AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 反ライフハック

girls-1031538_1920

優先順位を正しく設定することができないと

 今日、次のような記事を読んだ。

「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も:朝日新聞デジタル

 記事を読んだ私の最初の感想は、「私には都立高校の教員は務まらない」である。

 私には、高等学校の教員の経験はない。だから、高等学校の教員の忙しさについては、余計な仕事は1つたりとも増やしたくない程度には忙しいということくらしかわからない。それでも、上の記事を読むと、暗澹たる気持ちなってしまう。

 そもそも、私には、髪の染色やパーマを校則によって禁止しなければならない理由がわからない。

 たしかに、髪を染めたりパーマをかけたりすることは、その仕上がりによっては、好ましくない場合がある。

 しかし、高等学校は義務教育ではない。生徒の生活指導がどうでもよいとは言わないけれども、生徒の頭髪が、校則に明記し、強制力をともなうような仕方で画一化を徹底させねばならないほど優先順位が高い問題であるとは思われないのである。

 自分のことを棚に上げて言うなら、上の記事を信用するかぎり、事柄の優先順位をみずから正しく設定する能力が現在の都立高校の多くに欠けていることは明らかであり、このような高等学校において、事柄の優先順位を正しく設定する能力を持つ人間が育つようには思われないのである。

無駄なルールが無駄な手間を要求する

 当然のことであるけれども、染色やパーマを校則によって禁止すれば、これとともに、校則が確実に守られているかどうか監視する手間がどうしても必要となる。

 「地毛証明書」を作成し、配布し、回収し、確認する……、一つひとつは大した作業ではないかも知れないけれども、染色やパーマが校則によって明確に禁止されている以上、これは省略することの許されぬ作業となり、全体として、本来ならさらに重要な仕事に当てられるはずの教員の体力や時間を際限なく奪い取って行くことになるはずである。

 すべての生徒に適用されるルールを設定することは、このルールが守られているかどうか監視する手間、そして、守られていない場合には無理やりこれに従わせる手間を省略することができない。そうしなければ、ルールは空文化し、無政府状態が出現するであろう。だから、ルールの数は可能なかぎり制限しなければ、ルールを守らせる手間ばかりが増え、学校は一種の刑務所になってしまうに違いない。

最初にすべきなのは、染色やパーマが好ましくない理由を生徒や保護者に対して説明し同意を得ることであるはず

 (現場を知らない人間が現実を無視して理想を語るなら、)都立高等学校がまずなすべきことは、限度を超えた染色やパーマが好ましくない空間があり、学校がその1つであること、教育現場を維持するためには頭髪に関する制限が必要であることを生徒や保護者に説明し理解させることであるに違いない。

 生徒を「受刑者」ではなく「ステークホルダー」として扱うこと、そして、ルールの趣旨に関する理解を生徒と共有するなら、新たなルールは、監視の手間を必ずしも要求しないはずである。

 上の記事にあるように、染色やパーマを禁止し「地毛証明書」などを提出させていることに、「生徒とのトラブルを防ぐほか、私立高との競争が激しく、生活指導をきちんとしていることを保護者や生徒にアピールする」以上の意味がないのなら、そして、教育との必然的な連関を生徒に対し合理的に示すことができないのなら、このようなルールは一刻も早く廃止すべきであると私は考えている。

 無駄なルールが無駄な手間を要求し、さらに、無駄な手間が必要なリソースを奪い取り、リソースが少なくなった分を新たなルールで補おうとして、さらに無駄な手間が発生する……、このような悪循環の中で、個人や集団の生産性はとどまることなく落ちて行く。「これをする必要が本当にあるのか」「このルールの優先順位はどの程度なのか」は、余計なことをせずに済ませるために、そして、生産性を上げるために私たちがつねに考慮すべき点であるように思われる。

jay-wennington-2065

1日3食×365日=1095回

 1日に3食を規則正しく摂ると、私たちは、1年間に1095回(うるう年には1098回)食事する。10年間で10950回、50年間で54750回も食べることになる。

 「これだけ食べなければ生命を維持することができない」と考えるなら、人間の生命というのは、ずいぶん効率悪くできているということになるのであろうが、実際には、食事は、生命を維持するために必要なもの、やむをえざるものであるばかりではなく、これには、生活を人間的なものにするために必須の楽しみとしての側面がある。

 以前に投稿した別の記事で書いたように、人間の味覚は保守的である。


おいしさの幅 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

人間の舌は保守的 人間は、年齢を重ねるとともに、味の許容範囲が広がり、おいしいと思える食べもののバラエティが増えて行くものだと私は信じていた。実際、子どものときにはとても食べられなかったような紫蘇やタラの芽を、大人になってからはそれなりにおいしく食べられ

 それにもかかわらず、新しい味、新しいレシピが世界のどこかでつねに産み出されている。これは、食事が生理的な現象であるというよりも、本質的に文化的な現象だからであると考えるのが自然である。(さらに言えば、食事というのは本質的に「社交」であるから、食事の質を左右するもっとも重要な要素は、「何を」ではなく、「誰と」「どのような状況のもとで」である。)

 1年間で1095回の食事は、文化的な活動である。つまり、いつ、何を、どこで、誰と、どのように食べるかというのは、私たち一人ひとりの生き方の問題となるのである。

食べたいように食べるか、それとも、健康を優先するか

 この世には、健康によいものが食べたいものと一致する幸福な人がいないわけではない。しかし、私を含め、大抵の場合、両者は一致しない。

 つまり、健康に配慮するなら、食べたいものを我慢しなければならないし、食べたいものを食べたいように食べることにより、健康はいくらか犠牲にならざるをえない。

 さらに言い換えるなら、今後の人生において出会う食事の回数を増やすためには、健康的な(、したがって、場合によってはあまりおいしくない)食事を選ばなければならず、反対に、おいしいけれども必ずしも健康的ではないような食事を重ねることにより、残された食事の回数は制限されることになるのである。

 問題は、両者のバランスである。何を食べるかを決めるにあたり、健康は重視すべき要素の1つではあるが、食事が本質的に文化的な活動であり、(ただひとりの食事であるとしても、)社交である以上、もっとも大切なのは、食事が楽しいことである。

 したがって、食事が社交であるかぎり、どれほど健康を増進する効果があるとしても、健康を増進する効果があるというだけの理由によってまずいものを我慢して選ぶようなことがあってはならない。ただ健康的であるにすぎぬまずいものは、もはや食事ではなく、餌にすぎないからである。

人生の終わりに思い返し、食べなかったことを後悔する可能性のあるものは今すぐに食べるべし

 私たちには誰でも、好きな食べものがある。それは、必ずしも毎日のように食べたいものではないかも知れないが、やはり、ときには優先的に食べたいと思うものであり、人生の最後に自分の食事を振り返り、「ああ、あれを食べたかったな」とか「ああ、もう一度あれを食べたい」と願うようなものであるに違いない。しかし、人生の本当の最後になったら、その願いは、主に体力的な事情により、もはやかなわないかも知れない。

 だから、死ぬまでには食べたいもの、食べずに死ぬわけには行かないものがあるなら、それは、健康やダイエットに悪影響が及ぶとしても、すぐに食べるべきである。

 また、「これを食べなかったことを死ぬときに後悔するかどうか」は、食べるべきものを決めるときにつねに考慮されるべき問いであると私は考えている。

sergey-zolkin-192937

話したことは書けない

 論文であれ、ブログであれ、ツイートであれ、私は、誰かに口頭で話したことは書かない。というよりも、書けない。つまり、話した内容を文字に直すということができないのである。

 話した内容を録音しておき、これを文字起こしすればよいのではないかと考え、実行したことがある。しかし、会話と文章では話題の排列もリズムもまったく異なるため、話したことをそのまま文字にしても、読みにくいばかりであることがわかった。

 以前、あるところに講演に呼んでもらい、後日、講演を印刷物にするため、主催者側で文字起こししたものを送ってもらったのだが、読んでみたところ、話の流れがよくわからないばかりではなく、文法的にも支離滅裂であることがわかり、結局、最初からすべて書き直さざるをえなかった。

 話してしまった内容を文章に書くことができないというのが万人に共通の法則であるのかどうか、私は知らないが、少なくとも、私の場合、例外を許さぬ法則のようである。無駄が多いと言えないことはない。

メッセージを伝えたい相手がいるから書いたり話したりできる

 私には、誰かに話したことを書くのも、話した内容をそのまま文字にすることもできない。しかし、その理由は、比較的明瞭であるように思われる。

 何かを書くとき、私には何らかの伝えたいメッセージがあり、また、このメッセージを届けたい相手がいる。

 もちろん、メッセージを届けたい相手は、具体的な名前を持った誰かである場合もあれば、特定の好みや考え方を共有する抽象的な集団にすぎない場合もある。それどころか、未来に姿を現すはずの、したがって、今のところはまだ実在しない何者か――自分自身を含む――に対するメッセージとして何かを書くことすら可能である。

 口頭での発話についても、事情は同じである。伝えたいメッセージとメッセージを伝えたい相手がいるからこそ、語ることが成り立つのである。

メッセージを届けると、気が済んでしまう

 しかし、伝えたいメッセージとメッセージを伝えたい相手がいることが書くことの前提であるなら、私が何かを伝えたい相手にメッセージが伝わったとき、私が書いた文章は、その使命を終える。

 同じように、私の発話の役割は、私のメッセージが標的とする相手に届くことにより完結する。

 そして、一度誰かに話してしまったことを文章に直すことができない最大の理由はここにある。すなわち、口頭での発話の場合、メッセージを伝えたい相手は、今、ここに、つまり私の前にいる。だから、この相手に言いたいことが伝わることにより、メッセージはその役割を終え、私は「気が済んでしまう」のである。あとに残された言葉があるとしても、それは、私と誰かが相対しているという個別的、具体的な状況のもとでのみ生命を与えられるものであり、それ自体としては、言いたいことの乗り物であり抜け殻にすぎないのである。

 このかぎりにおいて、私は、約40年前から大変に評判が悪くなった「現前の形而上学」や「音声中心主義」にも、実践的な平面では、それなりの正当性がないわけではないに違いないと(ひそかに)考えている。

文章としてすべてを残すには、誰とも口をきかないのがよい

 だから、頭の中にあることをすべて文章にするためには、誰とも口をきかず、すべてを文章で表現すればよいことになる。

 文章というのは、それなりに込み入った内容のメッセージを誰かに届けるために書かれるものであるから、不特定多数の読者にアクセス可能な文章でも、「読んでほしい相手」を想定しなければ、書くことができない。

 具体的な知り合いでもよい、あるいは、未知の、抽象的な理想の読み手でもよい、誰とも口をきかず、誰にも話さず、読み手となるはずの相手を心に描きながら、いわばラブレターのように文字を綴るとき初めて、文章は、生命を獲得するものであるように思われる。

muybridge

SNS上のコミュニケーションは文字から動画へと移りつつある

 最近、次のような記事を見つけた。


 インターネットの使用が拡大し始めたころには、ネット上でのコミュニケーションの大半は、文字を主な手段とするものであった。

 それは、今から振り返るなら、一度に転送することのできる情報量に限界があり、画像を用いることに制約があったからであるのかも知れない。

 このかぎりにおいて、通信速度が向上するにつれて、文字を手段とするコミュニケーションの質が低下し、誹謗中傷や罵詈雑言に代表される文字の破綻した使用が目立つようになったのは、そして、InstagramやPinterestに代表される静止画や動画を主な手段とするコミュニケーションへとSNSの重心が移って行ったのは、特に驚くべきことではないと言うことができる。

 実際、最近では、動画よりもさらに簡単なGIFによるアニメーションがネット上のコミュニケーションの中心になりつつあるという意見もある。


文字では表現することができるが、動画では伝えられないものがある

 しかしながら、文字によって表現することができるものと、動画や音声によって伝えることができるものとのあいだには、大きな隔たりがある。

 たとえば、上の場合のように、殺人を記録して投稿するなど、文字では到底不可能である。リアルな仕方で何かを一度に提示する点において、文字が動画に及ばないことは確かである。何かの「作り方」全般には、動画による表現の方が向いていることになる。

 しかしながら、反対に、文字では表現することができるが、動画では伝えることができないものがある。たとえば、このブログに投稿された記事の大半は、動画にすることが不可能である。というのも、私がブログで記事を公開するのは、事実の紹介のためではなく、問題の解決法を提示するためではなく、何かの作り方を教えるためでもないからであり、むしろ、どちらかと言うと見過ごされがちな、しかし、重要な問題を指摘し、考えることを促すためだからである。

 文字によって構成された記事の場合、読者は、文字とのあいだにある程度の距離を設定し、間接的な仕方でこれを受け止める。記事の内容を受け容れるかどうかを決める前に、自分自身の考え方の枠組みを再確認し熟慮する時間が――数秒かも知れぬとしても――与えられるのである。

 しかし、同じ記事の内容が動画で伝えられるとき、「視聴者」と動画のメッセージのあいだに距離がなく、「視聴者」は、自分の態度を決めるための数秒の熟慮の時間を奪われて内容とのあいだに距離を奪われ、承認するか拒絶するか、即座に反応することを強いられる。そして、動画の内容に同意しない視聴者にとり、動画は、押しつけがましく不快なものとならざるをえない。(実際、このブログの記事のいくつかを動画に「翻訳」してみたが、出来上がった動画は、作った私自身が見ても、押しつけがましいものになった。)複雑な事柄を伝えるのに動画が向いていない理由である。

サイバースペースの荒廃

 とはいえ、ネット上、特にSNS上において、時間の経過とともに読まれる文字数が次第に減少することは必然であり、ネット上のニュースやブログは、文字が中心であるかぎり、次第に読まれなくなって行かざるをえない。遠くない将来、SNS上には画像や動画や音声が氾濫し、わずかに残る文字情報は、嘘、噂、偽ニュース、誹謗中傷ばかりになるはずである。サイバースペースにとり、荒廃した知性の廃墟になるのが運命であるのかどうか、これはよくわからない。ただ、少なくとも私は、動画や画像を用いた刹那的、脊髄反射的な承認/拒絶から距離をとり、文章を読みながら考える「公衆」の存在を想定して、文字による伝達の可能性をしばらくは追求したいと考えている。

Postkarte Kleider machen Leute

身体に合わない服を着ると行動や姿勢に悪影響を与える

 昨日は、スーツを着て出勤した。私は、夏の暑い時期を除けば、講義や会議があるときにはスーツを着ることにしている。だから、スーツを着ること自体は、普通である。しかし、昨日のスーツには、小さな問題があった。サイズが少し大きいのである。

 私が昨日着たスーツは、10年近く前に購入したもので、当時の体型からすると、少し小さく、最初は、ジャケットの前のボタンがかろうじてかかるような状態であった。

 しかし、その後、体重がかなり減ったため、今度は、私の体型が、このスーツにちょうどよいサイズよりも細くなり、スーツが大きく感じられるようになったのである。昨日、しばらくぶりに身につけて、このことに気づいたが、着替える時間の余裕がなく、そのまま出かけることにした。

 現在の紳士服の流行では、ジャケットの袖からシャツの袖が少し見えるのがよいと言われている。ところが、身体が細くなったせいで、ジャケットの袖が実質的にその分長くなってしまった。同じ理由により、裾の位置も少し下がった。

 身体に合わない服を身につけていると、気になって仕方がない。もちろん、自分の体型よりも1サイズ大きな(ゆったりとした)スーツを身につけている男性は多いから、スーツが少しゆるいからと言って、気にするほどのことはないのかも知れないが、やはり、道を歩いているとき、ガラスに自分の姿が映ると、思わず振り向いて姿を確認してしまう。

 このようなことを繰り返すうち、次第に気が滅入ってきた。夕方、自宅に戻るために街を歩いていて、ガラスに映った自分の姿を見たら、やや前かがみになり、うつむき気味になり、足を引きずっていることに気づき、服装が姿勢やふるまいに与える影響を実感した。

 私がこれほど身体に合わない服装の影響を実感したのは、この数年、身体にちょうどよいサイズ、しかも、やや細身に見えるスーツをイージーオーダーで作り、これを身につけるようにしているからである。

 もちろん、値段は、量販店の既製のスーツの5倍くらいするけれども、それでも、毎回同じ店に出向き、前回から体型に変更がないかどうか確認するために採寸してもらい、生地、全体のデザイン、ポケットの位置や形状、ボタンの色や材質などの細部を決めて自宅に届けてもらったものを身につけると、それは、常識の範囲で、そのときの私の外見をもっとも適切に飾ることが可能となるはずであり、このような「自信」(?)らしきもののおかげで、姿勢やふるまいが改善されるような気がする。

 実際、今日は、身体に合うサイズのスーツを着て出かけた。そのせいで、昨日とくらべ、万事がうまく進んだ。もちろん、これは、錯覚かも知れない。けれども、服装を工夫するだけで気分が改善されるのなら、(改善されるのが気分だけであるとしても、)これほど安上がりなものはないと私は考えている。やはり、「馬子にも衣装」(Kleider machen Leute) なのである。

Kleider machen Leute

衣装は自分で選ぶのがよい

 そして、服装にこのような効用があるとするなら、やはり、その日に着るものは、自分で決めるべきであるように思われる。

 街を歩いていると、仕立てのよいスーツを身につけ、シャツやネクタイとのバランスも見事なのに、「着こなし」がひどい中高年のサラリーマンを見かけることが少なくない。

 たとえば、スーツにまったく合わない重いショルダーバッグを肩からかけているせいでジャケットがよじれていたり、歩き方が野蛮な感じだったり、姿勢が非常に悪かったりするのをよく見かける。2ボタンのジャケットのボタンを両方ともとめている男性を見かけることもある。

 このような男性は、身につけるものを自分で選んでいるのではなく、着るもの一式を配偶者に決めてもらっているのであろう。だから、服装とふるまいが調和せず、悪い意味で目を惹くことになっているに違いない。

 だから、自分が身につけるものに最低限の気を遣い、自分が着る服は自分で選ぶことが重要である。自分が決めたものを身につけることにより初めて、自分の身につけたものにふさわしい動作や姿勢を心がけるようになり、それにより、服装に対しさらなる注意が向けられ、自分のふるまいもこれによって改善する……、このような循環が生まれるからである。少なくとも私自身は、このような効用を期待しながら、何を着るかを考えている。

↑このページのトップヘ