AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:反ライフハック > 世渡りの技術

あなたの希望を満たす条件を具えた「普通」の男性が女性に最初に求めるのは「メシを食うインテリア」であること

 婚活中の男性は、女性に何を期待するのか。

 この記事を読んでいるあなたが30代後半以上の女性で、かつ、お洒落な小型犬を飼っているなら、あなたが標的とするクラスターの男性の大半があなたに求めることは、さしあたり、あなたが自分の飼い犬に求めることとほぼ同じであると考えてさしつかえない。つまり、婚活中の男性が自分の妻となる可能性のある女性を評価する第一の基準は、自宅では「メシを食うインテリア」となり、外では「外出するときのアクセサリー」としてふさわしいかどうかである。

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 あなたが標的とするクラスターの男性は、結婚することで発生する多少の金銭的な負担には耐えられるかもしれないが、結婚生活を維持するために時間的、体力的な負担が増えることは基本的に望まないはずである。言い換えるなら、金銭的に余裕がある男性には、時間や体力に関して余計な負担を抱え込んでまで結婚しなければならない理由は見当たらないと考えるのが自然である。

 だから、男性に対してアピールしうる特別な長所が見当たらず、それにもかかわらず、何が何でも結婚するつもりであるなら、「メシを食うインテリア」になる覚悟が必要である。この覚悟がないまま男性との対等な関係を望んでも、これが実現する見込みはゼロにかぎりなく近い。自分が希望する条件を満たす「普通」の男性と結婚することを望むのなら、「メシを食うインテリア」になりきる意志がなければ何も始まらないに違いない。

男性には、他に評価の基準を持つことができない

 30代後半以上の女性が結婚相談所やネットを使って婚活する場合、「メシを食うインテリア」「外出するときのアクセサリー」になる覚悟がなければ、結婚に辿りつくことは難しいはずである。しかし、このように主張することによって、私は、決して女性を貶めているわけではない。というのも、冷静に考えるなら、婚活中の女性の多くが「普通」として想定するような男性には、少なくとも初対面の時点では、女性に対して他に何かを求める余地がないからである。

 男性でも女性でも同じであろうが、相手の人となりを知るには、それなりの時間が必要となる。人間というのは、一人ひとりが多面的な存在であり、また、かぎりなく個性的だからである。したがって、相手の人となりを知るのに費やされた年月は、その分、相手に対する印象に深みを与える。これは、以前に投稿した次の記事で述べたとおりである。


人が家族の顔に読み取るもの : AD HOC MORALIST

若いころからの知り合いであることは決定的に重要 しばらく前、次のニュースを目にした。阿川佐和子さんが結婚 私は、阿川佐和子氏が独身だったことすら知らなかった。(正確に言うなら、既婚かどうか考えたこともなかった。)だから、上のニュースについて、特別な感慨や


 残念ながら、30代後半の時点であなたに初めて会う男性は、あなたの家族や友人とは異なり、10代のあなたも20代のあなたも知らない。男性にとって、あなたは、目に映るとおりの存在であり、それ以上でもなく、それ以下でもないのである。

 あなたの面白さやすばらしさ――これを理解させるには、ながい時間が必要である――がわからない以上、「身近に置いて邪魔ではなく、不快ではないかどうか、メインテナンスにコストがかからないかどうか」という点以外に確認しうるポイントがないのである。

 だから、あなたの趣味が何であろうと、年収がどのくらいあろうと、特技が何であろうと、「メシを食うインテリア」として不十分と見なされるかぎり、婚活を先に進めることはほぼ不可能であることになる。

「メシを食うインテリア」であるとは「ばばあ」にならず、現世に踏みとどまること

 しかし、見方を変えるなら、「メシを食うインテリア」でありさえすれば、それ以上を女性に対し望まない男性は少なくない。

 そもそも、多くの男性が理解する「メシを食うインテリア」は、物理的な「若さ」とは直接には関係がない。むしろ、「メシを食うインテリア」としての女性の質は、人生経験によって決まるものであり、年齢を重ねるほど、個人差が大きくなると言うことができる。(60代、70代、80代でも、「メシを食うインテリア」として男性の注意を惹きつける女性はつねに一定数いる。)

 30代後半以降の女性が「メシを食うインテリア」であるためにもっとも大切なことは、「ばばあ」にならないことである。


「ばばあ」の世界 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

私が日本の女性についていつも不思議に感じていることの1つに、年齢を重ねることへの極端な恐怖あるいは嫌悪がある。 これは、外国との比較において初めてわかることではない。一方において、年齢を重ねた女性のアンチエイジングへの執着、他方において、自分よりも少し


 これは、「若作り」のすすめではない。上の記事に書いたように、「ばばあ」にならないとは、「若さ」が参入の前提となる領域から退却して「異界」――「丁寧な暮らし」など、「普通」の男性にとっては異界そのものである――へとみずからを連れ出すことなく、また、「中性化」することなく、年齢にふさわしい魅力を模索する努力が――男性から見ると――必要であるにすぎない。

結婚相手は、「昔からの知り合い」から選ぶのが無難

 これは、30代後半以降の女性にとっては、ことによると、つらい作業であるかもしれないが、残念ながら、「市場調査」にもとづいてターゲットを定め、このターゲットが好むよう、自分自身の「商品」としての価値を上げる以外に道はないのである。

 また、「メシを食うインテリア」となって「普通」の男性と結婚することができたとしても、その後に明るい楽しい生活が保障されているわけではない。特に、男性は、目の前にいる女性について、「自分と結婚したいのか、それとも、自分の『スペック』と結婚したいのか」という点に特に敏感であるのが普通であるから、結婚したからと言って、「メシを食うインテリア」である努力をやめるわけには行かないはずである。これは、あなたが飼っている「メシを食うインテリア」としての小型犬の身になって考えてみれば明らかであろう。


飼い犬の孤独 : AD HOC MORALIST

夕方、近所を散歩していると、犬を連れた主婦や老人とすれ違うことが多い。以前に投稿した下の記事に書いたように、私は、血統書のある純血種の犬をあまり好まない。ペットを「買う」ことへの違和感 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST愛玩動物に占める純血種の割合が増え


 過去のあなたを知らない男性に自分のことをアピールするには、つらい思いをしなければならないことが少なくない。だから、結婚相手を探すなら、あなたの若いころのことを少しでも知っている男性をまず検討するのが無難でもあり、また、精神衛生上も好ましいように思われる。このような男性なら、あなたが努力しなくても、若いころのあなたの姿を現在のあなたの姿のうちに認めてくれるはずだからである。

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立食パーティーでは何も食べないと決めた

 私は、立食パーティなるものが苦手である。理由は2つある。

 第一に、誰かと話をしていると食べることができず、食べてばかりいると、誰とも話をすることができないからである。

 第二に、他の参加者と自然な形でコミュニケーションを成り立たせるのに苦労するからである。

 この数年、私は、立食パーティーに参加せざるをえなくなったら、基本的には何も食べず、他人と話すことに時間のすべてを使うことにしている。

 上の第一の問題は、「立食パーティーでは何も食べない」と割り切ることにより解決する。飲み物――私は酒が飲めないから、当然、アルコールの入っていないもの――を片手に会場を歩き回り、ひたすら誰かと話す。私の場合、立食パーティーは基本的にすべて、「仕事」または「仕事の延長」であるから、会場で誰かとコミュニケーションすることは、職場での居心地や仕事のやりやすさに直に影響を与える。だから、本当は、何かを食べている余裕など――まして、酔っ払っている余裕など――もともとなかったと言うことができる。

知らない者ばかりの立食パーティーで話し相手を見つける困難

 しかし、さらに厄介なのは、上の第二の問題、つまり、他の参加者と自然な形でコミュニケーションを成り立たせるのが難しいという点である。この困難は、さらに2つに区分することができるように思われる。

 第一に、参加者に知り合いがいないか、あるいは、ほとんどまったくいない場合、知らない人に声をかけて話することは非常に困難である。この困難を克服する数少ない方法として考えられるのは、(参加者が名札をつけているなら、)名札を見て、コミュニケーションが成り立ちそうな相手を探すことである。あるいは、ホストあるいは主賓に話しかけるのもまた、1つの選択肢である。それでも、参加者の大半が小さなグループを作り、しかも、あなたがそのどれにも属していなければ、あなたは、身の置きどころのない気持ちになるかもしれない。

同時に2人以上と、明確な始まりも終わりもなく会話する困難

 第二に、立食パーティーでは、参加者が自由に移動するため、パーティーにおけるコミュニケーションは、一対一での安定した対話ではなく、3人以上の当事者による――また、当事者の交替の可能性を含む――不安定な雑談とならざるをえない。しかし、このタイプのコミュニケーションには、これを得意とする者と苦手とする者がいるはずである。(私は、大の苦手である。)

 この困難を克服するには、とにかく――音量を抑えながら――できるかぎりたくさん話し続けることしかない。私の乏しい経験の範囲では、グループで話しているときには、話した言葉が多いほど、誰か相手を見つけて話し続けることができる場合が多いように思われる。話し続けているうちに、目の前の相手が交替するかもしれないが、相手を見て、ときには質問しながら、途切れることなく話を続けることは、立食パーティーにおいて基本的な戦術であろう。

 もちろん、明確な脈絡もなく、とりとめのない話題について、短時間で入れ替わる相手とひたすらしゃべり続けるなど、知的な人間のすることではないように見えるかもしれない。また、(私を含め、)このような会話に慣れていない場合、疲れることは確かである。

 それでも、パーティに楽しさではなく実利を期待するのなら、私たちには、覚悟を決めて会話に飛び込んで行く以外に道はないように思われるのである。

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会いたくないと思う相手に限って会ってしまう

 学部生のころ、ある先生のところに質問に行き、そのついでに、世間話をしていたとき、何がきっかけだったのかよく覚えていないけれども、私の親類の職業のことが話題になり、私が、親類の一人の職場の名をその先生に告げたことがある。すると、その先生は、御自分の奥様の親類でその同じ職場に勤めている者がいると言い、その親類の方の名前を私に教えてくれた。

 しかし、私は、顔には出さないようにしたが、ひそかに凍りついた。というのも、先生の口から出たその親類の方の名前というのは、同じ職場で働く私の親類からすでに何度も聞かされていた同僚の名前であり、しかも、つねに悪口とともに聞かされていた名前だったからである。その職場では、私の親類と先生の親類の方は犬猿の仲であり、一触即発の状態だったのである。

 私は、その場では何も言わず、そのまま退散したけれども、その後、その先生とのあいだには、何となく気まずい空気が生まれ、私は、その先生にはできるかぎり近づかないようにした。

 自分に対し必ずしも好意的ではないことがあらかじめ分かっているような人物、あるいはその関係者と、思わぬところで、思わぬときに遭遇する、このようなことは、少なくとも私の場合、決して珍しくない。(自慢ではないが、現実的な敵と可能的な敵を併せると、私には相当な数の敵がいるに違いない。)だから、誰かとある程度以上親しくなる可能性があるときには、相手の生活、背景、信条などを私の力の及ぶ範囲で調べてから慎重に接近することにしている。これまで、不用心に近づいてひどい目にあったことが何回かあるからである。どのような会合に顔を出しても、できれば会いたくないと思う相手を少なくとも一人は発見する。そして、そのたびに、世間が狭いものであることを実感する。

逃げ回っていても仕方がない

 とはいえ、会いたくない相手を忌避して逃げ回っていると、行動範囲が次第に狭くなってくる。嫌な相手と近距離で顔を突き合わせるような状況は避けるとしても、そうでなければ、適当にやり過ごしたり無視したりする度胸は、やはり必要であろう。気が重く感じられる場面にも、できるかぎり顔を出すよう心がけてはいる。

 そもそも、世間を構成するのは、私に敵意を抱いている者や、私に必ず敵意を抱くはずの者ばかりではあるまい。未知の誰かが私のことを好意的に評価してくれるかもしれない。私と親しくなることを望む者がどこかにいるという想定もまた、必ずしも不自然ではないように思われる。

 実際、私の知らない誰かがどこかで私のことを気に入ってくれるかもしれない、新しい出会いがあるかもしれないと思わなければ、ブログなど書き続ける気にはならないであろう。

 だから、初対面の人、しかも、挨拶以上の何か意味のあるコミュニケーションの相手となる可能性のある人には、最大限の笑顔とともに礼儀正しく愛想よく接し、相手の神経を逆撫でしないよう心がけている。この戦術が成功しているかどうかはよくわからない。まったく効果のない相手がいることは確かであるけれども、出会いがしらに見ず知らずの相手から不快な言葉を浴びせられるようなことは、最近ではずいぶん少なくなった。私がそれなりに年齢を重ねたおかげでもあるかも知れない。

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Photo by Ben White on Unsplash

他人の親切は負担になることがある

 私は、知り合いからプレゼントをもらうのが苦手である。なぜなら、もらったプレゼントには何らかの仕方で返礼しなければならないからである。

 もちろん、私の知り合いがプレゼンとするとき、私に「貸し」を作ることを意図しているわけではないであろう。

 実際、私が誰かにプレゼントしたとき、即座に返礼の品物が贈られてきたら、私は気を悪くする。残念ながら、私の周囲にいる知り合いのかなりの部分は、私からのプレゼントに対しこのような行動をとり、私は、そのたびに不快になる。(私は、よほど信用されていないのであろう。)

 最近、私は、誰かにプレゼントしたり、手土産を持って誰かに会いに行ったりすることがずいぶん少なくなった。モノが介在する関係は、私にとっては、あまり楽しいものではないからである。このような関係に巻き込まれることは、モノにとってもまた不幸であるように思われる。

本当に親しい相手からのプレゼントは、負債ではなく宝物

 このように、私にとって、プレゼントは一種の負債となり、返礼するまでは気分が落ち着かないことが多いけれども、プレゼントを贈られても、まったく負い目を感じない相手というのがいないわけではない。そのような知り合いこそ、私にとって本当に親しい相手であり、私は、もらったプレゼントを、その値段や世間における価値とは関係なく、心から大切にするはずである。

 そして、このことは、私が現に大切にしているものを私に贈ってくれた相手こそ私にとって大切な存在であることを意味する。言い換えるなら、私の持ち物から、私が大切にしているものを選び出し、そして、それがどこから来たものであるかを確認することにより、私が誰を大切に思っているかがわかるのである。

「サプライズ」が成功するかどうかも相手との関係次第

 だから、いわゆる「サプライズ」が成功するかどうかもまた、相手のことをどの程度まで信頼しているかによる。

 相手を喜ばせるためにサプライズを仕掛け、実際にこれを実行しても、相手がまったく喜ばないばかりではなく、反対に、相手のことを怒らせたり不快にさせたり困惑させたりする危険がある。このような危険を避けるには、相手を慎重に選ぶことが必要となる。

 私自身は、サプライズを仕掛けるのも仕掛けられるのも、両方とも苦手であるけれども、もし誰かに対しサプライズを計画するなら、その相手からもらったプレゼントを私がどのくらい大切にしているか、胸に手を当てて考えてみる。相手からもらったものを私が大切にしているのなら、サプライズを仕掛けても喜んでもらえるであろうし、サプライズを仕掛けられても喜んで受け止めることができるはずである。(反対に、サプライズを仕掛けることで不快にさせたり怒らせたりしてもかまわないと考える相手にサプライズを仕掛けると、ほぼ間違いなく、相手に不快な思いをさせることになる。相手のことを大切に考えていないからである。)

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通りすがりに入ったカフェがテレビで紹介された店だった

 今日の午後遅く、移動中に東京都心のあるオフィス街を徒歩で通過した。たまたま、次の予定までに1時間ほど時間が空いていたため、近くにあったカフェに入った。

 カフェのガラス戸を開けたとき、中から店員がやってきて、人数を不安そうな顔で私に尋ねた。私が「1人」と答えると、少し安心したような顔になって、すぐに席に案内してくれた。

 なぜ店員の顔に懸念の色が現われていたのか、そのときにはわからなかったけれども、席に着き、コーヒーとホットケーキ(←その店の名物の一つのようであった)を注文してから周囲を見渡してみて、その理由が何となくわかってきた。店の壁に、テレビ番組の取材で訪れたと思われる芸能人の色紙が何枚も飾られていたのである。

 色紙をよく見ることで、異なる番組の取材で異なる芸能人が異なる時期に店を訪れたことがわかった。つまり、この1年くらいのあいだに、テレビ番組でこの店が何回か紹介されているということなのであろう。私自身は、問題の番組を1つも見ておらず、当然、その店がテレビで紹介されたことも、壁に飾られた色紙を見るまで気づかなかったけれども、当然、大半の客にとり、この店を選ぶ理由は、「テレビで紹介されていた店」である点にあると考えるのが自然である。

 実際、私が店に入ることができたのは、幸運だったようである。私が店に入ったとき、店は1人分の席1つを除きすべて埋まっており(←客は私以外は全員女性)、そこに私がすべり込んだことになる。私が店に入った直後、店の外に10人近い行列(←全員女性)が一度に出来上がり、私が店を出るときにも、行列(←全員女性)は完全には消えていなかった。私は、行列がちょうど途切れたタイミングで店にすべり込んだことになる。

 店の入口で私を迎え撃った店員の顔が不安そうだったのは、客が複数名だった場合、路上で待つように言わなければならないと覚悟していたからに違いない。(それにしても、私が一人でこのタイプのお洒落なカフェに入ると、ほとんどの場合、なぜか「便所の隣」「レジの前」「厨房の出入り口」などに坐るよう求められる。今日も店でも、私が坐らせられたのは、厨房の出入り口であった……。なぜこのような条件の悪い、うるさい席に坐らせられるのか、これは私にとっては謎である。)

「行列に並んでまで」店に入りたいのか、それとも「行列を作るのが楽しい」のか

 私自身は、行列が大嫌いであり、一人のときには、飲食店の前に行列ができていたら、行列があるということを理由にその飲食店には近づかない。誰か知り合いと一緒に飲食店に出かけ、そこで列を作って順番を待たなければならなくなったときにも、基本的には、並ばずに入ることができる別の店を探す。考えが少し古いようであるけれども、商店や飲食店の前にできる行列というのは、社会の貧困の証のように思われるのである。おそらく、戦後間もない時期の日本の行列や、旧ソ連の行列を映像で何度も見ているからであろう。だから、列に並んで順番待ちしている客に気持ちが私にはわからない。

 しかし、形式的に考えるなら、列を作る理由は、次の2つに限られるように思われる。すなわち、順番待ちしてまで食べたいもの、あるいは、手に入れたいものが店にあるからであるか、あるいは、知り合いと一緒に列を作って順番を待つことがそれ自体として楽しいのか、これら2つ以外に理由は認められないはずである。

 テレビで紹介されていたという理由で客が殺到することが店にとってありがたいのかどうか、私にはわからないけれども、そのような客が常連となり、繰り返し店を訪れることは必ずしも期待することができないことは確かである。私自身は、自分が実際に訪れて居心地のよさを覚えた店を何回も訪れることが、店に対する礼儀であるような気がしている。今日の午後のカフェの前には、しばらくはまだ、テレビを見て訪れる客が列を作っていることであろう。私は、当分のあいだ、この店に行く予定はないけれども、テレビで紹介されたことが忘れられ、少し客が減ったころ、あらためて行ってみるつもりである。

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