトップヘ