AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 都市と環境

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現地の人々の生活は特に面白くないことが多い

 地方を旅行するたびに心に浮かぶ疑問がある。地元の人々とのあいだの何らかの「触れ合い」を求めるというのは、旅の本質との関係において、間違ったことなのではないかという疑問である。

 私自身も、旅先で地元の人とのコミュニケーションを経験することがないわけではない。ただ、このようなコミュニケーションはすべて、偶然の産物であり、コミュニケーションを目的として旅したことは一度もない。

 ずいぶん前、アメリカを旅行したとき、私は、あることに気づいた。それは、「観光スポット」として整備された場所には行く価値があるかも知れないとしても――人類学的、社会学的なフィールドワークを目的とするのでないかぎり――「ごく普通のアメリカ人」の生活を現地で体験しても、それ自体は、特に面白くはないということである。

観光スポット以外の場所に行くことは、時間と体力とカネを無駄にする危険がある

 日本でも外国でも、観光スポットというのは、遠方から足を運んでも損する可能性が低い空間のことである。だから、観光スポットを巡回しているかぎり、嫌な思いをする可能性はあるとしても、「徒労」や「空虚」を覚える危険とは無縁である。

 観光スポットが時間と体力とカネを使って訪問するに値する場所であるということは、しかし、観光スポット以外の空間では、時間と体力とカネにふさわしい体験が得られないおそれがあることを意味する。少なくとも、観光目的で旅行するなら、観光客がよく訪れる観光スポット、商店、ホテルなどで時間を過ごすのが無難であることになる。

 この点を実感するには、旅先で、地元の人々が日常的に買いものするスーパーマーケットを訪れ、店内をブラブラと歩き回るとよい。市街地にある店なら市街地にある店なりに、郊外の巨大な店なら郊外の巨大な店なりに、旅行者としての私たちがそこで目にするのは、多少の違いはあるものの、基本的には、「ガッカリするほど普通の光景」のはずだからである。

 私は、アメリカを旅行中、ちょっとした日用品が急に必要になり、滞在していたホテルのすぐ近くにある地元のスーパーマーケットに行ったことがある。私がそのとき滞在していたのは、白人がやや多い、どちらかと言うと高級な住宅地の中にあるホテルであったが、やはり、そのスーパーマーケットの店内には、(客と店員の肌の色が黒人であることと、照明に蛍光灯が使われていないことを除けば、)日本の都市の同等のエリアにある店と同じような光景が広がっていた。(学校帰りの女子高校生の集団がウロウロしながらお菓子の品定めをしているところまで日本と同じであった。)

 京都でも、札幌でも、あるいは、那覇でも、事情はまったく同じであるに違いない。

旅先で「触れ合い」方を間違えると、何のために遠くまで来たのかわからなくなる可能性がある

 私が旅でどこかを訪れ、この地域が私にとって魅力的に見えるとしても、その地域のすべてが(私の住む地域――つまり東京――にはない)魅力を具えているわけではない。また、旅先での体験が質の高いものであったとしても、この質は、現地で生活する人々の生活の質を反映するものではない。

 「触れ合い」という名のゲームに参加しているだけであるなら、何ら心配すべきことはないのかも知れないが、本当の意味における「触れ合い」を求め、「暮らすように旅する」などというのは、旅の「センス」(?)があり、相当な場数を踏んでいる上級者にのみ許されたことなのではないかと私は考えている。

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 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

京都の文化的ディープ・ノース

 栂尾〈とがのお〉は、京都の北の方、清滝川が作る渓谷沿いにあるいわゆる「三尾」(高雄〈たかお〉、槇尾〈まきのお〉、栂尾)のうち、もっとも北のエリアである。

 だから、京都駅から出発する場合、各駅停車の路線バスで約1時間かかる。京都市内の観光に要する移動時間としては、1時間は長い方だと思う。

 同じ「北」とは言っても、鞍馬には電車が通っており、鞍馬寺の門前にはそれなりの規模の集落があるから、あまり奥まった感じがしないのに反し、栂尾のバス停は、清滝川の谷の上を走る道沿いにあり、バス停を降りて見渡しても、鬱蒼とした林が目に入るばかりで、集落と呼ぶことができるほどのものはない。これは、栂尾に向かう途中で通過する高雄や槇尾とも異なる点である。

 もちろん、東京に住んでいても、多摩地域の西の方に行けば、同じようなロケーションに身を置くことができないわけではない。ただ、東京の場合、このような場所は、ほぼ例外なく、ハイキングコースであって、行った先に重要文化財があるわけではない。

 これに対し、栂尾に行くには、登山靴もリュックサックも要らない。また、ものすごく貧弱であるけれども、バス停前に飲食店があるから、弁当を用意する必要もない。栂尾は、まぎれもなく京都の都市文化の北の涯であり、文化的な観光スポットなのである。

明恵と鳥獣戯画と茶園の寺だが、高齢者には向かない

 栂尾までわざわざ行く目的は、誰にとってもただ1つ、それは、高山寺である。(一般に「こうざんじ」と言われているが、「こうさんじ」が正しい発音のようである。)と言うよりも、栂尾のバス停を降りて目に入るのは、高山寺の山門へと上がる階段だけであり、栂尾に到着したら、高山寺に行く以外にすることがないのである。

世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ

 よく知られているように、高山寺は、明恵(1173~1232年)がみずからの修行のために開いた寺である、山の斜面にへばりついたような境内には、日本最古の茶園があり、有名な国宝「鳥獣人物戯画」(の普段はレプリカ)を見ることができる。

 特に真冬の天気のよい午前中に訪れ、境内を歩くと、外界から隔絶された静けさを味わうことができる。これほど隔絶した感じを東京で味わうことは難しいであろう。


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パブリック・ドメイン, Link


 高山寺は、それ自体としては小ぢんまりとしており、境内は大して広くはない。また、京都にある山寺としては、手入れが行き届いて清潔、安全でもある。
 ただ、境内は、大半が斜面と階段である。特に、雪が残る時期には、地面がところどころぬかるんでおり、危険でもある。この意味で、高齢者には向かない観光スポットであると言うことができる。

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 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

京都の中では観光客が相対的に少ない

 大規模な植物園は、東京にもないわけではないが、私は、あまり行かない。

 だから、京都で時間があるときには、京都府立植物園を訪れることが多い。

京都府立植物園

 京都よりも小さな街から京都に来る人は、この植物園のような「作り込まれた自然」には魅力を感じないのではないかと思う。そのせいなのかどうかわからないが、植物園には――おそらく桜の季節を除き――観光客は必ずしも多くはない。

 敷地が広いということもあるのであろう、この植物園が、全体としては人口密度の低い観光スポットであることは確かである。

 同じ緑地の中でも、人口密度は京都御苑や下鴨神社よりも格段に低いはずである。特に、植物園に立ち入るには、わずかであるとは言え、入場料が必要である上に、園内へのペットの持ち込みが禁止されているから、散歩中の犬から吠えられたり飛びつかれたりする危険がなく、安全に散歩する(?)ことが可能である。これもまた、少なくとも私にとっては、植物園を訪れるメリットである。

南側のゲートから賀茂川に直に出られる

 植物園は、開園前からこの場所にあった原生林を取り込む形で作られている。したがって、園内に原生林と一緒に取り込まれた半木(なからぎ)神社の周囲を中心に、いかにも古そうな林を見ることができる。これはこれで落ち着く空間ではある。

 ただ、原生林を取り込んで作られた植物園なら、東京にもある。それどころか、人口1人当たりの公園緑地の割合を単純に比較するなら、京都よりも東京の方が多いのである。(京都市が3.1平方メートル、東京都が5.76平方メートル。)

 それでも、私が京都府立植物園に行くのは、これが賀茂川に隣接しているからである。

 私自身は、植物園を訪れるときには、地下鉄で北山駅まで行く。(時間によっては、北山通り沿いに並ぶ飲食店で一休みしたあと、)北山通りに面したゲート(北山門)から入って南側のゲート(これが正門に当たるらしい)へ抜けることにしている。(反対でもかまわないが、その場合には、賀茂川門から出ることになる。)

賀茂川

 植物園は、敷地の西側を賀茂川によって区切られている。(この間の賀茂川沿いの道が「半木(なからぎ)の道」である。)したがって、南側のゲートを出ると、すぐ右に賀茂川の土手があり、天気がよければ、この土手を超えて川原に出て、賀茂川沿いをしばらく歩く。東京の場合、都心を流れる川の大半は暗渠になっており、広い河川敷がないばかりではなく、川を見る機会すらほとんどない。だから、賀茂川(鴨川)沿いを歩くのは、東京の人間にとっては、特別に気持ちがよい体験になるのである。

千本通 京都

 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

かつての「朱雀大路」

 京都を歩いていて、初めて千本通り(せんぼんどおり)に出たとき、よそ者の私にとって、千本通りは、京都の中心部を南北に走るいくつもの通りの1つでしかなかった。しかも、堀川通りや烏丸通りのような車線も交通量も多い大通りとは異なり、千本通りについては、何の印象もなかった。京都をよく訪れる人なら、千本通りに1度は出たことがあるはずであるが、大抵の場合、何も記憶に残っていないはずである。

京都観光Navi:千本通

 しかし、この印象は、千本通りが平安京のメインストリートである「朱雀大路」であることを知るとともに、完全に覆った。もとの朱雀大路よりもはるかに狭い小さな通りになってはいるけれども、これは、京都でもっとも古い道であり、真面目に歩いてみる価値はあるように思われた。

通り沿いに「流行の観光スポット」がほぼ何もない「パッとしない京都」のメインストリート

 とはいえ、私は、千本通りを隅々まで歩いたわけではないし、千本通りに歴史的な意義があるかどうかについても、よくわからない。

 ただ、確かなことが1つある。千本通り沿いには、流行の観光スポットがほぼ何もないのである。

 名所旧跡の類が少ないだけではない。京都の「名店」と呼ばれるもので、千本通り沿いに本店を構えているところは、決して多くはないはずである。上の写真に映っているのは千本五辻交差点であり、右側の建物は、有名な五辻の昆布の本店であるけれども、これは、全体の中では例外に属するように思われる。

 実際、過剰に開発された印象を与えるJRの二条駅周辺を除けば、むしろ、東京の人間に、千本通り沿いの眺めは、時代から取り残された感じを与える。

 観光客風の歩行者の姿はほとんどなく、日本のどこにでもある全国チェーンの店とともに、地元の客だけを相手にしているような、開いているのか閉じているのかよそ者にはわからないような商店がところどころにあり、通りから奥にのびる路地の両側には、中途半端に古い――つまり観光客向けにリノベーションされていない――微妙な木造建築が目立つ。(千本通りに面したところにある建物も、よそ者が京都について抱く印象を裏切る「おざなりな」デザインのものが少なくない。)

 千本通りを歩くと、寺町や新京極のような「安っぽく装われた観光地」、あるいは、祇園のような「作り込まれた京都」とは対照的な「パッとしない京都」を見ることができるのであり、東京の人間の目には、この微妙な「パッとしなさ」が新鮮に映るのである。

光悦寺

 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

借景がすばらしい

 光悦寺は、京都の北部、鷹峯にあり、書や陶芸で知られる本阿弥光悦の旧宅を光悦の死後に改装して生まれた寺である。

京都観光Navi:光悦寺

 だから、光悦寺は、名刹、古刹が多い京都の寺としては新しい方に属する。(しかも、現存する建物はすべて、明治以降のものである。)実際、ここを寺院として訪れる人は決して多くはないに違いない。

 むしろ、東京の人間にとり、この寺の最大の魅力は庭園である。庭園に借景として取り込まれている鷹峯三山がすばらしい(←非常に月並みな感想)。私が訪れたときには、平日の午前中で、他に誰もいなかったため、「大虚庵」の縁側に腰を下ろし、しばらくのあいだボンヤリとあたりを眺めていた。

最適の時期は桜が散ってから梅雨入りまでのあいだ

 光悦寺をのんびり訪れるのなら、最適の時期は新緑のころであると思う。借景となっている山の緑、そして、境内の緑が美しいからである。反対に、秋に光悦寺に行くことはすすめない。ここは紅葉の名所であるけれども、人出が多く落ち着かないはずである。

 なお、光悦寺を出て左方向に歩いて行くと、林の中を抜ける急な下り坂の入口に辿りつき、この坂を下りて行くと、鏡石通りに出る。これは、大文字山の麓を走る通りであり、ここもまた、独特の風情がある。

 だた、地図を見るとわかるように、この通り――ゆるい下り坂――を歩いても、すぐにはどこにも出られない。散歩を短時間で切り上げるには、鏡石通りに面した複合商業施設の「しょうざん」――ここの庭園は、手入れが行き届いてそれなりに美しい――に裏口から入って千本通りへと出るのが近道であるが、そもそも、「しょうざん」の施設を利用せず、ただ敷地を無断で通り抜けることになるわけであり、私の感覚では、これは決して好ましくないように思われる。

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