AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 都市と環境

大沢池

 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

嵯峨野の大沢池は桜と月の名所ということになっている

 個人的に最初に連想するのは、嵐山の大沢池(おおさわのいけ)である。

京都観光Navi:名勝 大沢池

 大沢池は、嵯峨天皇の時代に造られた人工的な池――だから水深はごく浅い――であり、大覚寺に隣接している。この池は、一応、大覚寺の所有になっているようであるが、入口は大覚寺とは独立である。表向きは、春の桜と秋の月が有名であるということになっている。(また、池のほとりには、「名古曽滝跡」なるものがあるが、正直なところ、文字どおり「名前だけ」であり、「どこがどう『滝』なのかよくわからない」史跡ではある。)

時代劇のロケ地であり、京都にあるにもかかわらず、「江戸」を感じさせる

 しかし、京都と聞いて大沢池が想起される最大の理由は、この池が太秦にある撮影所に近く、そのせいで、時代劇のロケに頻繁に使われてきたからであろう。池を一周すると、「暴れん坊将軍」「剣客商売」「鬼平犯科帳」などで、時間やアングルを変え、「大川」や「不忍池」など、「水辺」として数えきれないほど使われる場所がすぐに見つかる。(それぞの番組の最後のクレジットに「大覚寺」が必ず登場するのはそのためである。)

 つまり、大沢池は、嵯峨野というもっとも京都らしい場所に位置を占めるにもかかわらず、「江戸」を演出する舞台装置にもなる。私がこの池――水は決してきれいではないが――に惹きつけられるのは、時代劇の中にある「江戸らしさ」が感じられるからであると言えないことはない。

シーサー

原則:自家用車なしの旅では、行動の自由がいちじるしく制限される

 一昨年と去年、ひとりで沖縄に行き、それぞれ3泊4日で方々を歩き回ってきた。

 私は、沖縄には地縁も血縁もなく、普段から連絡を取り合うような親しい知人がいるわけでもない。だから、旅行中は、ほぼ完全な単独行動であった。ルートを自分で組み立て、行きたいところに行ってきたのである。

 とはいえ、私には自動車の運転ができない。運転免許を持っていないのである。自宅も職場も東京23区内の場合、自動車を持っているメリットはほとんどないのに対し、誰でも直観的にわかるように、沖縄の社会は、誰もが自動車を運転し、それなりの距離を短時間で移動することを前提として成り立っている。

歩行者は最初からお呼びではない

 実際、一昨年、沖縄に行ったときには、こういうことがあった。

 那覇から高速バスに乗って名護に行ったときのことである。名護のバスターミナルに辿りついてバスを降り、ボンヤリと周囲を眺めていたとき、近くのビルの上にあるマクドナルドの看板が目にとまった。

 この看板を見た私の心に最初に浮かんだのは、「ああ、この近所にマクドナルドがあるのか」という実につまらない感想であった。しかし、何秒かこの看板を見つめているうちに、私は、強烈な違和感に襲われた。というのも、この看板は、マクドナルドが「5km先」にあることを告げていたからである。

 東京23区では、「5km先」に店があることを知らせる看板など、何の役にも立たない。もっと近くに別の店があるからである。しかし、沖縄では、店まで徒歩で1時間以上かかる距離にある場所に看板を出すことに意味があるらしい。この看板が自家用車を運転する者が見ることを想定して設置されたものであり、「歩行者」などは最初からお呼びではないことを私は理解した。

 社会全体が自家用車に最適化されているから、運転ができないと、那覇市の中心部のごく狭いエリアを除き、ガイドブックに掲載されているような観光地の大半について、アクセスは途方もなく困難になる。

沖縄本島の南半分については、時刻表を細かくチェックして計画を立てれば、大体の観光地は何とかなる

 もちろん、運転できないと移動の自由が制限されることは、沖縄に行くことを思いついたときから、私にも何となく想像がついていた。観光地を案内するウェブサイトを見ても、ガイドブックを見ても、自家用車によるアクセスの方法しか記載されていないところが実に多いのである。

 だから、私は、バスとタクシーで行けるところまで行き、どうしても行けないところは諦めることにして旅行の計画を立てた。あれこれ調べているうちに、沖縄本島のうち、名護市より北のエリアの観光スポットは、自家用車を運転することができないと手も足も出ないところが多いけれども、南の方は、自動車を運転できなくても、バスとタクシーと徒歩を組み合わせることでアクセス可能なところが多いことがわかってきた。

 行きたいところを決めたら、路線バスでアクセスすることができるかどうかをガイドブックやウェブサイトでチェックする。そして、路線バスでアクセス可能であることがわかったら、

バスなび沖縄

バスマップ沖縄

を利用して、

    • どこの停留所から、
    • 何時何分に
    • どのバス会社の
    • どの系統に乗り、
    • どこの停留所で降りるか、
    • そして、この停留所からどのように歩くか

を、行きたいと思う観光地のそれぞれについて、すべてメモしておく。山の中で道に迷う危険があるから、スマホまたはタブレット型端末は必携であろう。

 観光地によっては、最寄りの停留所を通過するバスが1日1本しかないようなことがある。そのような場合、もう少し便数の多い路線を使い、少し離れた停留所から歩いた方がよい。

 私は、糸満市にある「白梅の塔」を訪れた。白梅の塔とは、従軍看護婦として第二次世界大戦で動員され、犠牲になった沖縄県立第二高等女学校の生徒たち(白梅学徒隊)の慰霊のために建立された記念塔である。

白梅学徒隊 - Wikipedia

 白梅の塔は、「ひめゆりの塔」ほどには有名ではないけれども、その分、観光地化されておらず、静かな雰囲気が保持されている。私自身、白梅の塔を訪れたときには、誰のことも見かけなかった。

 それでは、この白梅の塔に公共の交通機関だけでアクセスする場合、どのバス停を使えばよいのか。純粋に物理的な距離だけを考慮するなら、白梅の塔にもっとも近いのは、沖縄バスの86系統の「田原入口」という停留所である。停留所から白梅の塔までは徒歩5分くらいなのではないかと思う。

 しかし、この「田原入口」を通過するバスは1日にわずか2本、しかも、通過するのは、いずれも午前7時台である。したがって、この系統のバスを使って白梅の塔に行くことは現実的ではないことになる。

 そこで、私は、糸満バスターミナルからバスに乗り、「真栄里」という停留所まで行き、ここから白梅の塔まで歩いた。「真栄里」バス停から白梅の塔までは、私の足で約20分であった。

 「真栄里」は、白梅の塔からは少し離れているけれども、名城バイパスに面したところにあり、複数の会社の複数の路線のバスがここを通過する。15分も待てば、糸満バスターミナル行きのバスに乗ることができるのである。

 なお、次のブログの筆者は、「県営新垣団地入口」という停留所を使ったようであるが、この停留所も、通過するバスの本数が極端に少ない。

沖縄本島縦断 路線バスでゆく大人の修学旅行 第4日

沖縄の人は時間にルーズと言われるが、交通機関は基本的に定刻どおりに運行されている

 東京には、沖縄県の人々について、「時間にルーズ」という印象を持っている者が多い。たしかに、必ずしも時間が守られない場合は少なくないのかも知れない。ただし、バスは、道路の渋滞がないかぎり、基本的に定刻どおりに運行されている。バスの運行管理が杜撰であったら、バスに頼って沖縄を旅するなど不可能であるが、この点について心配する必要はないようである。

教訓:困ったら潔くタクシーを使うべし

 白梅の塔を訪ねたのと同じ日、これに先立ち、私は、同じ糸満市の喜屋武岬に行った。ここは、沖縄戦の激戦地である。

喜屋武岬 - Wikipedia

 上に掲げたブログの筆者も、白梅の塔と同じ日に喜屋武岬を訪れたようである。

 当初、私は、上のブログの筆者が辿ったのと同じルートで喜屋武岬にアクセスしようとした。つまり、喜屋武岬の手前にある同じ名前の集落までバスで行き、そこから徒歩で喜屋武岬に行くつもりだったのである。ところが、バスの乗り継ぎが上手く行かず、そのため、上のブログの筆者がバスを降りたところまでタクシーで行き、そこから歩くことにした。

 ところが、タクシーに乗り、「喜屋武の集落まで行ってほしい、そこからは歩く」と運転手さんに言ったところ、「やめておいた方がよい、悪いことを言わないから、喜屋武岬まで乗って行け」という返事が戻ってきた。

 なぜ喜屋武岬までタクシーで行くことをすすめられたのか、最初はわからなかったけれども、実際に行ってみて、運転手さんのすすめに従って正解であったと強く感じた。というのも、上のブログの筆者が歩いたときとは様子が異なり、私が喜屋武岬を訪れたときには、集落から岬までのあいだの農地が土地改良のための大規模な工事中で、狭い道路をダンプカーや重機を積んだトラックが頻繁に行き来していたからである。当然、歩行者が路上にいる可能性など、まったく考慮されておらず、危険な状態でもあった。タクシーに乗っていなかったら、私は、途中で引き返していたと思う。

 路線バスにこだわらず、必要に応じて柔軟にタクシーを使うことは、時間と体力の節約になるばかりではなく、安全でもあることが多い。私は、ある程度以上長距離の移動にはバスを使ったけれども、移動距離が短いときにはタクシーを頻繁に使った。(各地の観光案内所には、地元のタクシー会社の電話番号が必ず掲げられており、電話で簡単に呼ぶことができる。)

 自家用車を使わずに沖縄を旅行するなら、短距離の移動はタクシーが便利である。ただし、那覇市の中心部については、このかぎりではない。というのも、時間によっては渋滞が激しく、バスであれタクシーであれ、自動車がまったく使いものにならないことがあるからである。

15, Obuse Station, Nagano, Japan
 先週の水曜日(2017年3月15日)、長野県の小布施町を訪れた。私は自動車を運転しないから、行きも帰りも、交通手段は鉄道である。東京駅から北陸新幹線で長野駅まで行き、長野駅で長野電鉄に乗り換え、小布施駅まで行ったのである。

 小布施駅から緩い上り坂の道を歩いて10分弱で街の中心に辿りつく。小布施町が「街並み修景事業」と名づける街づくりが進められたエリアである。

 たしかに、葛飾北斎の作品の展示施設である北斎館と和菓子屋の小布施堂本店を中心とする半径300メートルくらいの範囲では、統一した外観の家並みを見ることができる。(とはいえ、この街並みを構成する建物の大半は、観光関連の施設である。)

 また、小布施の「観光スポット」の大半は、この狭い範囲に集中しており、半日もあれば、すべて回ることができる。私自身、小布施に滞在したのは正味5時間くらいであったけれども、ひとりの旅なら、これで十分である。

 私が小布施に行ったのは、街並みを観察するためであり、これは、広い意味で自分自身の仕事の一部であった。
 たしかに、街の中心のごく限られた範囲では、建物の外観が和風に統一され、ある意味では美しい街並みが形作られていた。けれども、その外側は、基本的にはごく普通の田舎町であり、そこに広がっていたものは、観光地というよりも、むしろ、住宅地であり農地であり山林である。街の中心の一帯は、独特の人工的な雰囲気により、周囲から浮かび上がっていた。

 そして、北斎館を中心とするエリアとその周辺を歩き、そこにいた観光客を眺めながら、私は、ある疑問に逢着した。それは、必要に迫られているわけでもないのに、なぜ自分の住む街を離れて田舎町に出かけるのか、という疑問である。というのも――地元ので暮らす人々には非常に失礼な言い方になるけれども――小布施には、東京に住んでいる者に特に魅力を感じさせるようなものは、北斎の肉筆と北信五岳の眺めを除けば、特に何もないように思われたからである。

 私自身が東京生まれ、東京育ちであり、田舎というものを持たないせいなのかも知れないけれども、観光を目的に東京以外の場所、特に小布施のような小さな町に出かける理由がよくわからない。小布施は、この規模の田舎町としては、街づくりに非常に熱心であり、田舎町に特有のおざなりなところが目につくことはなかった。それでも、仕事に少しでも関連する具体的な課題がなければ、片道4時間かけて出かけて行くことはなかったに違いない。

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 東京を離れ、観光のためにわざわざ出かけるに値する街が日本のどこかにあるとするなら、それは京都だけであるに違いない。というのも、日本の都市はすべて、東京を模範と見なし、小型の東京、あるいは、東京もどきとなることを街づくりの目標としているが、京都だけは、東京を追いかけることなく、本質的に別の道を歩もうとしているからである。

 しかし、ことによると、私の問いの立て方が間違っているのかも知れない。すなわち、東京で暮らす者が小さな田舎町を観光を目的に訪れるのは、東京にはない魅力が田舎町において認められるからであるというよりも、むしろ、東京において出会われる何か不快なものが田舎町にはないと感じられるからであると考えるべきなのかも知れない。

Ginza street

 銀座、赤坂、日本橋などを歩いていると、「昔の名店」を見つけることがある。「昔の名店」というのは、つまり老舗のことではないかと思う人がいるかも知れないが、ここで「昔の名店」と呼ぶのは、老舗とは少し性質を異にする店である。

 私が考える「老舗」というのは、昔からの同じ商売によって評価を獲得しているばかりではなく、社会とのあいだに同じ関係を長期間にわたって維持している店を指す。つまり、老舗が「老舗」と呼ばれるための条件は、開店のころと同じ客層を相手にしていることであると私は考えている。

 たとえば、開店から100年になる蕎麦屋が都心のどこかにあるとする。この店が老舗であるとは、100年前、この店がまだ老舗ではなかったころ、この店が主な客層として想定していた人々が、現在のこの店で食事している人々と社会的にほぼ同等であること、つまり、両者のあいだに連続が認められることを意味する。このような店は、現在でもいくらか残っているに違いない。

 しかし、現在、いわゆる「老舗」の多くは、たしかに昔から同じ商売を続けてはいるが、客層を大きく変えてしまったように見える。特に都心では、その多くは、もはや、「老舗」となる前から相手にしてきた客層によって支えられてはいない。客の中心を占めるのは、その店を自分が属する社会階層にふさわしい店として認めてきた人々ではなく、その店の名前に引き寄せられてきた観光客である場合が少なくないように思われる。同じ客層から獲得した信用ではなく、「老舗」としての単なる知名度によって商売を続けるこのような店を、私は「昔の名店」と呼んでいる。

 都心では、「老舗」の「昔の名店」化、つまり、観光地化がいちじるしい。老舗が老舗であるなら、みずからに対し老舗としての評判を与えた古くからの客層に合わせて商品を改良したり、営業の形態を工夫したりするはずである。しかし、実際には、多くの老舗は、伝統を守り、昔からのものを「変えない」と称し、変化や成長の努力を放棄して現状に居直っているように見える。そして、現状への居直りを伝統と勘違いする――したがって、鑑識眼のない――観光客を主な標的として商売を続けているように見えるのである。昔の名店とは、本当の意味での老舗であることをやめた店、過去の「動態保存」の場にすぎないと考えることができる。

 たしかに、変化と成長の努力を続けながら、しかし、伝統を受け継ぐことは、つねに一種の冒険であり賭けである。古いこと以外に何の価値もないものであるとしても、これを守り続ける方が安全であるには違いない。けれども、老舗で売られている商品であることが現代の生活の要求を満たさなくなるとき、店の経営は伝統芸能のようなものとなり、最終的には、歴史的な遺産として保存されるにすぎぬものとなるに違いない。

Second-hand Reader.

書店の数と売り場面積は都市の文化程度の指標

 世界には、「文化の中心」と呼ぶことのできるような都市がいくつかある。代表的なのは、パリとニューヨークである。パリやニューヨークが本当に文化的であるかどうかはよくわからないが、最近100年に期間を限定するなら、これら2つの都市が広い意味での「人文系」の諸活動の世界的な中心であり、文化の集積がもっとも進んだ都市であることは確かである。ニューヨークは、「20世紀の首都」(capital of the 20th century)――「20世紀の資本」ではない――と呼ばれることが多いけれども、少なくとも外国人の私には、文化的な生産に関するかぎり、この表現は適切であるように見える。

 とはいえ、そもそも、1つの都市が文化的であるかどうかを決めるのは何であろうか?もちろん、たとえば、公園の面積、劇場の数、コンサートが催される頻度、歴史的建造物の数、博物館や美術館の数……、このようなものを指標として使うことは不可能ではない。しかし、いくら公園が多く、博物館や美術館が充実し、歴史的建造物が充満していても、たとえば現在のローマやフィレンツェについて、私は、文化的な都市という印象を持たない。というのも、ローマやフィレンツェにおいて充実しているのは、文化遺産であり、文化の活発な生産を現在進行形で目撃することができることはあまり期待できないからである。

 むしろ、ある都市が文化的であるという印象を与えるもっとも確実な要素は、大きな書店の数、特に、(日本の場合には、)洋書を取り扱っている書店の数であり、大きな図書館の数である。書店の数が多く、売り場面積が広く、取り扱う書籍が多様であるというのは、その都市の文化の程度を示しているように思われる。(文化とは、本来的には言語を用いた文化的生産であり、音楽や美術などがどれほど集積しても、それだけでは、文化的な雰囲気を産み出すのには十分ではないように思われる。)

 この指標を用いるなら、日本でもっとも文化的な都市は断然東京であり、東京は、パリやニューヨークと比べて決して劣ってはいないはずである。東京では、ターミナル駅の近くには、必ず大規模な書店がある。また、神保町、早稲田、本郷などには、古書店が集まるエリアが形作られている。これは、東京に固有の光景であるに違いない。

東京における書店の衰退

 本が読まれなくなったせいなのであろうか、最近は、書店がなくなったり、売り場面積が小さくなったりすることが少なくない。昨年(2016年)の夏、紀伊国屋書店の新宿南店が閉店したのは、私にとっては特に大きな出来事であった。数年前、ジュンク堂書店が新宿から撤退したときにもショックを受けたけれども、紀伊国屋の閉店は、さらに悲しいニュースであった。新宿という街の文化程度が大きく引き下げられてしまったように感じられてならない。

 もちろん、大規模な書店が新しく生まれないわけではない。もう10年以上前になるけれども、東京駅の丸の内口に丸善が開店した。売り場面積はかなり広く、東京で上位5番以内に入るはずである。しかし、一度でも訪れたことのある人ならわかるように、丸善の売り場は、他の大規模な書店と比較すると、やや特殊である。おそらく立地への配慮なのであろう、近所で働く会社員が手に取りそうな本が目立って多いのである。(大規模書店ならではの専門的な本の在庫は少なく、むしろ、店頭に並ぶ本を見るかぎり、実態は「売り場面積が途方もなく広い小規模書店」である。)また、売り場のかなりの部分が文房具と雑貨によって占領されているのも独特である。

 たしかに、東京駅の丸の内側は、以前から、書店も図書館も文化施設もないエリアであり、「文化の砂漠」であった。今でも、丸の内側にある書店は丸善だけであり、他に立ち寄るべき場所が付近に何もない。在庫が多いとわかっていても、、丸善で本を探すためにわざわざ東京駅まで電車で行く客は少ないであろう。店頭に並ぶ本の傾向が、東京駅を通過する客が立ち寄ることを想定した売り場になっているのは仕方がないことなのかも知れない。それでも、本格的な大規模書店が東京から少しずつ姿を消すと、それとともに、東京の文化水準もまた、少しずつ落ちて行くことは確かである。私は、文化的な都市としての東京の将来について、ある危惧を抱いている。

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