AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:反ライフハック > 世渡りの技術

2014 KYOTO / 新幹線、グリーン車

 私は、鉄道で旅をするとき、グリーン車がある列車では必ずグリーン車を使うことにしている。距離、時間、列車の種類などには関係なく、座席を確保することができるかぎり、乗るのはいつもグリーン車である。

 私がグリーン車に乗ると決めたのは、今から20年以上前、大学院生だったころのことである。それ以来、どれほど懐が寂しくても、移動のストレスを軽減するためなら、カネはケチらないことにしている。

 念のために言っておくなら、私は基本的にはケチである。移動手段を選ぶときと本を買うときには値段を考慮しないけれども、それ以外のもの、特に生活必需品ではないものは、値段を見てから購入するかどうか決める。当然、デパ地下で値段の高い惣菜を買うことはない。私にとり、それは、無駄遣い以外の何ものでもないからである。


「庶民的」金銭感覚の喪失 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

週に1回か2回、平日の昼間に新宿三丁目駅で地下鉄を降りることがある。そして、地上に出るときには、伊勢丹の地下1階を通り抜けて地上に出ることが多い。 伊勢丹の地下1階の食品売り場、いわゆる「デパ地下」を通り抜けるとき、いつも感じることがある。それは、「どこが


グリーン車では「静寂」を期待することができる

 子どもや団体客に代表される「ノイズを発生させるかも知れない乗客」に出会い、これと空間を共有するというのは、移動中にさらされるストレスのうち、もっとも大きなものの一つである。私がグリーン車を選ぶのは、グリーン車では、このようなストレスにさらされずに済む可能性が高いからである。これは、私がグリーン車に乗る理由の一つである。

 車内が騒がしい場合、新幹線のグリーン車なら、騒いでいる乗客に対し、乗務員に頼んで静かにするよう注意してもらうことが可能である。

 実際――真偽は確認することができないけれども――ある人物は、以前、次のように語ったようである。



「上客」として扱われることに慣れる

 しかし、グリーン車に乗るのには、もう一つ理由がある。それは、「上客として扱われることに慣れる」ことである。

 以前、私は、次のような記事を投稿した。


高額な商品を買うと優遇されることへの違和感 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

ある1年間にある金額以上の商品を購入した客を、次の1年間、何らかの形で「優待」する小売店は――通販でも、現実の店舗でも――少なくない。それは、割引であったり、ポイントの付与であったり、何らかの――予約を優先的に受け付けたり、イベントに招待したりする――優

 何か高額な商品を購入することで、次に同じものを購入するときに割引を受けたり、飛行機のマイルを貯め、何らかの特典を手に入れる……、これらの場面において、私たちは、たしかに「上客」として扱われてはいる。しかし、この場合の優遇や優待とは、他の客が手にするのと同じものを安く――あるいは無料で――提供されることを意味するのであり、そこで特別なふるまいが私たちに要求されるわけではない。

 これに対し、若干の追加料金を支払ってグリーン車を使うとき、その金額がたとえわずかであっても、グリーン車の客であるあいだ、私たちは一人ひとり、グリーン車の客にふさわしい扱いを受ける権利を獲得し、それとともに、グリーン車の客にふさわしくふるまう義務を負う。少なくとも私は、このように考えている。

 グリーン車の客としてある時間を過ごすことにより、私は、公共の空間で支払った料金にふさわしくふるまうこと、少なくとも、卑しいふるまいを避けることをみずからに課している。また、「上客」にふさわしくふるまう者は、「上客」にふさわしく扱われることを体験によって理解し、これに慣れることで、社会的な地位にふさわしい行動――あるいは、上客にふさわしい社会的な地位への志――を忘れないようにしているわけである。

Yufuin

 旅に出ると、知り合いのために土産物を買いたくなることがある。あるいは、土産物を買って帰らざるをえないことがある。このようなとき、「誰のために何を買うか」は、それなりに厄介な問題であり、この問題を解決するために旅行中の時間を費やすと、せっかくの旅の質が損なわれる危険がある。ひどい場合には、土産物を買うために旅行しているような気分になることすらある。

 もちろん、土産物を渡す相手の好みや趣味(hobby) をよく知っているなら、相手の好みや趣味に合うものを選ぶことが可能である。たとえば、焼き物、記念のスタンプ、絵はがきなどを蒐集している相手には、コレクションを殖やすのに役立つ何かを土産物にすればよいであろう。

 しかし、現実には、旅のあと、何らかの土産物を誰かに渡さなければならないのに、相手の好みも趣味も不明であるという場合が少なくない。いや、義理で購入される土産物の大半は、好みも趣味も不明な相手のためのものであるように思われる。そこで、このような厄介な相手に対しどのような土産物を差し出すべきか、簡単に検討してみたい。

1. 一定の期間が経過したあと、消えてしまうものであること

 そもそも、このようなタイプの土産物を渡すのは、相手を喜ばせるためであるというよりも、むしろ、「自分が本当に旅行し、かつ、旅行中に相手のことを一瞬でも考えたこと」の証拠とするためである。そして、この点を考慮するなら、理想の土産物が満たすべき条件は、おのずから明らかになる。

 すなわち、何よりも重要なのは、土産物が、一定期間が経過したあと、速やかに消えてしまうことである。具体的に言うなら、賞味期限や消費期限が設定され、この期限内に消費されるか、あるいは、廃棄されてしまうものでなければならない。つまり、土産物にもっともふさわしいのは、食品である。

 ハンカチ、手ぬぐい、クリアファイルなどは、簡単に捨てることができないものであり、したがって、相手の生活空間をいつまでも占領し続ける。さらに、土産物を目にするたびに、所有者は、その由来を思い出すことになる。これらは、相手に心理的な負担を強いる土産物であり、避けた方が無難なものである。

 特に親しくもない相手の場合、大切なのは、土産物のブツとしての使用価値ではなく、土産物がたしかに引き渡されたという事実である。つまり、この「引き渡し」が終わるとともに速やかに消滅することは、よい土産物であるための第一の条件なのである。

2. 地元で製造されたものであること

 食品が土産物として好ましいのは、これが、大抵の場合、地元で製造されたものだからである。(たとえば、那覇市の土産物屋の店頭に並べられたもののうち、食品以外のかなりの部分は沖縄で作られたものではなく、さらに、その多くは日本製ですらない。)そもそも、「土産」のもの、つまり、旅先の現地に由来するものを持ち帰ることにより土産物は土産物となる。だから、厳密に考えるなら、土産物は、購入された時点では「可能的な土産物」にすぎないのであり、これが「現実的な土産物」になるのは、現地を離れたときであることになる。

 また、土産物は、現地で作られたものであるからこそ、「アリバイ」になる。だから、土産物は、旅先で製造されたものであることが絶対に必要である。購入するのが加工品であるなら、商品に貼付されているラベルで製造者をよく確認し、域外の企業や工場で作られたものを選ばないように注意するのがよい。

3. ネットで購入することのできないものであること

 そして、土産物と現地とのこのような関係を考慮するなら、ネットで購入することができるものを土産物に選ぶことは避けるのが望ましい。

 しかし、ネットで購入することが可能なものを土産物の候補から排除することは、2つの意味においてきわめて困難である。

 すなわち、第1に、「何がネットで購入することができないのか」を確認するのに手間がかかる。(つまり、事前の「予習」が不可欠である。)また、第2に、ネットで購入することができないものは、種類がきわめて少ない上に、入手に時間がかかる場合が少なくない。

 私の経験の範囲では、これまで述べてきた3つの条件のすべてを満たす土産物を手に入れることができる旅先は京都だけである。京都は、日本でもっとも多くの名産品を持つ街であり、時間をかけることが許されるなら、ネットで購入可能なものを排除し、「理想の土産物」に辿りつくことができないわけではない。しかし、京都以外で「ネットで購入することができない」という条件を満たすものを見つけることは、ほぼ不可能である。

 たしかに、たとえば沖縄を旅するなら、ネットで購入不可能なものに各地で出会うかも知れない。しかし、残念ながら、(沖縄に限らないであろうが、)このようなものは、地元で消費されるためだけに生産されたものであり、ギフトには適さないのが普通である。

 ネットで購入することのできないものは、よい土産物であるための条件であるけれども、この条件を満たすものを見つけることは、旅の準備のために使うことのできる時間や体力を考慮するなら、現実には無理であるのかも知れない。

土産物は、本来は、旅の充実の結果である

 とはいえ、形式的に考えるなら、土産物はギフトであり、相手にギフトを差し出すことは本質的に「贈与」である。贈与というのは、相手を喜ばせるためのものではなく、況して、アリバイ作りの手段でもない。つまり、土産物とは、みずからの旅の充実の証であり、旅の充実の自然な横溢なのである。したがって、旅先で不知不識に手に入れられたものが、相手のためにではなく、旅をした私自身のために分け与えられるとき、これが厳密な意味における土産物となるはずなのである……。

loneliness 1

ひどい目にあった経験は誰にでもある

 これまでの人生を振り返るとき、誰の過去にも、特定可能な他人に関し、「ひどい目にあった」「あいつにひどい目にあわされた」と感じた瞬間があるに違いない。私なら、このような瞬間を1ダースくらいすぐに挙げることができる。(もし誰かからひどい目にあわされた記憶がない人がいるなら、それは、特別に幸せな人である。)

 もちろん、誰かにひどい目にあわされたことをいつまでも覚えていることは、「執念深さ」の現われであると普通には考えられている。だから、「このような経験は決して忘れない」などと他人に告げると、好ましくない印象を与えることになるかも知れない。

 しかし、誰かをひどい目に合わせた方がこれをすぐに忘れてしまうことは、学校でも社会でも同じであるが、ひどい目にあわされた方は、時間が経過してもこれを忘れることはない。さらに、ひどい目にあったという記憶を抱え、そして、返報しないままこれを放置し、しかも、記憶を保持したまま、何ら苦痛を覚えないのは、よほど強力な精神の持ち主だけである。普通は、ひどい目に会った痕跡が見える形では何も遺されてはいないとしても、他人から被った厄災に返報するか、つらい記憶にさいなまれるかのいずれかの道しかないはずである。

返報として意味があるのは、損害に直接に対応するものだけ

 とはいえ、大抵の場合、自分が損害を被っても、すぐには返報することができない。返報したくてもできなかったり、どのように返報すればよいかわからなかったりするからである。そこで、大抵の場合、ひどい目にあった側は、『金色夜叉』の貫一の行動が典型的に示すように、時間を措いてから、自分が被った損害とは直接には対応しない形で何かを成し遂げ、これをもって「返報」が遂行されたと勝手に決めるわけである。「金持ちになって見返してやる」「出世して見返してやる」などというのは、このようなタイプの復讐である。

 しかし、残念ながら、あなたが金持ちになっても、出世しても、これは返報にならない。なぜなら、あなたが被ったのと同等の損害を相手が被るわけではないからである。返報において決定的に重要なことは、あなたが被ったのと同じような損害を相手に与えることであり、相手に同じような損害を与えたことをあなたが自分で確認しないかぎり、返報は成立しない。誰かに殴られたら、殴り返すか、あるいは、何らかの仕方で物理的なダメージを与えなければ、ひどい目にあったつらい記憶が消えることはないのである。

返報ではなく脱出が最善の解決策

 たとえば学校で「いじめ」にあった記憶が精神衛生に深刻な影響を与え、場合によっては、この影響が一生続くと考えられているのは、相手に同等の損害を与えること、つまり、返報することができなかったからであると言えないことはない。特に、学校における「いじめ」は、時間が経過してからこれに返報することが難しいものであり、この意味でも、「いじめ」の記憶は、大人の社会で経験するハラスメントとくらべ、トラウマになりやすいのかも知れない。

 とはいえ、あなたが被ったのと同等の損害を与えて相手を罰すること、いや、それどころか、あなたに対し決して損害を与えることができないよう相手を徹底的に懲らしめることは、たしかにあなたに満足を与えることになるかも知れないとしても、それは、けれども、それは、相手と同じレベルに自分を引き下げることでもある。

 自分に損害を与えた相手と運命共同体を作る覚悟があるのなら、相手に罰を与えることには大切な意味がある。だから、誰かから損害を被ったとき、最初になすべきことは、自分の状況を冷静に振り返り、返報しなければならないと考えるほどの損害、返報しなかった場合にトラウマになるほどの損害を被り続ける必然的な理由があるのかどうか、自分に問いかけることであろう。そして、その場にとどまらなければならない理由があなた自身に認められないのなら、外的な事情がどのようなものであるとしても、その場にとどまって返報を試みるのではなく、学校でも職場でも、自分がこれ以上深い傷を負う前に、可能なかぎり早く「とにかく逃げ出す」ことが問題の最善の解決策になるはずである。

subway, Tokyo

ロングシートはなぜか両端から埋まって行く

 電車に乗ると、固定された座席があるのが普通である。(何年か前、通勤時間帯だけ座席が畳まれ、誰も着席できないようになる車両が東京のJRのいくつかの路線に導入されたけれども、これは、廃止されるようである。)座席が空いていれば、ここに坐るのもまた、ごく普通の行動であろう。

 それでは、座席が空いているとき、どこに坐るのか。しかし、これが問題になるのは、車内に設置されている座席が「ロングシート」のみの場合である。ロングシートとは、車両の長辺の壁に沿って、窓を背にして坐るような形で固定された長い座席のことである。首都圏の電車の座席は、JRも私鉄も、一部の特急やグリーン車を除き、ほぼすべてロングシートである。なお、ロングシートではない座席、つまり、新幹線のような配列の座席はクロスシートと呼ばれているらしい。首都圏の路線でも、郊外に出て行く路線を走る車両には、このクロスシートとロングシートの混合型(セミクロスシート)が導入されている。調べたわけではないが、大都市圏以外を走る日本の電車の座席の大半がセミクロスシートなのではないかと思う。

 ロングシートの場合、1つの座席に6人から7人が着席可能である。もちろん、空いているスペースが1つなら、着席する場所に選択の余地はないけれども、6人分あるいは7人分のすべてが空いているとき、つまり、誰も坐っていない座席に私が最初に坐るとき、一列に並ぶ6人分ないし7人分の座席のどこに坐るべきかというのは、真面目に考えるに値する問題であるかも知れない。というのも、この場合、どこに坐るかは、私の自由な決定に完全に委ねられているからであり、そこには「無差別の自由」(liberum arbitrium indifferentiae) が与えられているように見えるからである。

 とはいえ、私の観察の範囲では、不思議なことに、誰も着席していないロングシート、つまり、6人分から7人分がすべて空いているロングシートを前にするとき、大半の乗客は、左右いずれかの端に坐る。なぜ端に坐るのか、私にはよくわからないけれども、そこにあるのは、「無差別の自由」ではなく、むしろ、何らかの優先順位が乗客一人ひとりのうちにあらかじめ形作られているのであろう。実際、これも私の観察の範囲ではあるが、端から2番目の座席に坐っている客は、端の席が空くと、なぜか空いた端の方に移動することが多い。

よどみとしての端

 ロングシートの両端から埋まって行くのが全世界に共通の傾向であるのか、それとも、特殊日本的なものであるのか、私は知らない。とはいえ、完全に空いているロングシートを前にして端に着席する者は、車内の空間を別の何かに不知不識になぞらえているように思われる。

 電車の車内の空間の形状は、大雑把に言うなら、長方形である。そして、モノ、乗客、空気などは、基本的にはすべて、長辺に沿って、車両の進行方向または反対方向へと流れて行く。これらは、前後に連結されている別の車輌へと流れて行くこともある。反対に、進行方向を横切る形でモノや乗客や空気が2つの壁のあいだを移動することは稀である。

 このような方向の軸を強く自覚するとき、ロングシートの端にはある役割が与えられる。つまり、ロングシートの端は、車両の中で、2方向が区切られた唯一のスペースであり、河川になぞられるなら、そこは、流れが停滞する「淵」や「よどみ」に当たる部分なのである。ロングシートの端には、車両の前後方向へのモノや乗客や空気の奔流から身を守る「隠れ場」ないし「居場所」としての役割が期待されていると言うことが可能である。

 クロスシートのみの車輌の場合、車両の長辺と直交する背もたれによって進行方向の軸が断ち切られている。クロスシートでは、窓際の席が「淵」や「よどみ」に当たるけれども、私の個人的な観察の範囲では、クロスシートにおける窓際の選好順位は、ロングシートにおける両端の選好順位ほどには高くないように思われる。

あえて中央に坐ってもよい

 なお、私自身は、おそらく圧倒的な少数派なのであろう、誰も着席していないロングシートに坐るときには、原則として中央に坐る。私の体格は、私の同世代の中では平均サイズであろうと思う。それでも、左右に誰もいない方がラクであるし、見晴らしもよい。(また、非常に実際的な話になるけれども、7人がけのロングシートの中央に最初に坐ると、私の左右は、選好順位のもっとも低い座席になり、最後まで埋まらなくなる。中央にすでに誰かが坐っているロングシートを見て、2番目の客が先客の隣の席を選ぶことはまずないからである。

 なお、私は、カフェテリア方式の食堂に長いテーブルに坐るときにも、全部が空いていれば、中央の席を選ぶことが多い。

 たしかに、混雑した電車でロングシートの中央に坐っていると、相当な圧迫感に襲われる。電車から降りるのに時間が少しかかることも事実である。ただ、両端に身を置いても、事情はあまり違わないはずである。


Robbery

 何日か前、次のような記事を見つけた。

74歳女性が強盗撃退、ピストルを突き付け返す 米

 幸いなことに、私自身は、自宅で強盗に襲われた経験がない。だから、私が気をつけることと言えば、戸締りくらいしかない。強盗が来たときの対処法を普段から検討しているわけでもない。ただ、上の記事で紹介されているように、たしかに、銃を持って侵入してきた強盗を銃で迎え撃つのは、海外ではごく普通のことであるのかも知れない。去年の秋には、スウェーデンで次のような出来事があった。

【海外こぼれ話】マジ切れの店主怖い!...トイレに逃げ込んだ窃盗犯、警察到着に「感謝」

 侵入者の方が怯えてしまうとしても、もちろん、侵入した方が悪いのだから、「過剰反応」として非難されるいわれはないであろう。

 しかし、銃火器を含む暴力によらなければ強盗を撃退できないわけではないのかも知れない。たとえば、次の記事は、自分が働く売店に侵入してきた強盗に対し、紅茶を飲んでいるから終わるまで待つように言い、やがてナイフを取り出して強盗を追い払ったイギリス人の女性を紹介している。

英国のある店主の女性、「紅茶を飲んでいるから忙しい」と強盗を待たせる - AOLニュース

 また、次の記事では、店に侵入した強盗を単純に無視することで撃退したニュージーランドの例が紹介されている。

ケバブ屋に強盗が入るも、ガン無視されてすごすご帰る事案が発生 ニュージーランドで

 相手が設定した(無視を含む)コミュニケーションの土俵に乗ってしまうと、強盗の方も、身動きがとれなくなるのであろう。

 とはいえ、やはり、日本人としては、次の撃退法を忘れてはならない。

 これは、今から5年前、2012年7月4日の名古屋市での強盗未遂事件に関する毎日新聞(7月5日付、中部版朝刊23面)の記事である。

強盗未遂:女性宅に覆面男 「はあ?」で撃退--名古屋・昭和区

 4日午後8時35分ごろ、名古屋市昭和区鶴羽町3のマンション2階に住む女性会社員(21)方で、玄関に侵入した男が簡易ライターに火をつけ、「金を出せ」と脅した。会社員が「はあ?」と聞き直したところ、男は何も取らず逃げた。愛知県警昭和署は強盗未遂事件として男の行方を追っている。

 同署によると、会社員は1人暮らし。室内でテレビを見ていた時に物音がしたため、振り向いたところ、男が玄関にいたという。玄関は鍵をかけていなかった。男は20代とみられ、身長170センチ前後。サングラスをかけ、水色のタオルで覆面していたという。【渡辺隆文】

 私は、強盗には一切同情しない。また、強盗に入ることは弁解の余地のない悪であると考えている。

 それでも、強盗に入り、住人に「カネを出せ」と言ったところ、「はあ?」という反応が戻ってきたため、そのまま退散した強盗の気持ちはよくわかる。自分が何かを誰かに語りかけ、これに対して「はあ?」(「あ」の部分が特に高くなる)という反応が戻ってきたら、非常に不快であり、また、ガッカリさせられるからである。血圧が一気に上がる人もいれば、意気阻喪して何もかもいやになる人もいるであろう。

 「はあ?」は、単純な無視以上に冷たいコミュニケーションの拒絶の意思表示であり、相手が提供するコミュニケーションの内容と枠組を一度に斥ける強力な手段である。どこかに侵入し、「はあ?」という反応に出会ったら、侵入者からは、言葉による脅迫という選択肢が奪われてしまうから、残されるのは、本格的な暴力に訴えるか、あるいは、そのまま黙って退散するか、2つの選択肢だけである。常識的に考えて、「簡易ライター」が威嚇の手段とはなりえない以上、もはや逃げ出す以外に道はなかったのであろう。

 「はあ?」というのは、きわめて否定的な作用をコミュニケーションに与える発言である。私自身は、一度も使ったことがないし、使うべきではないと考えているが、それだけに、危機的状況の下では思わぬ役割を担うことになるのかも知れない。(ただ、当然のことながら、すべての強盗が「はあ?」で撃退可能であるわけではない。この点には十分に注意し、戸締りを怠らないことが大切である。)


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