AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

知的生産の技術

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手ぶらで出勤する会社員

 中学校に入学し、電車での通学を始めてまもなく、ある朝、電車の中を見回して、1つの事実に気づいた。私が乗るのと同じ電車に乗っている男性のサラリーマンの大半が鞄を持っていないのである。

 多くは、新聞を片手に持っていたけれども、中には、完全に手ぶらで電車に乗ってくるサラリーマンもいた。これは、私には実に不思議な光景であった。なぜ何も持たずに出勤することができるのか、すぐにはわからなかったからである。

 私の家には、普通の時間に出勤するいわゆる「会社員」がおらず、仕事で外出するときには、全員が書類鞄か、あるいはそれ以上の大きさの荷物を持っていた。

 会社員が手ぶらで出勤するのは、自宅で仕事せず、かつ、仕事に必要なものがすべて職場に置きっぱなしになっており、身体だけ運べばよいからであるには違いない。このことは、中学1年生の私にも見当がついた。それでも、財布、メガネケース、折りたたみ傘、各種の鍵などは携行しないと不都合が生じるはずであり、私は、今でも、手ぶらで出勤するサラリーマンを見かけると、強い違和感を覚える。

放っておくと荷物は増える

 ところで、私自身はは、手ぶらで仕事に行くことへの違和感からいつまでも解放されなかった。私の主な仕事場が自宅であるから、荷物なしに職場とのあいだを往復することはない。少なくともA4サイズの書類が収まる書類鞄はつねに必要である。

 当然、職場での用事が多岐にわたると、荷物もそれだけ重くなる。平均すると2キロから3キロではないかと思う。私のような大学関係者は、荷物が重くなりがちであり、大きなバックパックや小型のキャリーバッグとともに通勤している姿を見かけることが少なくない。荷物がどうしても増えてしまうのである。これは、部屋がモノで一杯になるのと同じことである。

減らせるものがないか、つねに点検する

 今から5年以上前、次の本を読んだ。

佐藤可士和の超整理術 (日経ビジネス人文庫)

 この本によれば、著者の佐藤氏は、打ち合わせのために出かけるとき以外、原則として荷物は持たないようである。

 私のような仕事の人間がこれをそのまま真似するのは困難であるけれども、この本を読んでから、運ぶモノをできるかぎり減らすよう、工夫をするようになった。

 以前、一度だけ、電車に乗るためのICカード、自宅と研究室の鍵だけをポケットに放り込み、完全に手ぶらで職場に行ったことがある。その結果、手ぶらが決して不可能ではないこと、ただ、それは、天気がよく、かつ、不測の事態が起こらないという条件が満たされている場合にかぎられることがわかった。(授業に必要な資料は、自宅からクラウド上にアップロードしておき、教室に設置されたパソコンを使ってダウンロードした。)

 何も持たずに外出することができるのは、散歩のときだけで、仕事で外出するときには、やはり、最低限の荷物が必要となるようである(が、手ぶらで電車にのり、手ぶらで職場に行くというのは、理想ではある。)

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政府が期間まで指定するとは

 「クールビズ」(cool biz) というのは、夏期の職場での軽装を指す和製英語で、環境省の主導で2005年に始まったものである。

 夏に軽装で仕事し、冷房の温度を高めに設定することにより、電気の使用量が減り、環境への負荷も軽減されるということであり、表面的に考えるなら、これは望ましいことであるには違いない。

 しかし、政府は、クールビズの期間、夏期の冷房の温度設定、許容される服装まで指定している。衣服というのは、各人が身体に合わせて着用するものであり、一人ひとりが状況を考慮して適切な服装を選択すべきものである。政府の指定は、明らかなお節介でありパターナリズムである。

会社員の服装は驚くほど画一的

 もっとも、街を歩いていると、政府がこれほどお節介なのには理由があるようにも思われてくる。服装に無頓着なのか、それとも、服装に自分の好みを反映させ、職場で浮くことを恐れているのか、大半のサラリーマンが没個性的で画一的な服装に身を包んでいるのである。

 気温が25度くらいなら、街を歩いているサラリーマンの大半は、ネクタイを外しただけのスーツ姿である。30度を超えると、ジャケットを脱ぐことになる。ノーネクタイを前提にシャツにボタンダウンのものにしているサラリーマンが若干いるけれども、大半は、「ただネクタイを外しただけ」「ただジャケットを着ていないだけ」である。

 これらを「クールビズ」と呼ぶことができるのかどうか、私自身は大いに疑問に感じるけれども、多くの民間企業では、服装の許容範囲が狭く、スーツが事実上の制服になっているのであろう。この点を考慮するなら、「クールビズ」がおざなりなものとなるのは、無理のないことであるかも知れない。

 なお、スーツが制服と見なされていることは、普段着について語るとき、「私服」という――私には違和感のある――言葉が使われていることによって明らかである。(「私服」は「制服」の反対語である。)

身体と季節に合った服装を考える習慣を身につけるべき

 今のところ、クールビズは――よほど体型がよい男性でないかぎり――だらしないだけの格好にすぎないように見える。

 政府がクールビズを本当の意味において「クール」なものにすることを望むのなら、何よりもまず没個性的で画一的な服装をやめさせ、どのような状況のもとで何を着るか、みずから考える習慣をサラリーマンに身につけさせるよう促すべきであろう。

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外国語の習得には強い動機が必要

 これまでいろいろな言語を勉強してきた。ある程度ものになった――これをどう定義するかは、それ自体として問題であるが――ものもあれば、まったく身につかなかったものもある。(私の場合、ポーランド語。)ただ、どのような言語であれ、同じ人間が使うものであるから、習得不可能であるはずはなく、身につかなかったのは、私の努力が不足していたからなのであろう。

 とはいえ、外国語の勉強は、短期間で完成するものではないから、努力は、それなりの動機によって支えられていることが必要となる。言い換えるなら、何らかの必要に迫られないかぎり、外国語の学習に必要な時間や体力を長期間にわたって捻出することは不可能なのである。

外国語が身につかないのは、身につける必要がないから

 外国語というのは、楽しく身につけるものではない。むしろ、必要に迫られないかぎり、外国語は決して身につかないと考えるべきである。

 そして、外国語が必要に迫られて初めて身につくものであるなら、外国語を習得することができたということは、その外国語を身につける差し迫った必要があったことを意味する。さらに言い換えるなら、外国語が身につかないのは、その外国語を身につける切実な理由が見出せないからであることになる。

 世の中には、語学の勉強が苦手な人が多い。そして、その理由は明白である。外国語の勉強のコストと外国語を身につけなかった場合に被る不利益を比較し、前者が後者にまさるように見えるかぎり、外国語の学習に時間と体力を使う理由などないのである。

どのような必要に迫られているかにより、身にく語学力の内容は異なる

 そして、語学力は、必要に迫られれば必ず身につき、必要に迫られないかぎり決して身につかないということから、次の点もまた、ただちに帰結する。すなわち、外国語の学習へと私たちを促す「必要」の内容に応じ、身につく外国語の内容もまた異なるという点である。文献を読む能力を必要とする場面では、読解力が優先的に身につくであろうし、聴きとる能力が要求される場合には、聴く力が伸びることになるに違いない。

 語学力に関するかぎり、「バランスよく」「全体として」などということはなく、状況が要求する形でしか身につかないものである。だから、何をもって外国語が「ものになった」と言えるのかという点に関し、普遍的な基準はないと考えるのが自然である。

 私の場合、外国語は、主に限定された種類のテクストを読む必要に迫られて勉強したものである。発音は好い加減であるし、聴き取りに関しても十分な能力を持っているとは言えない。それでも、私の必要を満たす最低限の語学力が身についたことは事実であり、この意味において、「ものになった」と言うことが可能である。

 「その外国語を何に使うのか」「何のためにその外国語を勉強するのか」と問われ、答えとして心に浮かぶのが「観光旅行」くらいであるなら、その外国語を勉強するのはやめた方がよい。決してものすることはできないはずだからである。

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新しい活動量計を買った

 数日前、活動量計を買った。腕につけるタイプのものである。

 私の普段の生活の中での支出のうち、本と食べものと衣類と交通費で全体の約9割を占める。これ以外のことにカネを使う機会はあまりなく、月によってはゼロのこともある。だから、1万円を超える活動量計を買ったのは、私にとってはかなりの冒険に当たる。

 これまで使っていたのは、ポケットに入れておくタイプの歩数計である。おそらく5年近く使っていたと思う。出かけるときには、基本的にいつもポケットに入れて歩数を測っており、特に故障したわけでもなかったのだが、残念ながら、この歩数計は、ガジェットとしての存在感に乏しく、歩数計をポケットに入れることで行動に変化が生まれるというようなことはなかった。

新しいガジェットで、日常生活に小さな変化が生まれる

 これに対し、今回の新しい活動量計は、昨日が多く、何時間か身体を動かしていないと、運動するよう促してくれたり、歩数が1万歩を超えると、振動して祝ってくれたりする。また、心拍数や睡眠の質に関しても記録されるらしく、先週末は、活動量計から運動を促されるたびに近所を歩き回っていた。この活動量計によって、生活は少しだけ「活動的」になったと思う。

 実際、スマートフォンであれ、タブレット端末であれ、すぐれたガジェットを手に入れると、普段の生活に思わぬ方向から光が当てられ、暮らしが生き生きしたものになる。もちろん、これは、必ずしも長くは続かず、このようなガジェットは、くすんだ日常の一部になってしまうか、あるいは、飽きられて使われなくなってしまうかのいずかの運命を避けることができない。

 それでも、ガジェットが手もとに来てからの何ヶ月か、私たちは、小さな機械をたえずいじり、そして、眺めながら生活する。これは実に楽しい経験である。

 私が新しく手に入れることになった活動量計が私をどのくらいのあいだ楽しませてくれるのか、よくわからないけれども、しばらくのあいだ、活動量計で遊ぶことになりそうである。

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優先順位を正しく設定することができないと

 今日、次のような記事を読んだ。

「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も:朝日新聞デジタル

 記事を読んだ私の最初の感想は、「私には都立高校の教員は務まらない」である。

 私には、高等学校の教員の経験はない。だから、高等学校の教員の忙しさについては、余計な仕事は1つたりとも増やしたくない程度には忙しいということくらしかわからない。それでも、上の記事を読むと、暗澹たる気持ちなってしまう。

 そもそも、私には、髪の染色やパーマを校則によって禁止しなければならない理由がわからない。

 たしかに、髪を染めたりパーマをかけたりすることは、その仕上がりによっては、好ましくない場合がある。

 しかし、高等学校は義務教育ではない。生徒の生活指導がどうでもよいとは言わないけれども、生徒の頭髪が、校則に明記し、強制力をともなうような仕方で画一化を徹底させねばならないほど優先順位が高い問題であるとは思われないのである。

 自分のことを棚に上げて言うなら、上の記事を信用するかぎり、事柄の優先順位をみずから正しく設定する能力が現在の都立高校の多くに欠けていることは明らかであり、このような高等学校において、事柄の優先順位を正しく設定する能力を持つ人間が育つようには思われないのである。

無駄なルールが無駄な手間を要求する

 当然のことであるけれども、染色やパーマを校則によって禁止すれば、これとともに、校則が確実に守られているかどうか監視する手間がどうしても必要となる。

 「地毛証明書」を作成し、配布し、回収し、確認する……、一つひとつは大した作業ではないかも知れないけれども、染色やパーマが校則によって明確に禁止されている以上、これは省略することの許されぬ作業となり、全体として、本来ならさらに重要な仕事に当てられるはずの教員の体力や時間を際限なく奪い取って行くことになるはずである。

 すべての生徒に適用されるルールを設定することは、このルールが守られているかどうか監視する手間、そして、守られていない場合には無理やりこれに従わせる手間を省略することができない。そうしなければ、ルールは空文化し、無政府状態が出現するであろう。だから、ルールの数は可能なかぎり制限しなければ、ルールを守らせる手間ばかりが増え、学校は一種の刑務所になってしまうに違いない。

最初にすべきなのは、染色やパーマが好ましくない理由を生徒や保護者に対して説明し同意を得ることであるはず

 (現場を知らない人間が現実を無視して理想を語るなら、)都立高等学校がまずなすべきことは、限度を超えた染色やパーマが好ましくない空間があり、学校がその1つであること、教育現場を維持するためには頭髪に関する制限が必要であることを生徒や保護者に説明し理解させることであるに違いない。

 生徒を「受刑者」ではなく「ステークホルダー」として扱うこと、そして、ルールの趣旨に関する理解を生徒と共有するなら、新たなルールは、監視の手間を必ずしも要求しないはずである。

 上の記事にあるように、染色やパーマを禁止し「地毛証明書」などを提出させていることに、「生徒とのトラブルを防ぐほか、私立高との競争が激しく、生活指導をきちんとしていることを保護者や生徒にアピールする」以上の意味がないのなら、そして、教育との必然的な連関を生徒に対し合理的に示すことができないのなら、このようなルールは一刻も早く廃止すべきであると私は考えている。

 無駄なルールが無駄な手間を要求し、さらに、無駄な手間が必要なリソースを奪い取り、リソースが少なくなった分を新たなルールで補おうとして、さらに無駄な手間が発生する……、このような悪循環の中で、個人や集団の生産性はとどまることなく落ちて行く。「これをする必要が本当にあるのか」「このルールの優先順位はどの程度なのか」は、余計なことをせずに済ませるために、そして、生産性を上げるために私たちがつねに考慮すべき点であるように思われる。

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