AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 都市と環境

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 最近、同じ著者による次の2冊を続けて読んだ。ここでは、チェーンの飲食店の紹介、現代日本の外食産業の歴史、そして、著者の半生の3つが重ね合わせて描かれている。雑誌への連載がもとになっているとは思えぬほどの一体感が認められる不思議な本である。

気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている (講談社文庫)

それでも気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている (散歩の達人)

 これら2冊の本の著者ほどではないけれども、私もまた、最近は、外出先で飲食店を探すときには、チェーン店ばかりを選んでいる。私自身は、外で食事することは滅多にないから、使うのは主に喫茶店である。つまり、お茶を飲んで時間を過ごすことが必要なとき、使うのはチェーンのコーヒー店ばかりなのである。

 チェーンのコーヒー店で時間を過ごすようになったということは、チェーンではない普通の喫茶店に近づかなくなったことを意味する。

 理由は単純である。街の普通の喫茶店には、ながく坐っていたいと思えるような店が少ないのである。古い店でも新しい店でも、回転率を上げるためであるのか、あるいは、居心地を無視したインテリアへの過剰な執着のせいなのか、私にはよくわからないけれども、腰かけていることに5分も耐えられないような坐り心地の悪い椅子が置かれていることが少なくない。

 最近、外出先で時間を調整するために都心の喫茶店に入ったことがある。この店のコーヒー一杯の値段は、スターバックスの約2倍、それにもかかわらず、椅子の坐り心地の悪さがあまりにも悪く、私は、これに耐えかねて5分でその店を飛び出し、近くにあったチェーンのコーヒー店に入りなおした。

 居心地の点では、チェーンのコーヒー店の方が全体としてすぐれていることは確かである。少なくともスターバックスやタリーズのように、客単価がそれなりに高い――とは言っても、街の喫茶店よりは安い――店では、椅子に関してもまた、それなりの坐り心地を期待することができる。また、時間の調整のために何十分か店にとどまっていても、店員から嫌な顔をされることはない。これもまた、チェーンのコーヒー店のすぐれた点である。

 本来、喫茶店というのは、注文した飲食物を腹に入れたらすぐに立ち去ることを求められるところではない。喫茶店は、パリでもヴィーンでもロンドンでも、客が何時間でも滞留し、思い思いの文化的、社会的活動に従事する空間となることにより発展してきたのである。

ウィーンのカフェ

 しかし、残念なことに、現代の日本では、街の喫茶店の多くは、この本来の役割を放棄してコーヒーを胃に流し込むためだけの貧しい空間へと転落しつつあるように見える。今のところ、この喫茶店の本来の役割は、チェーンのコーヒー店によって限定的に担われている。ことによると、未来の日本文化は、伝統的な喫茶店ではなく、チェーンのコーヒー店で生まれることになるのかもしれない。

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By Rob Hooft from The Netherlands - Car Free Ginza, CC 表示-継承 2.0, Link

 「歩行者天国」と呼ばれている措置がある。これは、公道から自動車を排除し、ある区間の公道全体を歩行者専用のスペースとするものである。(また、この措置によって車輌の進入が規制された空間もまた、同じ「歩行者天国」の名で呼ばれるのが普通である。)

 私は、東京の西の方で暮らしているから、「歩行者天国」という言葉を目にして最初に連想するのは新宿であり、次に連想するのは銀座であり、三番目に連想するのは原宿――現在は実施されていない――である。

 休日に所用があって新宿や銀座に行くと、街の一部が歩行者天国になっていることがある。歩行者天国が実施されているという理由でわざわざこれらの繁華街に赴くことはないけれども、普段は自動車が往来しているスペースを自由に歩き、普段は身を置くことができない地点に立ち、普段は眺めることができない視点から街を眺めることが刺戟となることは確かである。

 ところで、歩行者天国となった道路に立つとき、心に浮かぶ疑問がある。それが、この記事のタイトルに掲げた問いである。「歩行者天国が実施されているとき、その路上にあるものは公道上にあることになるのか」。しかし、私は、この問いに対する答えを持っていない。

 東京の繁華街で歩行者天国が実施されるときには、特定のエリアへの車輌の進入が規制される。この規制は、どのような法的根拠があるのかわからないけれども、警察によって行われるのが普通である。

 国道、都道、区道など、車輌の進入が規制される道路の種類はまちまちであるとしても、歩行者天国となる空間がもともとは公道である点については、すべて同じである。

 しかし、現実には、歩行者天国では、車道があるにもかかわらず、車輌の通行ができないのであるから、この空間は、都会の公道としての役割を失っている。車道に椅子が置かれ、歩行者が坐っているのは、この空間が公道としての役割を一時的に失っているからであると考えることができないわけではない。

 歩行者天国は、道路というよりも、むしろ、本質的には、仮設の公園と見なされるべき空間であるに違いない。

原宿、1970's。竹の子族→ホコ天バンド→カワイイの変遷【画像集】

 いや、原宿で歩行者天国が実施されなくなった理由が雄弁に物語るように、歩行者天国というものは、万人が出入り自由であるという意味では公共の空間であるとしても、共通のルールのもとで万人によって共同で使用される空間という意味における公共の空間ではないのかもしれない。

 実際、いわゆる「愛犬家」の中には、飼い犬を連れて歩行者天国に出向き、犬を係留せず自由に運動させる者がいるようである。もともと、いわゆる「愛犬家」には、公共のルールもマナーも守ることのできない者が少なくないけれども、歩行者天国に対し「ドッグラン」としての役割まで期待されているとするなら、歩行者天国は、決して「天国」のような理想の場所ではなく、むしろ、不快な刺戟と危険に満ちた場所になるおそれがある。

 私自身は――自分で自動車を運転しないからなのかもしれないが――都心の繁華街への車輌の進入を厳しく規制するのがよいと考えている。けれども、歩行者が主役となるような繁華街が生まれるためには、歩行者天国が道路であるのか、公園であるのか、あるいは、他の何らかの性格を具えた特殊な空間であるのか、この点に関する社会的な合意の形成が必要であるに違いない。

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タワーマンションの高層階に住んでいて火事になったら助からない

 6月14日にロンドンのノース・ケンジントンにある24階建ての公営住宅Grenfell Towerで火災が発生したようである。(次の記事には27階建てとあるが、正確には24階建てらしい。)

英国の27階建タワマンで火災、崩壊の危険も | 日テレNEWS24

 多くの死傷者が報告されており、この種の火災の被害としては非常に大きいと言うことができる。

 今回の火災が起った建物は24階建てであり、周囲のどの建物よりも高いという意味では高層であるけれども、東京の都心にあるいわゆる「タワーマンション」が40階建て、50階建てであることと比較するなら、必ずしも高層というわけではない。(日本の常識では、24階建ての集合住宅は「タワーマンション」とは呼ばれない。)

 それでも、建物の内部における上下の移動手段が階段だけであったなら、24階という建物はありうべからざるものであったに違いない。24階の住人には、地階から24階分を上ることなど物理的に不可能だからである。(24階から地階まで下る方も、ほぼ不可能である。)

暮らすなら断然低層階

 高層マンションの場合、眺望の点で高層階の方がすぐれているのが普通である。だから、階数が上るとともに住戸の価格もまた、これに比例して上がることになる。けれども、安全を考えるなら、住戸は低層階にあるほど好ましいように思われる。

 たしかに、階段を上り下りするスピードを競うスポーツにとっては、超高層建築物は魅力的であるのかもしれない。

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 しかし、暮らしやすさと安全を考慮するなら、集合住宅を高層にしなければならない理由は、土地の効率的な利用以外には考えられない。

 私自身、現在は、一戸建てに暮らしている。また、かつては、いくつかの集合住宅で暮らしたけれども、これまででもっとも高い部屋は7階にあった。1階とのあいだを階段で往復することができる階数としては、私の場合、7階が限度であったように思う。

地べたに足がついていると安心する

 東京で生まれ、東京で暮らしている者にはふさわしくない発言になるかも知れないが、私は、できるかぎり「地表面」に近いところで暮らしたいといつも考えている。これは、「土と触れ合う」というようなことではなく、地べたに足をつけることができるところにいないと、何となく落ち着かないのである。私の自宅の周辺は、路面がそのまま本来の地面になっている。また、私の職場やその周辺も、路面がただちに地面であり、舗装の下を掘れば、自然の土砂が現われる。

 ところが、東京には、人工地盤がいたるところに造成され、そのせいで、もとの地表面の姿が掻き消されてしまった地域がある。典型的なのは六本木である。六本木ヒルズも、東京ミッドタウンも、いずれも大規模な人工地盤の上に造られたエリアであり、もとの地表面がどのレベルであるのか、もはやわからなくなっている。特に六本木ヒルズは、もともと低地だったところを人工地盤によって嵩上げして生まれた空間であり、六本木に行くたびに、特に六本木ヒルズの方面に足を向けるたびに、何か落ち着かない気持ちに襲われる。

 「地べた」がどこにあるかを確認し、これとほどよい距離をとることは、人間にとり、自分の身体をスケールとする空間感覚を身につけるのに必要な条件となっているように思われる。だから、この意味においても、集合住宅で暮らすなら、低層階の方が好ましいように思われる。タワーマンションの高層階で暮らすことは、自分の身体感覚、周囲にあるものとの距離を把捉する能力を損ねることになるような気がしてならないのである。

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馬琴は京料理が大嫌い

 曲亭馬琴の『羇旅漫録』(きりょまんろく)は、馬琴が35歳のときに記した旅日記である。伊勢参りを目的に関西を旅した馬琴が道中で出会ったり目撃したりしたことが、馬琴自身の率直な感想とともに簡潔に記されている。

 この旅日記において特に私の注意を惹いたのは、馬琴が「京料理」というものをまったく評価していない点である。たとえば、馬琴は、次のように語っている。

京によきもの三ツ。女子。加茂川の水。寺社。あしきもの三ツ。人氣の吝嗇料理。舟便。たしなきもの五ツ。魚類。物もらひ。よきせんじ茶。よきたばこ。實ある妓女。

 馬琴の口には京都の食べものがよほど合わなかったらしく、ことあるごとに江戸の料理と比較して京料理を酷評する。まず、馬琴は、京都の魚がまずいことを指摘する。

魚類は若狹より來る鹽小鯛鹽あはび。近江よりもてくる鯉鮒。大坂より來る魚類。なつは多く腐敗す。鰻鱧は若狹より來るもの多し。しかれども油つよく。江戸前にはおとれり。鮎鮠は加茂川にてとるもの疲て骨こはし。鮠はよし。若狹の燒鮎よしといへども。岐阜ながら川の年魚などくふたる所の口にては中/\味なし。鯉のこくせうも白味噌なり。赤味噌はなし。

 さらに、馬琴によれば、この「白味噌」にも問題がある。

白味噌といふもの鹽氣うすく甘ッたるくしてくらふへからず。田樂へもこの白味噌をつけるゆゑ江戸人の口には食ひがたし。

 有名な京都の豆腐も、江戸の豆腐には遠く及ばない。

祇園豆腐は。眞崎の田樂に及ず。南禪寺豆腐は。江戸のあわ雪にもおとれり。しかれども店上廣くして。いく間にもしきり。その奇麗なることは江戸の及ぶところにあらず。

馬琴は京都人も大嫌い

 さらに、馬琴は、焼き魚が必ず半身で供されるのは、京都人がケチだからであると言い、京都人の気質に因縁をつける。

大魚の燒物は必片身なり。皿の下になる方の身はそきてとり。外の料理につかふこと大坂も又かくのごとし。京は魚類に乏しき土地なればさもあるべし。大坂にて片身の濱燒なと出すこといかにぞや。是おのづから費をはぶく人氣のしからしむるもの歟。

  また、『羇旅漫録』には、次のような一節もある。京都人が自分の家で客をもてなさないのは、その方が安上がりだからであると馬琴は推測する。

京にて客ありて振舞をするには。丸山。生洲。或は祇園二軒茶屋。南禪寺の酒店などに。一人に價何匁と定め。家内せましと稱して。その酒店え伴ひ行。是別段に客をもてなすの儀にあらず。家にて調理すれば。萬事に費あり。その上やゝもすれば器物をうち破るの愁ひあり。故にかくのごとくす。京の人の狡なること是にて知るべし

 「京の人の狡なること是にて知るべし」と記されているところを見ると、馬琴には、京都人の行動様式がよほど不快であったに違いない。馬琴が京都に出かけたのは、京料理と京都人をけなすためだったのではないかと思われるほどである。

 『羇旅漫録』で京都の食べものに対する純粋に肯定的な評価が見出されるのは、次の箇所だけである。

京にて味よきもの。麸。湯波。芋。水菜。うどんのみ。その餘は江戸人の口にあはず。

旅先の名物をうまいと思えることは少ない

 とはいえ、京都に限らず、旅行者にとっておいしいと感じられる名物料理は決して多くはない。名物料理というものがその土地に固有の自然環境や生活様式と密着しているからである。

 沖縄を旅したとき、有名なルートビアを飲んだ。

ルートビア | A&W沖縄

 沖縄は、固有の郷土食が多い地方であるけれども、ルートビアは、特別に風変りな飲み物――というよりも、本来は「飲料」ではなく「煎じ薬」――である。私は、あの湿布薬のにおいに耐えられず、コップの半分くらいで飲むのをやめた。(個人的には、カネをもらっても飲みたくない。)

 けれども、沖縄では、ルートビアは、街頭の自動販売機で売られている普通の清涼飲料水である。沖縄に固有の味覚は、沖縄に固有の自然環境や社会環境と一体のものなのであり、現地の人々と生活様式を共有することができるなら、ルートビアをおいしく飲むことは可能であるに違いないのである。

 私自身は、最近は、旅先で地元の名物を食べることは最初から諦め、どこにでもあるような飲食店で済ませることにしている。苦労して名物料理の店を見つけて食事しても、その味が苦労に見合うものであるようには思えないからである。

 やはり、誰にとっても、自分が暮らしている土地で食べ慣れた料理が、心身の健康にとってもっとも好ましいということになるのかもしれない。

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店に背を向ける席の不思議

 私は、普段は、所用のある場所を最短の経路と時間で移動するよう予定を組んでおり、外出先で「時間をつぶす」ことはあまりない。それでも、この数年は、授業の時間割の関係で、週に1度、早朝に職場の近くのチェーンのコーヒー店(カフェ)に立ち寄り、約1時間を過ごす過ごすことにしている。

 今年の4月、約3ヶ月ぶりでこのコーヒー店に行ったところ、店内の座席の配置が少し変化しているのに気づいた。

 この店は、平面が長方形をしており、その長い辺の1つが全面ガラス張りになって道路に面している。これまで、このガラスのすぐ内側には、2人が対面して坐ることができるテーブルと椅子のセットが3組置かれていた。椅子は、ガラスと平行に置かれており、ここに坐るとき、客は、ガラスを横に見ることになっていた。

 ところが、この部分のテーブルと椅子が取り払われ、その代わりに、窓に面してカウンター席が作られたのである。カウンター席に坐ると、客は、窓と向かい合い、そして、店に背を向けることになる。これは、ずいぶん不思議な体勢であるように私には思われた。

プライベートな空間を確保したいのか

 たしかに、このタイプの座席を持つコーヒー店は少なくない。実際、ボンヤリと眺めていると、このカウンター席から埋まって行くようである。ただ、私自身は、他に空いた席があるかぎり、コーヒー店でカウンター席を選ぶことはない。着席したとき、視野に十分な奥行きがある方が、私にとっては落ち着くからである。

 以前、電車の座席について、次のような記事を投稿したことがある。


電車に乗るとき、座席のどこに坐るか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

ロングシートはなぜか両端から埋まって行く 電車に乗ると、固定された座席があるのが普通である。(何年か前、通勤時間帯だけ座席が畳まれ、誰も着席できないようになる車両が東京のJRのいくつかの路線に導入されたけれども、これは、廃止されるようである。)座席が空いて

 多くの日本人は、誰も坐っていないロングシートに最初に坐るとき、左右いずれかの端を選ぶ。ロングシートの両端は、二方向が仕切られており、「隠れ場」や「居場所」になるからなのであろう。

 コーヒー店において窓や壁に向かい合うように着席するカウンター席が好まれるのもまた、同じ理由によるのであろう。すなわち、他の客や店の広がりが視界から消去され、洞穴に似た仮想的なプライベートスペースないし「縄張り」が産み出されることがカウンター席に期待されているに違いない。(全部の座席が衝立のようなもので仕切られているコーヒー店があれば、大人気になるはずである。)

コーヒー店にプライベートスペースを求めることは適切なのか

 しかし、電車のロングシートに最初に坐るときに中央を選ぶ私は、コーヒー店でも、店のほぼ中央、前にも後にもほどよい空間の広がりがある席を選ぶことが多い。そして、このような席からカウンター席の客を眺めるとき、これらの客の背中は、それぞれの「縄張り」を主張するとともに、コーヒー店の空間、その空間にいる客、その空間に配置されているさまざまなモノに対する積極的な拒絶の意思表示のように見えてしまう。

 そもそも、コーヒー店の座席にプライベートスペースとしての役割を期待するのは、必ずしも適切ではない。コーヒー店というのは都市における街頭の延長であり、このかぎりにおいてオープンな空間である。多くのコーヒー店がセルフサービスなのは、それが本質的に屋台だからである。

 したがって、コーヒー店で他の客に背を向けてプライベートスペースを確保しようとするのは、路上に自分の荷物を広げて縄張りを確保しようとするのと同じであり、決して好ましいことではないと私は考えている。都市における公共の空間とコーヒー店との連続を考慮するなら、路上でしない方がよいことは、誰からも咎められないとしても、コーヒー店でもまた避けた方がよいことになる。

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