AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:反ライフハック > 食生活

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1日3食×365日=1095回

 1日に3食を規則正しく摂ると、私たちは、1年間に1095回(うるう年には1098回)食事する。10年間で10950回、50年間で54750回も食べることになる。

 「これだけ食べなければ生命を維持することができない」と考えるなら、人間の生命というのは、ずいぶん効率悪くできているということになるのであろうが、実際には、食事は、生命を維持するために必要なもの、やむをえざるものであるばかりではなく、これには、生活を人間的なものにするために必須の楽しみとしての側面がある。

 以前に投稿した別の記事で書いたように、人間の味覚は保守的である。


おいしさの幅 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

人間の舌は保守的 人間は、年齢を重ねるとともに、味の許容範囲が広がり、おいしいと思える食べもののバラエティが増えて行くものだと私は信じていた。実際、子どものときにはとても食べられなかったような紫蘇やタラの芽を、大人になってからはそれなりにおいしく食べられ

 それにもかかわらず、新しい味、新しいレシピが世界のどこかでつねに産み出されている。これは、食事が生理的な現象であるというよりも、本質的に文化的な現象だからであると考えるのが自然である。(さらに言えば、食事というのは本質的に「社交」であるから、食事の質を左右するもっとも重要な要素は、「何を」ではなく、「誰と」「どのような状況のもとで」である。)

 1年間で1095回の食事は、文化的な活動である。つまり、いつ、何を、どこで、誰と、どのように食べるかというのは、私たち一人ひとりの生き方の問題となるのである。

食べたいように食べるか、それとも、健康を優先するか

 この世には、健康によいものが食べたいものと一致する幸福な人がいないわけではない。しかし、私を含め、大抵の場合、両者は一致しない。

 つまり、健康に配慮するなら、食べたいものを我慢しなければならないし、食べたいものを食べたいように食べることにより、健康はいくらか犠牲にならざるをえない。

 さらに言い換えるなら、今後の人生において出会う食事の回数を増やすためには、健康的な(、したがって、場合によってはあまりおいしくない)食事を選ばなければならず、反対に、おいしいけれども必ずしも健康的ではないような食事を重ねることにより、残された食事の回数は制限されることになるのである。

 問題は、両者のバランスである。何を食べるかを決めるにあたり、健康は重視すべき要素の1つではあるが、食事が本質的に文化的な活動であり、(ただひとりの食事であるとしても、)社交である以上、もっとも大切なのは、食事が楽しいことである。

 したがって、食事が社交であるかぎり、どれほど健康を増進する効果があるとしても、健康を増進する効果があるというだけの理由によってまずいものを我慢して選ぶようなことがあってはならない。ただ健康的であるにすぎぬまずいものは、もはや食事ではなく、餌にすぎないからである。

人生の終わりに思い返し、食べなかったことを後悔する可能性のあるものは今すぐに食べるべし

 私たちには誰でも、好きな食べものがある。それは、必ずしも毎日のように食べたいものではないかも知れないが、やはり、ときには優先的に食べたいと思うものであり、人生の最後に自分の食事を振り返り、「ああ、あれを食べたかったな」とか「ああ、もう一度あれを食べたい」と願うようなものであるに違いない。しかし、人生の本当の最後になったら、その願いは、主に体力的な事情により、もはやかなわないかも知れない。

 だから、死ぬまでには食べたいもの、食べずに死ぬわけには行かないものがあるなら、それは、健康やダイエットに悪影響が及ぶとしても、すぐに食べるべきである。

 また、「これを食べなかったことを死ぬときに後悔するかどうか」は、食べるべきものを決めるときにつねに考慮されるべき問いであると私は考えている。

和菓子 : Japanese sweet

和菓子における「見立て」と「写し」

 「見立て」と「写し」というのは、和菓子に関してよく用いられる区別である。

 食品以外の何か、特に、それ自体としては形を持たないものを間接的に連想させるよう食品の形を整えることを「見立て」と言う。下の記事に記されているように、季節、気候、情緒などを和菓子に語らせるのが「見立て」である。

 これに対し、「写し」は、文字どおり、菓子を何かの形に似せることを意味する。和菓子を用いて主に果物、花、天体、動物などの自然物を模写するのが「写し」である。

File32 和菓子|美の壺

 次の本には、さらに具体的な説明が載っている。

NHK美の壺 入門編 (AC MOOK)

 和菓子を何かに「見立て」るのは、主に上方の文化であり、これに対し、「写し」としての和菓子は、江戸を中心とする文化に属するもののようである。

「見立て」はシンボルまたはインデックス、「写し」はアイコン

 和菓子における「見立て」と「写し」のうち、これを口にする人間にそれなりの知的水準を要求するのは、当然、「見立て」の方である。

 見立てとしての和菓子は、文学における短歌や俳句と同じであり、これを味わうことができるためには、「見立て」られている当のものが日本の伝統的な文化的コンテクストの内部において占める位置をあらかじめ承知していなければならないからである。つまり、このような知識を持たない者には、和菓子が差し出される状況や和菓子の形状を評価することができない。「見立て」としての和菓子は、この意味において、「ハイコンテクスト」な食品である。

 これに対し、「写し」としての和菓子を味わうのに、このような文化的な想像力は不要である。というのも、和菓子の形状を見れば、何が写しとられているのかは、大抵の場合、おのずから明らかだからである。(というよりも、和菓子を見て、何を写しとったものであるか誰でもすぐにわからなければ、それは失敗作である。)典型的なのは「たい焼き」である。たい焼きの形状は、鯛の模倣である。したがって、たい焼きを目にするとき、「なぜこれが『たい焼き』と呼ばれているのか」という疑問が心に浮かぶことはない。「写し」としての和菓子の場合、何が写しとられているのかが誰にとっても明瞭であることが必要であり、残念ながら、この意味において、相対的に「ローコンテクスト」な食品と見なされねばならない。

 チャールズ=サンダーズ・パースによる記号の古典的な分類を借りてこれを言い換えるなら、「見立て」としての和菓子はシンボル(象徴記号)またはインデックス(指標記号)に当たり、「写し」としての和菓子はアイコン(類似記号)に相当するであろう。

「桜の花を練り込んだ……」は餌である

 しかし、「見立て」よりも「写し」の方が相対的にローコンテクストであったとしても、それでも、「写し」としての和菓子は、食品以外の何ものかを模倣し模写するものであるかぎりにおいて、写しとられている当のものから截然と区別されていた。したがって、「写し」としての和菓子を味わうためには、少なくとも「あれがこのように写しとられているのか」という再認の手続きは必須であった。

 ところが、最近は、毎年春になると、「桜の花をかたどった」食品や「桜色をした」食品ではなく、「桜の花を練り込んだ」蕎麦、洋菓子、和菓子などが製造され、販売されるようになっている。これは、桜の色や形が写しとられた食品ではない。ここでは、「現物」としての桜が素材として含まれているのである。これは、ローコンテクストな食品ですらなく、もはや「コンテクストフリー」な何ものかであると言うべきである。

紀文食品/伊達巻パッケージ | BASE CREATIVE

 しかし、桜の「現物」を口に入れることで初めて春を感じるなど、人間ではなく動物のすることである。ヒト以外の動物が現物としての桜を口に放り込まなければ春を感じられないとしても、それはやむをえないことである。なぜなら、動物には記号を操ることができないからである。動物は、現物を直に嗅いだり口に入れたりするほかはないのである。しかし、記号を操る人間が動物を真似して現物を口に入れることは、必要ではないばかりではなく、好ましくもない。それは、非人間的な動物的なふるまいである。「桜の花を練り込んだ」ものは、食品ではなく、本質的に「餌」と見なされねばならない。

 「見立て」を基準とするなら、「写し」の試みは、一種の文化的な堕落であったかも知れない。しかし、現代の食品は、この「写し」から歩みをさらに進め、「現物」を摂取するところへと転落してしまったように見える。

 食品に具わる記号としての性格により、人間が口にする食品は、動物のための餌から区別されるはずである。したがって、日本人が「桜の花を練り込んだ」ものをよろこんで口にするなら、それは、食品を記号として享受する能力の喪失と日本人の動物化を反映するものとして受け止められねばならないように思われる。

Entice

デスクワークが続くと運動不足になるが……

 今、私の職場は「春休み」中である。職場に毎日出かけて行かなくてよいという意味では、1月下旬から4月上旬までが春休みに当たるけれども、この時期は、春休みであるばかりではなく、年度末でもある。つまり、この時期には、定期試験の監督と採点、入試の監督と採点、そして、年度末と新年度の行事によって規則的な生活がもっともひどく攪乱されることになる。(この種の雑用のスケジュールは、曜日に関係なく設定されるため、世間のリズムとのズレも大きくなる。)

 それでも、今は、まだ少し生活に余裕がある。去年も一昨年も、この時期には、締め切りが近い原稿、あるいは、締め切りが過ぎた(!)原稿を抱えていた。そのため、春休み中は、各種の雑用を片づけながら、大学に行かない日には、

    • 日の出前に起き、
    • 半分くらい寝ぼけながら、ただちに仕事場のパソコンの電源を入れ、
    • パソコンが起動するまでのあいだに朝食をパソコンの前に運び、
    • 朝食を口に詰め込みながら原稿を書き始め、
    • 昼食もそのままパソコンの前で原稿を書きながら済ませ、
    • その後も、コーヒーを浴びるように飲みながらさらに原稿を書き続け、
    • 日が傾き、アタマが働かなくなったら、原稿を保存してパソコンの電源を切り、
    • 朦朧とした状態で夕食を口に運ぶ

という単純きわまる日課が繰り返された。机と洗面所と台所と本棚のあいだの往復だけが唯一の運動であり、1日の歩数はあわせて1000歩にもならない。近所のスーパーマーケットで食料品を調達するため、3日に1度は玄関から外に出るけれども、それ以外は、自宅にこもりきりであった。

ストレスにさらされると間食が増えてしまう

 このような生活を続けていると、運動不足になるばかりではない。どうしても間食が増えるのである。

 全体がこのブログの記事のように千文字か2千文字程度であるなら、力まかせに一気にまとめてしまうことができる。しかし、通常の学術論文なら短くても1万5千文字、本になると、もっとも短い新書サイズでも10万文字を超えるのが普通である。しかも、この10万文字は、ブログとは異なり、バラバラのテーマの千文字の文章が100篇集まったものではなく、内容的に全体が連関して一つの全体を形作らなければならない。当然、これを1日で書き上げることは不可能であり、短い論文の場合でも数日、本を書くには数週間から数ヶ月、1つのテーマについて繰り返し考えながら机に向かう作業が続く。

 このような作業は、大変に大きなストレスになる。筆――あるいは入力(?)――が順調に進んでいるときには何の問題もないけれども、書き淀んだり、以前に書いた部分に修正すべきところを見つけたりすると、そのたびに、最後まで辿りつくことができないのではないかという気がかりで心が一杯になる。ときには、血の気が引くような思いをすることもある。

 それでも、私など、締め切りの圧力が特に大きいわけではないし、また、アカデミックな文章については、最終的に戻って行くべき文献や資料や証拠があるから、筆が進まなくなっても、最低限の精神の安定を保っていられる。おそらく、有名な作家の場合、締め切りをいくつも抱えている上に、扱うのがフィクションであるから、そのストレスは途方もないものとなるに違いない。

 そして――これは、私に固有の事情であるかも知れないが――ストレスが大きくなるほど、これをかわすため、間食が欲しくなる。何かを甘いものを口に入れ、これを噛んでいると、気分が少し落ち着くのである。

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 よく知られているように、正岡子規は、酒を飲まず、甘いものを好んで食べていた。子規と同じように、私もまた、酒を飲まず、甘いものが大好きである。

 しかし、以前、子規の評伝を読んでいたとき、子規があんパンを一度に7個か8個食べたという記述が目に入り、私もあんパンを食べたくなった。(だから、慌てて本を閉じ、他のことを必死で考えた。)私があんパンを子規と同じように食べたら、体重の増加が避けられないことは確かである。それでも、原稿を書いているときには、パソコンに向かいながらあんパンをいくつも口に放り込むことがある。(子規は、あんパンばかりではなく、甘いもの全般を好物としていたようである。いつか、子規が食べた甘いものをすべて調べて食べてみたいとひそかに考えている。)

 もちろん、これは、きわめて不健康な習慣である。実際、何か長いものを書くと、決まって体重が増え、原稿を仕上げたあとには過酷な食餌制限が待っている。そして、体重がある程度まで減ったころには、次の原稿の締め切りが近づいてくるのである……。

Pressure cooker

「煮る」手間を極限まで省いてくれるのが圧力鍋

 私は、圧力鍋を持っている。持っているだけではなく、最低でも週に1度は使う。毎日使うこともある。これは、私がもっとも好む調理器具である。一般的に言って、自炊を習慣とするひとり暮らしの男性にとり、これ以上に便利なものは他にないような気がする。(私の場合、電子レンジよりも使用頻度が高い。)

 圧力鍋というのは、小回りの利く調理器具ではない。作ることのできるメニューはすべて、基本的には「煮込み料理」か「蒸し料理」である。(だから、「煮るだけ」あるいは「蒸すだけ」では完成せず、さらにいくつもの手間がかかる料理の場合、圧力鍋の恩恵はいくらか目減りする。)

 とはいえ、「煮る」というのは、素材に含まれる(加熱によって損なわれないかぎりの)栄養をすべて摂取することが可能な調理法であるから、生命と健康の維持が第一の目標であるかぎり、これ以上に効果的な調理法はない。そして、圧力鍋は、この「煮る」作業に必要な時間を短縮し、ガス代(あるいは電気代)を節約するのに役に立つ道具であると言うことができる。

圧力鍋で肉を「蒸す」ことで脂が落ちる

 ただ、私の場合、真冬を除くと、圧力鍋は「蒸す」ために使うことが多い。

 食べるもののカロリーは減らしたいが、タンパク質を減らすわけには行かない――ダイエット中にタンパク質の摂取量を減らすと、筋肉量が減少してかえって痩せにくくなる――ときには、圧力鍋を使って大量の野菜と適量の肉を一緒に蒸して食べることにしている。

 圧力鍋で蒸し料理を作るためのカゴ(あるいは網)――大抵の場合、鍋に最初から附属しているが、別に買うこともできる――を鍋に入れ、その上に、鍋いっぱいの野菜を載せても、その嵩は、加熱によって劇的に減ってしまう。大量の野菜を短時間で調理し、そして、摂取するのに、圧力鍋による加熱以上に簡単な方法はないに違いない。

 なすべき具体的な作業は、素材をカゴ(または網)に積み上げたあと、コップ1杯程度の水を入れ、蓋を閉じて加熱し、水が沸騰したのちに短時間加圧することだけである。3分も加圧すれば、ニンジンのような堅い根菜もクタクタになる。(一口大に切ったブロッコリーやカボチャを他の素材と一緒に3分加圧すると、柔らかくなるのを通り越して粉砕されてしまい、蓋を開けたときに繊維しか残っていないことがある。)

 肉の場合、蒸すことにより、脂がカゴ(または網)の下に落ち、カロリーが小さくなる。(このようにして蒸し上がったものにノンオイルのドレッシングをかけて食べるわけである。)

圧力鍋で蒸す野菜は、神経質に洗わなくてもかまわない

 ところで、野菜の中には、調理に先立って下準備に時間がかかるものが少なくない。普通の葉物野菜に範囲を限るなら、下準備がもっとも面倒なのは、ホウレンソウであろう。

 ホウレンソウを食べるためには、根元の泥を落とした上で全体をよく洗い、その後、1分か2分茹でて冷水にとり、きつく絞ってアクを抜く作業を省略することはできない。「おひたし」であれ「ソテー」であれ「カレー」であれ、ホウレンソウを素材とするかぎり、このプロセスはどうしても必要である。

 しかし、圧力鍋を使って野菜を蒸す場合、この下準備を省略することが可能である。軽く洗って泥を落とし、生のまま適当な大きさに切ってしまえば、加熱しているあいだに汚れとアクはほとんど落ちてしまう。ホウレンソウを含む野菜や肉を蒸したあとに鍋の底に溜まった水分を見ると、肉の脂やアクとともに、ホウレンソウから出たアクの色がついており、蒸しているうちにアクが抜けたことがわかる。ただ、ホウレンソウの仕上がりの色はあまり美しくならない。

※注意:ホウレンソウのアクが問題なのは、「シュウ酸」が含まれているからである。シュウ酸は、カルシウムと結合するため、骨粗鬆症や結石を惹きこす危険がある。したがって、すでに骨粗鬆症や結石が確認されている場合、あるいは、こうした病気のおそれが高い場合、ホウレンソウを生のまま圧力鍋に放り込むのはやめて、普通の鍋で丁寧に茹でたあと、水にさらして徹底的に絞るという通常の手順に従う方が望ましい。


 下準備が面倒であるという理由で野菜を食べないのなら、圧力鍋で蒸すことにより、面倒のかなりの部分から解放されるはずである。

Japanese sweet / Hydrangea 1

 1週間に1日か2日、平日の午前中で仕事が終わりになることがある。そのようなときは、天気がよければ、職場から自宅まで歩いて帰る。鉄道の駅にすると5個――「5区間」と言うべきか――分だから、大した距離ではない。私は、必ずしも足が速くはないが、それでも、1時間弱で自宅に辿りつく。ただし、それは、まったく寄り道しなければ、の話である。

 職場から自宅まで歩いて帰る場合、その途中に、小さな駅の周辺に広がる小さな商店街がいくつかある。このような商店街にある飲食店で昼食をとったり、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだりしていると、相当な時間がかかってしまう。自宅の近所は、幹線道路に近いせいか、スーパーマーケットが1軒あるだけで、まともな商店街はない。だから、このような商店街を通り抜けるとき、洒落たパン屋、洒落た喫茶店などを見かけると、どうしても立ち止まってしまうのである。

東京の和菓子屋は減り続けている

 特に、歩いて帰るときに必ず立ち寄って買いものすることにしているのが、ある商店街に店を出している個人経営の和菓子屋である。私は、酒を飲まない分、甘いものをよく食べる。特に、和菓子は大好物である。

 信頼できる統計はないようであるけれども、東京では、和菓子屋、特に、個人が経営する路面店の和菓子屋は、この20年くらいのあいだに、その数をずいぶん減らしたように見える。都心やターミナル駅の周辺なら話は別なのであろうが、私が暮らしている杉並区などでは、個人経営の和菓子屋は、もはや数えるほどしか残っていない。

 私が小学生のころ、自宅の最寄り駅の近くには和菓子屋が4軒あり、自宅の近くにも2軒あったのだが、今は、駅前に1軒が残るだけである。同じように、あんみつや汁粉、ぜんざいなどを出す甘味処も、なぜか決して多くはない。(私の知るかぎり、甘味処の店内は「年寄りばかり」であることが多く、そのせいで忌避されているのかも知れない。)

 これに対し、京都には和菓子屋が非常に多い。下のデータによれば、都道府県別では、和菓子屋が全国でもっとも多いのは、やはり京都府のようである。

第57回【全国ランキング】

 京都には、全国的に名を知られる有名店が少なくないけれども、そればかりではなく、街を歩いていると、個人経営の和菓子屋をよく見かける。人口当たりの和菓子屋の数は、東京の10倍くらいあるような気がする。京都には、それだけ和菓子の需要があるということなのであろう。和菓子の好きな私のような者にとっては、うらやましい状況である。

 なお、京都の和菓子屋の新作を写真で紹介する下のようなブログもある。私は、毎日、これを眺めてよだれをたらしている。

きょうの『和菓子の玉手箱』

和菓子は非日常の食べものになりつつあるのか

 しかし、和菓子屋の数が需要と供給の関係を反映するものであるなら、東京から和菓子屋が消えて行くのは、和菓子の需要が少ないからであると考えねばならない。また、事実はそのとおりなのであろう。

 たしかに、新宿、渋谷、銀座などの繁華街、特にデパ地下には、相当な数の和菓子屋が出店している。しかし、このような場所に出店しているのは、多くは京都に本店があり、全国にいくつもの支店を持つ有名店であり、販売されているのは、(私の勝手な思い込みでないとするなら、)手土産として訪問先に持参するためのものか、あるいは、自宅に来た客に出すためのものか、あるいは、茶会で出すためのものかのいずれかである。つまり、日常生活において和菓子を自分で購い、自分で消費するなどということは、最初から想定されていないように見えるのである。

 どら焼き、羊羹、最中、まんじゅう、たい焼きなどばかりではなく、いわゆる「上生菓子」に分類されるようなものを含め、和菓子は、決して非日常の特殊な食べものではなかったはずである。少なくとも、私自身のこれまでの食生活において、和菓子について、これを非日常的なものと受け止めたことはなかった。また、和菓子が本質的に非日常的なものであるなら、上生菓子を製造、販売する和菓子屋が地域にあれほどたくさんあったはずはないように思われるのである。

 このような点を考慮するなら、個人経営の和菓子屋が地域から姿を消したのは、和菓子全体の需要が減少したというよりも、なぜかよくわからない理由によって和菓子が非日常に属する小道具と見なされるようになったからであると考えるのが自然である。和菓子というのは、日本の食文化の繊細な側面を代表する食品であり、日常において消費されることで、日本らしい繊細な「味わい」を学ぶよすがとなるものであり、このかぎりにおいて、日本の食文化の不可欠の構成要素である。和菓子が日常から姿を消しつつあるとするなら、それは、日本人の食生活の野蛮化と幼稚化を、そして、日本の食文化の堕落を意味しているように私には思われるのである。


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