AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:反ライフハック > 知的生産の技術

Si puedes tú con Dios hablar...

これまで7ヶ月以上、毎日記事を投稿してきたが……

 最初に自虐的なことを言うと、今日(2017年3月31日)の時点では、このブログは、ほとんどまったく読まれていない。

 もちろん、誰にも読まれていないわけではないし、読んでくれる人たちには心から感謝している。それでも、PV(ページビュー)という観点から眺めるなら、「読まれている」とは言えないことは確かである。

 あるブロガーによれば、1日あたりのPV(ページビュー)が50以下のブログを書いているのは「ビギナー」であり、PVが50を超えると「脱ビギナー」に昇格するらしい。私のブログの1日あたりのPVは50を下回っているばかりではなく、過去30日間の平均は5にすら届かないから、この基準を機械的に適用するなら、私は「ビギナーの中のビギナー」となるであろう。

PV数でわかるブロガー番付|あなたのブログはどのレベル? | ブログ部

 私には、何が原因でこれほどPVが少ないのか、よくわからない――というよりも、アクセスアップのためのSEOなど、面倒だから考えないようにしている――けれども、アフィリエイトを目的としてブログに記事を投稿し続け、かつ、7ヶ月以上が経過し、200件以上の記事が投稿された時点で1日のPVが5を下回っていたら、続ける意欲が完全に失せているに違いない。

 私の場合、いくらか苦痛だったのは、開始から昨日まで218日、1日1件ずつ投稿を続け、合計218件を投稿したけれども――この記事が219件目に当たる――投稿した記事の7割近くは、投稿されてから今日までのPVがゼロ、つまり、私と検索エンジンのクローラー以外の誰にも読まれていない点である。「誰かに読んでもらう」ことあるいは「稼ぐ」ことが第一の動機であるなら、全体の3分の2が誰の目にも触れることなくどこかに格納されたまま、しかも、この状態に耐えてブログを書き続けるなど、正気の沙汰ではないと思うかも知れない。

 なお、これまでのところ、PVが完全にゼロの期間の最長記録は12日間であった。このときには、Google Analyticsに次のようなアラートが表示された。

ヒットがありません。プロパティ「adhocmoralist」でヒットが発生していません。

プロパティ「adhocmoralist」はヒットを受信していません。サイトでまったくセッションが発生していないか、サイトが正しくタグ設定されていない可能性があります。

 何かの設定のミスでアクセスが記録されていないとGoogle Analyticsは判断したらしいのである。さすがに、これには少し傷ついた。(この期間、ライブドアの方のアクセス解析でもゼロが続いていたから、これは決して設定のミスではない。本当に「セッションが発生していな」かったのである。)

「自分語り」の可能性をつきつめる実験

 今後も休まず投稿を続けるかどうかはよくわからない。それでも、「PVがどれほど少なくても、ゼロを下回ることはあるまい」などと自分に言い聞かせながら記事を書き続けてきたのには、明確な理由がある。

 あとで述べるように、読まれることが少ないことは、それなりに苦痛である。それでも、強力な動機を見つけることができるなら、続けることは可能であり、私の場合、少なくともこれまでのところ、ブログに記事を投稿し続ける十分な動機があったことは確かである。

 そもそも、このブログは、自分自身の「知的な棚卸し」のために始められたものである。

 これまでの人生で出会った楽しいことや辛いこと、成功したことや失敗したこと、得意なことや苦手なこと、好きなことや嫌いなこと、興味を抱いたことや忌避したこと、さらに、日々の生活の中で出会い、私の心を動かしたことを取り上げ、自分の性格や価値観を形作っているものを白日のもとに並べてみること、ブログにはこのような目標があった。だから、ブログの記事はすべて、私の心が何かによって動かされたとき、この心の動きを丹念に吟味する試みであり、私が何者であるかを知るための手がかりであり、このかぎりにおいて、本質的に「自分語り」である。

 当然、自分が何者であるかを知り、本来の自分へと立ち戻るために、この「自分語り」は、何としてでも完結させられねばならないものである。私はこのように考え、読んでくれる人がとても少なくても、あえて記事を書き続けてきたのである。

読まれないよりは読まれた方がよいに決まってはいる

 もちろん、「そういうバカなことを言っているから読まれるブログにならないんだよ」と言う人はいるであろう。たしかに、

    1. 日記ではなくブログとして万人に公開しているものである以上、誰かに読まれた方がよいに決まっている。また、
    2. 他人の目があると思うからこそ、誰が読んでも理解することができるよう表現を心がける習慣が生まれ、さらに、
    3. 誰が読んでも理解することができるような表現を工夫する努力のおかげで、思考に秩序が与えられることにもなった。

 だから、いくら「自分語り」であるとは言っても、誰かに読まれることはつねに想定されていたわけであり、それにもかかわらず実際には読まれないことが、それなりに苦痛であることは事実である。

 しかし、「自分語り」の可能性をつきつめること、自己省察を徹底させること、このような作業の涯に姿を現すのは、まったく個人的、私的で、他人には理解不能なおしゃべりではなく、むしろ、何らかの意味において普遍的な意義を持つ「語り」なのではないか、そして、私が何者であるかが明らかになるばかりではなく、この世界をあるがままに眺める視力を獲得することができるのではないか、私はこのように期待している。

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commonplace bookとは「知的生産を想定して作られた読書ノート」

 ルネサンス以降の西洋の知識人、特に英語を母語とする知識人の多くは、commonplace bookと呼ばれるノートーー稀にカード――を遺している。このcommonplace bookを機械的に日本語に直訳すると「決まり文句の本」となるはずであるが、「決まり文句の本」では、紋切型の表現を集めた本のようであり、意味が伝わらない。そこで、commonplace bookには、「備忘録」という訳語が当てられることもある。

 しかし、この「備忘録」という訳語もまた、コモンプレイス・ブックの正体を適切に表してはいない。というのも、これは、たしかに、何かを記録しておくためのノートではあるけれども「備忘録」という言葉が想起させるようなもの、つまり、忘れてはいけない情報の雑多な集積ではないからである。

 コモンプレイス・ブックをものすごく雑に説明するなら、それは、本を読んでいるときに出会った名言や感動した箇所を抜き書きしたり、本を読んで思いついたことを書きとめたりするノートである。

 もともと、commonplaceという英語の名詞は、ラテン語のlocus communisに由来し、このラテン語は、さらに、ギリシア語のkoinos toposに由来する。これらを文字どおりに訳すなら、「共通の場所」ということになるけれども、この場合の「場所」とは、三次元空間のどこかを指し示すのではなく、文学や弁論術における「語り方の定型」のようなものを意味すると考えてよい。したがって、ルネサンス以降の西洋世界におけるコモンプレイス・ブックがcommonplaceの本である所以は――もちろん、「決まり文句」が集められているからではなく――このノートに書きとめられたメモの1つひとつが自分なりのcommonplaceであり、何らかのテーマに関する自分なりの語り方を形作るものである点にある。すなわち、何かについて意見を述べる場合の自分の語り方をノートにあらかじめストックすることが、コモンプレイス・ブックを作る意義であったことになる。

 もちろん、何をコモンプレイスとしてストックするか、そして、これをどのような秩序のもとに排列するかは、ノートの所有者により一人ひとり異なる。当然、コモンプレイスがノートにストックされるとき、そのコモンプレイスには、もとの本において占めていたのとは別の新しい文脈が与えられる。したがって、自分が作ったコモンプレイス・ブックを読みなおすことにより、新たな発見や思いつきが生まれる可能性がある。もちろん、このような発見や思いつきもまた。新たなコモンプレイスとしてコモンプレイス・ブックに書き加えられるべきものであった。コモンプレイス・ブックの実質は、「備忘録」というよりも、むしろ、「知的生産を想定して作られた読書ノート」であると言うことができる。

 コモンプレイス・ブックに情報が集積されて行くとともに、それは、書物からの引用を大量に含んだ自家製百科事典となり、(その生成の歴史を含めて)自分なりの小宇宙の表現となるはずのものであった。コモンプレイスの選択と配列の順序に、一人ひとりの個性が現われるからである。

 16世紀以降、少なくとも19世紀半ばまで、イギリスとアメリカを中心とする多くの知識人がコモンプレイス・ブックを作り、また、コモンプレイス・ブックを作ることは、知的生産に携わる可能性がある者たちに対し広く推奨されていた。(ハーバード大学の図書館には、コモンプレイス・ブックのコレクションがある。)

 ジョン・ミルトンやフランシス・ベーコンなどのイギリス人に始まり、トマス・ジェファソンやラルフ=ウォルド―・エマソンなどのアメリカ人を経て、ロナルド・レーガンやビル・ゲイツまで――commonplace bookの名がつねに用いられてきたわけではないとしても――書物を手がかりとする知的生産のためのノートには、すでに数百年の伝統があるのである。

ジョン・ロックの「ノート術」

 もちろん、コモンプレイス・ブックの作り方は、人により区々であった。コモンプレイス・ブックの作り方とは、自分なりの小宇宙の作り方であるから、これは当然のことである。

 それでも、コモンプレイス・ブックを作る人口が増えるとともに、「コモンプレイスブックの作り方」なるものが考案され発表されるようになる。現代において、「ライフハック専業ライター」たちが「ノート術」や「手帳術」なるものを飽くことなく考案し発表しているのと同じことである。実際、アメリカの「ライフハック業界」では、すでにコモンプレイス・ブックの再評価が始まっているようである。

 そして、この「コモンプレイス・ブックの作り方業界」(?)の歴史の初期に姿を現し、ある意味において非常に大きな影響を与えたのが、哲学者のジョン・ロックである。『人間知性論』と『市民政府二論』という2つの主著を持つロックは、23歳のときから世を去るまで、コモンプレイス・ブックを作り、その傍ら、コモンプレイス・ブックの作り方を発表している。ロックの手になる「摘要集の新しい作成法」(Méthode nouvelle de dresser des recueils) は、1685年にまずフランス語で発表され、1697年に「コモンプレイス・ブックを作る新しい方法」(“A New Method of Making Common-Place-Books”) という表題で英語に翻訳された。(フランス語版は、下のフランス語版著作集の391ページ以下に掲載されている。)

Oeuvres philosophiques de Locke : John Locke : Free Download & Streaming : Internet Archive

 そして、この30ページに満たない短い文章は、英語圏では、100年以上にわたって繰り返し参照されることになった。(下が英語版。331ページから始まる。)


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 ロックは、このタイプのライフハックがよほど好きだったのであろう、自分自身のコモンプレイス・ブックの実例を掲げながら、コモンプレイスの選択と排列の方法を詳細に説明している。

 ロックがこの文章において推奨するコモンプレイス・ブックの作り方とは、大雑把に言うなら、本を読んでいて目にとまったフレーズを抜き出してコモンプレイスとすること、そして、これに(ラテン語の)タグをつけ、このタグを用いてコモンプレイスを並べることである。すなわち、タグをコモンプレイス・ブックの見出しとして利用し、この見出しのもとに1つひとつのコモンプレイスを挿入することをロックはすすめているわけである。(もちろん、抜き書きされた引用をどのテーマに分類するかは、各人の自由である。)このように排列しておけば、特定のテーマについてのコモンプレイスをまとめて参照することが可能となる。

 思想史的な観点から特筆すべきことは、ロックが、検索に必要な時間を短縮するため、ラテン語のタグ(=見出し)をアルファベット順とすることを推奨している点であろう。17世紀の末にはまだ、「アルファベット順」というのは、語の排列の仕方として必ずしも一般的ではなかった。当然、タグのアルファベット順にコモンプレイスを排列するかぎり、コモンプレイスを1つずつ順番に読んで行っても、共有されたタグ以外の連関をコモンプレイスのあいだに見出すことはできなくなってしまうけれども、この点もまた、ロックの意図した点であったに違いない。

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スーパーマーケットには(当然のことながら)個性がある

 私の自宅から半径1キロの圏内には4軒のスーパーマーケットがある。当然、すべて異なる会社のスーパーマーケットである。普段、私は、この4軒のうち、自宅からもっとも近いところにある1軒で買いものしている。自宅の玄関を出てから店に辿りつくまでの所要時間がわずか3分であり、他と比べて断然近いからである。このスーパーマーケットが近所に開店して以来、日常的な食料品を調達するために他のスーパーマーケットに出かける機会はまずない。

 とはいえ、近所を散歩しているとき、いつもは使わないスーパーマーケットの前を通りかかり、店に入ってみることがある。そして、これは、いつも決まった店でしか買いものしない私のような無精な人間にとっては、非常に新鮮な体験である。

 私は、スーパーマーケット評論家ではないから、包括的な知識を持っているわけではないけれども、スーパーマーケットというのは、たがいに似ているようでありながら、細部に関してはたがいにかなり異なる。出入口、棚の位置や高さ、棚のあいだの通路の幅、価格の表示の方法、レジの仕組み、付帯的なサービスなど……。1つのスーパーマーケットに慣れていると、なじみのない店に初めて入ったとき、上手く適応できないことがあるに違いない。

買いものリストはどう作られているか

 ところで、よく知っているスーパーマーケットに出かけるとき、多くの人は、買うべきもののリストを用意し、これを参照しながら買いするはずである。何のリストも持たずに店に行き、食料品を買うことができるためには、すでに自宅の冷蔵庫などにあるものを正確に把握し、これを目の前に並ぶ食品と突き合わせながら――少なくとも1日分の――献立とその調理のプロセスを一挙に想起することができなければならない。

 しかし、私など、もう20年近く、ほぼ毎日自炊しているけれども、このような芸当ができるレベルには到達していない。何を買うかは、冷蔵庫の内容を確認しながら事前に決め、必ずあらかじめメモを作って出かける。なお、買うべきもののリストを作ってくれる多種多様なアプリがあるようであるが、私は、文明の利器は使わず、A6版のメモ用紙で済ませることにしている。買いものが終わったら捨てられるからである。

 なじみのあるスーパーマーケットの場合、誰でも、店内を回遊するルートがほぼ決まっているに違いない。つまり、いつも必要とする商品を無駄なくピックアップできるような最短の「順路」が心の中で何となく出来上がっているはずである。

 したがって、リストを作るときには、この「順路」と、「順路」を実際に歩いたときに前を通過するはずの棚とそこに並ぶ商品を心に浮かべながら、ピックアップする順番に商品の名前と数量を書き出して行く。(買いものリストを作りながら、心の中で買いものをシミュレーションするわけである。)献立ごとにアイテムがグルーピングされたリストやアイウエオ順のリストが作られることはまずないように思われる。

 だから、一度に買うべきものの種類がよほど多くないかぎり、店を歩いているときにメモを参照することはなく、むしろ、メモを見るとするなら、レジで精算する前に、買い忘れたものがないか確認するためであるのが普通ではないかと思う。買いものリストは、店の棚の高さや通路の幅、天井の高さや照明を含む三次元空間全体に密着した形で作られるものであり、買いものに出かける店に慣れていることは、日常的な買いものにとって無視することのできない条件であることになる。

なじみのないスーパーマーケットで買いものが滞る理由

 理想の買い物リストというものが、なじみの店の空間との重ね合わせにおいて作られるものであるなら、なじみのないスーパーマーケットでの買いものが上手く行かない原因は、もはや明らかであろう。すなわち、なじみのない店の場合、買いものリストが上手く機能しないのである。

 スーパーマーケットのどの棚のどの高さにどのような商品が置かれているのか、初めて入る店ではわからない。だから、私たちは、店じゅうを右往左往しながら商品をピックアップすることを余儀なくされる。また、あるスーパーマーケットでは定番になっているものが、別のスーパーマーケットの棚には見当たらないことも珍しくはない。

 もうずいぶん前のことになるが、西日本のある街に住んでいたとき、引っ越してすぐ、近所にあるスーパーマーケットに出かけた。私が入ったのは、売り場面積の途方もなく広い店であり、商品の配置もまた、私が知っているのとはかなり違っていた。それは、東京出身の私にとっては、初めて入るイオンの系列の店であった。

 おそらくそのせいなのであろう、買いものリストに商品を適切に排列することができないばかりではなく、買うべき商品の記載漏れも少なくなかった。実際に店に足を運んでも、店の端から端まで歩くのに3分くらいかかるから、買うべきものを忘れたことにレジの前で気づいても、これを取りに戻るのが面倒になってしまう。結局、商品のピックアップの手順を心の中でシミュレーションすることができるようにはならないまま、このスーパーマーケットでの買いものを諦め、別の、もっと小さな店を使うことにしたのを今でも覚えている。

Mirror Time

 『断捨離』という表題の本を私が初めて目にしたのは、2010年の初めのことである。


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 その年の終わりごろには、『人生がときめく片づけの魔法』という――発音することにいくらか気恥ずかしさを覚えるような――タイトルの本の広告を電車で見かけるようになった。


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 よく知られているように、『断捨離』も『人生がときめく……』も、片づけの方法を案内する本であり、自己啓発書でもある。内容はたがいにいくらか異なっているけれども、自分自身にとって必要なモノを手もとに残してあとは処分し、少数の必要なモノを適切な仕方で自分の周囲に配置することを求める点、そして、片づけによって人生を好ましい方向へと変えることができることを主張する点では、両方とも同じである。違うのは、捨てるかどうかを決めるにあたり基準とすべきものの名前だけである。

 これら2冊ばかりではなく、片づけによって人生を変えることができることを主張する自己啓発書は、私の知るかぎりではすべて、自分の身の回りにあるものを処分するかどうかを決める基準が一人ひとりのうちにあることを自明の前提とする。すなわち、これらの本によれば、私が手もとに残してよいのは、自分の人生に必要なもの、「心がときめく」ものだけであり、この条件を満たさないものは、合理的かつ機械的な手順に従って処分しなければならず、処分することにより、人生が好ましい方向へと変化して行くことになる。片づけというのは、目づまりを起こした排水管を高圧洗浄できれいにするようなものと見なされていることになる。

 たしかに、私たち一人ひとりには、かけがえのない個性がある。たがいにどれほど似ているとしても、私には、あなたになることはできないし、あなたもまた、私になることは不可能である。当然、私が身の回りに置きたいと思うものと、あなたが身の回りに置きたいと思うものが完全に同じであるはずはない。

 私たちは、普段の生活において、他人と共存しなければならず、そのために、自分と他人の小さな区別をあえて見過ごし、自分に対して小さな不誠実を重ねながら生きている。しかし、自分の生活空間を快適な仕方で組織する――つまり「片づける」――ことを望むのなら、自分のあり方を反省し、自分自身に対して徹底的に誠実になることが必要であるに違いない。このかぎりにおいて、片づけは、自分自身に立ち返ること、本来の自分になることである。

 しかしながら、片づけに関するかぎり、事柄はそれほど単純ではない。というのも、ここには、次のような問題が認められるからである。

 以前に別の記事で少し述べたように、


片づけの社会性 「モノをなくさないこと」と「整理整頓」のあいだ : アド・ホックな倫理学

モノをなくさないための3つの方法 なくしたモノを自宅や職場で探すために、私たちは、膨大な時間を使っている。数日前に読んだある記事によれば、すべての人間を平均すると、人生全体の6ヶ月は、なくしたモノを探すために使われているらしい。なくしたモノが気になって眠れ

自分自身に対して完全に誠実になったからと言って、部屋がきれいに片づくとはかぎらない。というのも、私たちが「きれいに片づいた部屋」(「何もない部屋」ではない)と見なすものは、自分自身に対する誠実の帰結であるとはかぎらず、むしろ、それは、他人に見せたときに「きれい」として受け容れられるはずの状態を目指して試みられた整理整頓の結果にすぎないのが普通である。私の私らしさは、それ自体としてすでに社会的なものであるから、片づけというのは、つねに、そこにおいて本来なら表現されるべき「私自身」なるものを多少なりとも裏切るかたちでしか実現されえないものであり、このかぎりにおいて、一種の不誠実を避けられないのである。

 ほぼすべての人間にとり、本当の自分自身というのは、たしかにかぎりなく個性的ではあるけれども、同時に、それは、直視に堪えない弱弱しい存在であり、自分の身の回りにあるものを処分するかどうか、適切に決める力もなく、必要なモノを見の回りに適切に配置するための秩序をみずから産み出す力もない。私たちは、自分自身に立ち返り、自分らしい生活を実現するために片づけを実行する。それにもかかわらず、「きれい」に関しすでに社会において通用している支配的な標準に寄生しなければ、片づけを完結させることができない。片づけを進めるとともに、私たちは、社会によって固有性を剥奪された自分自身、他人のまなざしを借りることなしには身の回りの整理すらできない自分自身を見出すことになるのである。

346/365: A drunken cigarette

モノをなくさないための3つの方法

 なくしたモノを自宅や職場で探すために、私たちは、膨大な時間を使っている。数日前に読んだある記事によれば、すべての人間を平均すると、人生全体の6ヶ月は、なくしたモノを探すために使われているらしい。なくしたモノが気になって眠れない夜のようなものを含めるなら、さらに多くの時間が人生から奪われているかも知れない。

We Spend Six Months Over the Course of Our Lives Searching for Lost Things

 ところで、形式的に考えるなら、なくしたモノを探すために費やす時間を減らすには、3つしか方法がない。

 (1)1つは、(当然のことながら!)モノを最初から何も持たないこと、(2)もう1つは、すべてのモノの「在り処」をすべて記憶していること、(3)最後の1つは、整理整頓である。この場合の整理整頓とは、一つひとつのモノの「在り処」を記憶にとどめる代わりに、三次元空間におけるモノの配置に秩序を与えることである。何らかの秩序に従ってモノが配置されているかぎり、ものの「ありそうな場所」はおのずから限定され、探すのに必要な手間も減ることになる。(もちろん、記憶の負担も減る。)そして、(1)が不可能であり、(2)にはおのずから限界がある以上、私たちの多くは、モノをなくさない工夫として、第3の方法を採用しているはずである。

モノを減らせば、モノを探す時間は短縮できるが、快適な空間が生まれるとはかぎらない

 とはいえ、モノの配置に秩序を与えるのが重要であることは分かっていても、これを実行することは容易ではない。どのような秩序を空間に与えればよいのか、見当がつかないことが多いからである。片づけを苦手とする人の多くは、モノを整理する秩序を決めることができない人である。

 そこで、「片づけのプロ」を自称する専門家たちは、例外なく、モノを減らし、何をどのような秩序で配置すればよいのか、見通しをよくする作業から片づけを始めることを推奨している。実際に使用する可能性のないモノを目の前から消すことにより、何を整理整頓すればよいのか明らかになるというのが彼らの見解であり、この見解は、広く受け容れられているように見える。

 ただ、どれほどモノが少なくなっても、それだけで、何を、どこに、どのように配置するか、おのずと決まるわけではない。実際、モノを徹底的に減らしても、身の回りが相変わらず雑然とした状態であることは可能である。

 たしかに、モノを処分すれば、上の(2)の状態に近づく。だから、整理整頓がまったく行われていなくても、なくしたモノを探す時間は大幅に短縮される。けれども、整理整頓はなされていないがモノが少ない空間には、秩序というものが欠けているから、このような状態の空間に身を置いても、私たちは、これを快適な空間とは認めないはずである。

「マイ秩序」という言い訳

 このようにして考えてみると、必要なモノに必要なときにすぐにアクセスすることができる状態にすることは、視覚的に快適(で美的)な空間を作ることから区別されねばならないことがわかる。写真、財布、鍵、チケット、メガネ、携帯電話、……、私たちがなくしそうなモノがすべて床の上に散乱し、床を一瞥するだけで何がどこにあるかわかるとするなら、探しものに必要な時間はゼロであろう。しかし、これが整理整頓された、秩序のある、快適な空間であるかと問われれば、多くの人は否定的に回答するであろう。

 しかしながら、この点に関し、次のように主張する人がいるに違いない。他人の目に雑然とした空間と映るとしても、モノと空間を実際に使う自分にとって不都合がなければ、それは、秩序ある快適な空間である、このように主張する人がいるはずである。つまり、自分専用のスペースがどれほど雑然としているように見えても、それは、自分にしかわからない秩序、いわば「マイ秩序」によって支配されているのだから、何ら問題はないということである。 

 たしかに、自分の身の回りのモノの配置に関し、自分の内部から明瞭で包括的な秩序を産み出し、これを外部に的確に投影し、そして、モノをこれに従わせることがまったく不可能であるとは思わない。しかし、現実には、このような人間はいないであろう。というのも、生活空間を組織する秩序というのは、文法のようなものだからであり、生活空間を完全な「マイ秩序」で組織するというのは、文法と語彙を具えた「マイ言語」を自力で作り出すのと同じような力業だからである。大抵の場合、整理整頓とは、社会において広く通用している既存の片づけの文法――つまり、生活空間に認められるべきであると普通に考えられている秩序――に寄生して進められるものであり、整理整頓がモノに与える秩序は、他人と共有しているものである。つまり、片づけが実現することを目指す秩序は、本質的に社会的なものであると言うことができる。私の生活空間を片づけ、モノに秩序を与えて整理整頓する作業には、つねに他人のまなざしが介在している。片づけるのが私専用のスペースであるとしても、片づけという作業、整理整頓という作業が目指す秩序からは、私の存在のかけがえなのなさ、私の空間のかけがえのなさがその都度あらかじめ幾分か剥奪されているのである。

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