AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:反ライフハック > 食生活

 私の職場は、自宅からやや近い。普段は、電車で通勤しているけれども、電車に乗っている時間は、正味10分程度にすぎない。当然、外食する機会は滅多にない。ただ、時間に余裕があるときには、徒歩で帰宅することが可能であるし、実際、歩いて帰ることもある。このようなときには、外で食事することがないわけではない。

 それでも、私は、ラーメン屋とカレー屋には近寄らない。つまり、外で食事するとき、ラーメンとカレーは選択肢から除外している。

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 ラーメン屋とカレー屋を避けるのに特別な理由があるわけではない。汗をかくのが嫌なのである。

 私は相当な汗かきである。季節にもよるけれども、ある程度以上辛いものを食べると、全身から汗が噴き出す。顔が真っ赤になり、戻るまでに少し時間がかかることもある。だから、外でカレーやラーメンを食べたら、着替えが絶対に必要となる。

 昔は、カレーやラーメンを食べると、誰でも全身が汗でびっしょりになると思っていたけれども、ある時期に、カレーやラーメンで誰でも汗をかくわけではないということを知り、愕然とした。たしかに、涼しい顔でカレーやラーメンを食べている人々をよく見かける。あれは、私にとっては謎であるけれども、体質の違いなのであろう。

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 ラーメンについては、もともと好きな料理ではないから、食べられなくても苦痛ではないが、カレーの方は好物であり、外食の選択肢からカレーが失われるのは、私にはかなりつらいことである。しかし、背に腹は代えられないため、外食のメニューは、大量のスパイスが使われておらず、かつ、熱くないものの範囲で探すことになる。

 辛いカレーを食べても汗が出ないようにする方法のようなものがあれば、ぜひ知りたいものだと思っている。

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「ノンアルコールビール」の存在理由は、飲めない人間には謎である

 世の中には、アルコールを含む飲料に似せた、しかし、それ自体はアルコールを含まない飲料というものがある。ノンアルコールのブドウ酒、ノンアルコールのシャンパンなどがあり、それどころか、驚くべきことに、ノンアルコールの日本酒(これは形容矛盾ではないかと思う)やノンアルコールのウィスキー(!)やノンアルコールの焼酎(!)まであるらしい。

 そして、このようなアルコール飲料もどきの「ノンアルコール」飲料を代表するのは、ノンアルコールのビールであろう。国内と国外のいくつものメーカーがアルコールゼロパーセントやアルコールフリーを標榜する商品を製造している。

 とはいえ、私には、なぜわざわざノンアルコールのビールを飲むのか、その理由がわからない。

 あらかじめ言っておくなら、私は、酒をまったく飲まない。レストランで夕食をとる機会があると、店員から「ビールもどき」や「ブドウ酒もどき」のノンアルコールの飲料をすすめられることがあるが、もちろん、私は、すべて断っている。

酒はまずいもの

 これは私の勝手な想像になるけれども、ノンアルコールの飲料を製造したり販売したりしている人々は、私のような飲めない人間について、「酒が飲めないとしても、酒と同じ味のものを飲みたいに違いない」と思い込んでいるのであろうか。しかし、そのとおりであるとするなら、これは、実に安直な発想である。

 たしかに、飲めないけれども「酒の味が好き」という人間がいる可能性はゼロではない。しかし、私のように――体質上の理由もあるが――「まずい」という理由でビールやブドウ酒や日本酒などを飲まない人間は、決して少なくはないはずである。

 ビールの味が嫌いな人間にビールの代用品に対する欲求があるはずはなく、このような人間がビールの「まずさ」を忠実に再現するノンアルコールビールに手を伸ばす可能性は、当然、ゼロである。

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大量の酒を日常的に飲む者のアルコール摂取量を抑えるのには役に立つ可能性がある

 もっとも、ノンアルコールビールのメーカーは、酒を飲まない人間のことなど最初から眼中にないのかもしれない。というのも、普段から大量にアルコールを摂取している者が、摂取量を抑えるためにノンアルコール飲料が使われる場合があるからである。つまり、「置き換えダイエット」と同じ要領で、ビールやブドウ酒をノンアルコール飲料に置き換えるわけである。

 けれども、本人がノンアルコール飲料を口にしていることに気づかないのなら、この置き換えは成功するであろうが、自分が口にしているのがノンアルコール飲料であることを知っている場合、本人は我慢を強いられることになるから、よほどの克己心がないかぎり、アルコールの摂取量は抑えられないであろう。

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家庭料理がプロを模範とするようになったのは高度経済成長期

 今から10年以上前、次の本を読んだ。

"現代家族"の誕生―幻想系家族論の死

 日本の家庭料理は、世界の他の国と比較して多様であると一般に考えられている。たしかに、事実としてはそのとおりであろう。

 しかし、上の本の著者は、日本の家庭料理のメニューが多様化し、主婦が家庭で作る料理のバラエティが急激に増えたのは、戦後の高度経済成長期であることを明らかにしている。つまり、(著者によれば、)1960年代に生まれた日本人の親の世代が現代の家庭の必須の小道具である「家庭料理」のイメージを作り上げた第一世代に当たることになる。高度経済成長以前のながいあいだ、日本人の食卓は必ずしもバラエティに富んだものではなく、また、主婦が炊事にかけていた時間やエネルギーもまた、決して多くはなかったのである。

自律性を失った家庭料理

 しかしながら、時間と手間のかかる家庭料理を作り上げた世代に当たる主婦たち自身が育った家庭には、料理に関し模範となるような者はいなかったに違いない。したがって、彼女たちには、書籍、雑誌、テレビなどを利用してプロの料理人や料理研究家が作ったレシピを手に入れ、これを模範として家庭料理を作り上げる以外に道はなかったはずである。手の込んだ中華料理、洋食、和食、洋菓子などは、このようにして家庭に入り込んできたのである。

 本来、家庭料理とプロの料理は、同じ食事を構成するものであるとはいえ、性格をまったく異にするものである。プロの料理は、たとえ大衆食堂のメニューであっても、本質的に商品である。しかし、家庭料理は、対価を要求する性質のものではなく、当事者たちが満足するかぎり、その内容は特に問題にならない。高度経済成長以前には、主婦が仰ぐべき家庭料理の模範は、主に自分の家庭(または嫁ぎ先)で受け継がれてきたレシピか、ごく簡単な料理本に掲載されたレシピの範囲を超えることはなかったに違いない。

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 ところが、戦後のいわゆる「家庭料理」は、それぞれの家庭において完結するものではなくなる。つまり、料理が成功しているかどうかを決めるのは、両親、子ども、舅姑など、家庭を構成するメンバーではなく、料理店のメニューや料理本になってしまったのである。料理に関するかぎり、家庭は、自律性を奪われ、外部に設定された基準に隷属するようになってしまったことになる。

家庭の主婦は、料理人や料理研究家の「劣化コピー」を目指すのをやめるべき

 もちろん、いくら道具を買い揃えても、いくら下準備に時間をかけても、家庭の主婦がプロにかなうはずはない。だから、家庭料理が外部の基準に隷属するかぎり、その目標は、「時間と手間と技量が許す範囲で、いかにして家族の健康を維持するか」ではなく、むしろ、「プロが作ったような外見と味を、時間と手間をかけずにいかに実現するか」となる。これは、必然の成り行きである。

 冷静考えるなら、主婦というのは、料理のプロではない。というよりも、主婦はいかなるもののプロでもない。以前、次のような記事を投稿した。


紫外線対策のための手袋なるものへの違和感 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

日焼けしたくないという気持ちはわからないわけではないが 5月の中ごろ、休みの日に近所を散歩していたら、1人の高齢の女性が通りを向こうから歩いてくるのが目にとまった。この女性もまた、散歩の途中だったのであろう、両手には何も持たずに歩いていた。 この女性が私の


 主婦は、美容のプロではなく、服飾のプロでもなく、掃除のプロでもなく、裁縫のプロでもなく、選択のプロでもない。当然、料理のプロでもないし、炊事のプロであることが誰かから求められているわけでもない。主婦は自分の炊事の出来ばえを評価する基準を外部に求めるのをただちにやめ、自分の家族にとり本当に必要な食事とは何であるのか、自分が炊事に使うことができる時間や体力を考慮しながら吟味すべきである。

 家事の出来ばえの基準を見失うと、主婦は、家事をまったく放棄してしまうか、あるいは、反対に「丁寧な暮らし」という名の暇人の道楽に際限なく時間と体力とカネを注ぎ込むかのいずれかになり、家族を不幸に陥れることになるように思われるのである。

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「肉じゃが」は家庭料理の代表ということになっているが

 「肉じゃが」は、日本人、特に男性が好む家庭料理であると普通には信じられている。残念ながら、「肉じゃが」の好き嫌いを周囲の男性に自分で確認したわけではないから、実施に「肉じゃが」がどのくらい好まれているのか、私は知らない。

 ただ、私自身は――日本人の男性であるが――「肉じゃが」をあまり好まない。もちろん、目の前に出てくれば、食べないわけではない――つまり、積極的に忌避するほど嫌いではない――けれども、特に食べたいと思ったことはない。いや、正確に言うなら、他の選択肢があるなら、「肉じゃが」を選ぶことはまずないという程度には嫌いである。「肉じゃが」が男性を「落とす」「勝負料理」であるなどという文章に出会うとき、私は強い違和感を覚える。

肉じゃが? 餃子? 「男を落とす勝負料理」のすごすぎる中身とは|【マイナビ賃貸】住まいと暮らしのコラム

「肉じゃが」のしまりのなさが苦手

 私の見るところ、「肉じゃが」というのは、「しまりのない」料理である。(少なくとも私は、「しまりのない」「肉じゃが」しか見たことがない。)

 「肉じゃが」が「肉じゃが」であるためには、肉(牛肉あるいは豚肉)とジャガイモが入っていなければならない。その他に、ニンジンと玉ねぎ、さらに、場合によってはシラタキや絹サヤが入っていることもある。これは、「カレーからスパイスを取り除いたもの」と「すき焼きを水で薄めたもの」を足して2で割った料理である。

 しかし、カレーは、スパイスがあってこそ美味しいものであり、すき焼きは、煮詰められることで生まれる濃い味に価値があるのに、「肉じゃが」は、これら2つをともに欠く煮物であることになる。「肉じゃが」が与える気が抜けた「しまりのない」印象は、この点に由来するように思われる。

「肉じゃが」の「おざなり」なところ

 さらに、「肉じゃが」とは、基本的にジャガイモを味わう料理なのであろうが、少なくとも私の知る範囲では、ジャガイモが煮崩れるのを防ぐためなのか、味が内部にしみこむまで加熱されず、食べるとき、ジャガイモの青臭さが鼻につくことが少なくない。(ジャガイモの青臭さを好む人は、決して多くないと思う。)

 青臭さは、カレーに代表される強力なスパイスで消す、あるいは、コロッケやポテトサラダのように原形をとどめない程度まで加熱することによって消すことができるが、一般的な和風の煮物の味つけでは――味を薄くしても濃くしても――青臭さが消えることはない。(子どものころ、食卓に「肉じゃが」が出てきたことがあった。そのとき、私が「ジャガイモが青臭い」と文句を言ったら、「『肉じゃが』とはそういうもんだ」という返事が戻ってきた。この返事には、今でも釈然としないものを感じる。)

 けれども、青臭さを完全に消すことを目指して何らかの工夫が試みられたという話は、寡聞にして知らない。「肉じゃが」が、しまりのない料理であるばかりではなく、細部に関し「おざなりな」料理であるという印象を与える原因の一つはここにある。同じ煮物と言っても、「肉じゃが」は「筑前煮」に遠く及ばないと私は考えている。

「肉じゃが」で「落とす」ことができるのは、「肉じゃが」が好まれているからではない

 どのような根拠があるのかは知らないが、「肉じゃが」が男性を「落とす」のに効果的であると普通には信じられているようである。しかし、実際には、「料理が何であっても、落ちるときは落ちる」と考えるべきである。「落ちる」かどうかは、本質的にコミュニケーションの問題であり、相手への思いやりの問題だからである。

 「『肉じゃが』さえ出せば落ちる」など、ありうべからざることであることは、少し冷静に考えれば、誰にでもわかることである。(たとえば、私のように「肉じゃが」を好まない者には、「肉じゃが」は逆効果でしかない。)

 味の好みは人によりまちまちである。。何らかの手料理を手段として男性を「落とす」ことを望むのなら、標的となる男性の好みを徹底的に調べるべきであろう。

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食事に制限のある病人を看護していると

 10年以上前、親族の看護のため、病院に2ヶ月近く泊まり込んだことがある。

 看護のために病院に毎日通うというのは、それまでにも経験があったけれども、病院に泊まり込むのは、そのときが最初――であり、今のところは最後――である。

 その親族の病気は、食事に関して厳しい制限があり、私は、入院前から在宅で半年近く付き添い、食べものの選択と調達に関して試行錯誤を繰り返していた。

 当然、普通のスーパーマーケットで売られているもの、普通の飲食店で提供されているものなどはほぼすべて、この病人には、そのままでは食べられない。口にすることができたのは、高カロリーの――当然、非常にまずい――流動食だけであった。

 そして、このような病人と一緒に生活していると、食べものを見る目が次第に変化してくる。何を見ても、「病人に食べさせられることができるかどうか」という観点から評価するようになってしまうのである。

 飲食店で普通に食事する人々を見るたびに、あるいは、コンビニエンスストアで普通の食品を買う人々を見るたびに、「ああ、この人たちは健康なんだな」という感想が心に浮かぶ。

 もちろん、普通に食事している人たちのすべてが健康とはかぎらない。それでも、最低限の健康を前提として提供される食べものをそのまま口にすることができるというのは、私の目には光り輝くような健康の証と映った。

普通の食事は最低限の健康を前提とする

 病院への泊まり込み――もう2度とやりたくない――から10年以上経つ。私が看護した病人は、すでにこの世にはいない。それでも、私は今でも、街を歩いていて飲食店の看板に記されたメニューを眺めるとき、そこに記された料理がその病人には食べられないことを確認していることに気づく。そして、そのたびに、きわめてまずい流動食しか口にすることができずに亡くなった病人に深く同情するとともに、普通に自由に食事することを私に許すみずからの健康に感謝する。

 街の普通の飲食店で普通に食事するためには、最低限の健康が必要であること、そして、世の中には、この最低限の健康を奪われている人が少なくないこと、看護の経験は、私にこのような点を教えた。食事を粗末にすることなく、毎回の食事を大切にするようになったのは、それからである。

 「丁寧な暮らし」は、私の大嫌いな言葉である。次のブログに記されているように、いわゆる「丁寧な暮らし」は、暇人の道楽でしかないと思う。

「丁寧な暮らし」とかしてる奴は滅亡しろよ : やまもといちろう 公式ブログ

 ただ、食事に関するかぎり、これをそれなりに「丁寧」に扱うことは、健康を維持するために、そして、何よりも、健康に感謝するために、決して無駄ではないに違いない。

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