AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:反ライフハック > 世渡りの技術

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 昨年末、12月29日の朝、思い立って新宿の紀伊国屋書店に行った。12月の初め、紀伊国屋書店で本を買ったとき、年末で失効するポイントについてレジで注意喚起があったのを急に思い出したためである。

 私は、ある程度以上高額の本については、街の書店やアマゾンではなく、手に入るまでに少し時間はかかるが、職場に入っている書店で注文し購入することにしている。全品一律10%割引になるからである。したがって、紀伊国屋で買うのは、店頭で現物を見て確認する必要があるもの、あるいは、文庫、新書、薄手の洋書などであり、それほどたくさんの本を買った記憶はない。それでも、現実には相当なポイントがたまっていたらしく、結局、前から読もうと思っていた高額なハードカバーの文学作品――カナダの小説家マーガレット・アトウッドの大作――を買って――というよりも、実際には、現金はほとんど使わなかった――ポイントを消費した。(これを書いているうちに、一昨年の末にも、同じように、紀伊国屋書店に駆けつけてポイントを消費したのを思い出した。)

 とはいえ、私は、この種のポイントをあまり好まない。そもそも、ポイントカードをあまり作らないし、ポイントをもらっても、ためるのではなく、その都度使ってしまうことが多い。むしろ、ポイントをくれるくらいなら、その場で値引きしてくれる方がありがたいと考えている。

ポイント還元と現金値引き、どっちがお得? | 家計・貯金

 上の記事が強調するとおり、ポイント還元よりも値引きの方が客にとっては得である。(ただ、本については、再販制度があるため、値引きはできない。)以前、高額の商品を買うと優遇されることへの違和感について書いたことがあるが、


高額な商品を買うと優遇されることへの違和感 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

ある1年間にある金額以上の商品を購入した客を、次の1年間、何らかの形で「優待」する小売店は――通販でも、現実の店舗でも――少なくない。それは、割引であったり、ポイントの付与であったり、何らかの――予約を優先的に受け付けたり、イベントに招待したりする――優



それでも、ポイントではなく、値引きという形で優遇するのなら、まだ納得することができる。しかし、たとえば年末にニュースになったドミノ・ピザのような時間と条件を限定した値引きを別にすれば、

ドミノ・ピザに各地で客殺到、クリスマスイブに1時間以上の大行列店も

値引きの形で客を優遇する店は決して多くはないような気がする。優待サービスの内容を変更するにあたり、「値引き」から「ポイント還元」に変更する――これは、客にとっては不利益変更に当たる――例はあるけれども、少なくとも私自身は、逆の方向への変更が行われた例を知らない。そもそも、客に与えるポイントは、店にとっては、事実上の負債に当たるから、客がポイントを使わない方が店には好ましい。ポイントが使われないまま失効することは、借金が帳消しになるのと同じことであり、客がポイントを使いにくくになるように制度を設計すれば、その分、店の利益は大きくなる。

三越伊勢丹/来年4月、エムアイカードの特典をポイント制に変更

 ある店で将来にわたって継続的に買いものするのなら、大量のポイントをためてもよいであろう。しかし、基本的には、ポイントカードのようなものはできるかぎり作らないようにすること、そして、ポイントがたまったら、その都度こまめに使ってしまった方がよいということになるのであろう。


Untitled

 しばらく前、下のような記事を見つけた。

「外出する人」過去最低 高齢化やネット普及が影響か | NHKニュース

 私自身は、どちらかと言うと、必要に迫られないかぎり外出しない方である。だから、仕事以外で外出するのは、誰かと約束がある場合、必要な買いものがある場合、デッドラインが決まっている雑用がある場合などに限られる。このような用事がなければ、外出することはない。まして、旅行など、まずないことである。

 どこかへ出かけるには、時間もカネも体力も必要となる。楽しいことが期待できるのなら、あるいは、用事がきれいに片づくのなら、もちろん、外出をためらうことはないが、用事が足りなかったり、ひどく失望したり、不快な思いをしたりする可能性が十分にあるのなら、わざわざ出かけようとは思わない。これは、当然のことであろう。

 とはいえ、出かけるのが誰かと一緒であるなら、事情は少し違うかも知れない。というのも、出かける理由の多くは、家族、友人、知り合いなどと関係があるはずだからである。積極的に外出する人の多くは、外出がそれ自体として好きなのではなく、誰かに「連れ出される」ことによって結果的に自宅の外に出ているにすぎないように思われる。

 したがって、「外出する人」が減ったというのは、日本人が高齢化したとか、無精になったとか、ネットの使用が拡大したとか――これらの影響がまったくないわけではないが――そのような事情よりも、むしろ、連れ出される機会が減り、人間関係が希薄になったからであると考えるのが自然である。実際の統計があるかどうかはわからないが、おそらく、(ネットだけの知り合いではなく、)現実に投錨された知り合いが多いほど、自宅から連れ出される機会が多く、外出する頻度や時間が多いに違いない。

 長時間外出することが健全であるとは必ずしも言えないかも知れないけれども、それでも、自宅にいつまでもとどまっていることは、精神衛生上必ずしも好ましいことではない。視野が狭くなり、思考が堂々巡りを始めるのである。やはり、自宅の外に出て時間を使うこと、見飽きた眺めとは違うものに出会うことは、自分自身を生気づけるのに必要なことである。

 私自身、何年か前の年末年始、5日間、誰ともしゃべらず、玄関から一歩も出ずに自宅で過ごしたことがあるけれども、さすがに、気分はあまりよくなかった。本格的な「ひきこもり」が決して楽しくないのは、当然であるように思われる。

 私の外出の頻度や時間が私を連れ出してくれる知り合いの数に比例するのであるなら、そして、外出が精神衛生に何らかの影響を及ぼすのであるなら、年齢や社会的な位置に関係なく、私にとって重要なのは、ネット上の知り合いではなく、学校や職場の知り合いでもなく、「自宅から」「連れ出してくれるような知り合い」であり、この「自宅から連れ出してくれる」かどうかが、私にとって好ましい知り合いの最低限の条件となるはずである。(もっとも、私を自宅から連れ出してくれるからと言って、それだけで好ましい知り合いと見なすことはできないであろう。)

 山や海でもよい、繁華街でもよい、知り合いと一緒にどこかへ出かける経験は、必要に迫られて同じ場所にひとりで出かけることとは比較にならない厚みを持つ。それは、共有された経験だからであり、共有された記憶だからであり、想起と更新の場が用意された経験であり記憶だからである。


Légion

 2016年は、あと1週間で終わる。世界的にはテロや戦争があった1年ではあったけれども、私自身の生活には、特に大きな波乱はなく、それなりに穏やかに過ごすことができたと思う。

 ところで、私は、数年前から、正月には何も特別なことをしないと決めている。つまり、

    • NHK紅白歌合戦を見ず、
    • 初日の出を見るために遠出せず、
    • 初詣に行かず、
    • 雑煮を食わず、
    • おせち料理を食わず、
    • 門松を飾ることもなく、
    • 年始の挨拶に誰かを訪問することもない

ということである。私は、毎年大晦日に墓参することにしており、これが年末年始のもっとも大きな行事となる。これ以外は、他から何かが飛び込んでこないかぎり、普段の休日と同じように過ごす。何が面白いのか私にはよくわからない年末の準備や正月のルーチンをすべて取りやめることにより、毎年年末に感じていた追いつめられるような息苦しさがいくらか軽減されたように思う。特に、私は、赤、白、金、緑などの組み合わせからなる派手な「正月カラー」が大の苦手で、あれを見ずに済むだけでも、気分はかなり落ち着く。

 ただ、12月29日から1月3日まで繁華街で発生する狂乱状態の人ごみを避けるため、この1週間のあいだの食料は12月28日までにすべて買い込み、年末年始には可能なかぎりどこにも出かけないようにする。これが、普段の休日との最大の違いである。

 年末も年始もなく、暮れも正月もない生活を送っている――と書くと、ずいぶん忙しそうに聞こえるけれども、実際にはそれほどでもない――と、年末年始の恒例の行事というのは、単なる雑用にすぎないものとなる。特に年賀状の作成は、私にとってもっとも煩わしい作業である。何とか理由を見つけてやめたいと思っているし、また、以前に書いたことであるが、ハガキの形式による年賀状は、やがて姿を消すことになるのではないかとも予想している。


年賀状 続けるべきか、やめるべきか : アド・ホックな倫理学

今日、下のような記事を見つけた。1月2日の年賀状配達、17年から中止 日本郵便 1月2日の年賀状の年賀状の配達が来年からなくなるようである。 よく知られているように、年賀状というのは、年始の挨拶の代用品であり、年賀状に非常にながい歴史があるわけではない。ま



 いや、年賀状がなくなるばかりではない。年末年始の行事もまた、少しずつ廃れて行くに違いない。何世代も同居して暮らす家族の場合、年中行事を廃止することは困難であろうが、独り暮らしなら、自分の決意だけで正月に何もしないことを選択し――付き合いで顔を出さなければならない新年会のようなものを除き――年末年始を1週間連続した休みとすることができるからである。

 たしかに、来し方行く末を落ち着いて考える時間は、誰にとっても必要である。しかし、少なくとも現在は、平均的な日本人にとり、正月はただ慌ただしいばかりであり、人生について思いをめぐらせる時期ではなくなりつつあるに違いない。

 むしろ、1年の区切りが必要であるなら、それは、自分で好きなように決めればよい。そして、自分で決めた区切りを迎えるとき、ひとりで静かに反省すればよい。私たちには、好きなように年末年始を過ごす権利があり、それぞれの生活の中で、好きなように1年を区切る権利がある。12月には、28日の仕事納めに向かって慌ただしく仕事を片づけ、年末年始には家族サービスに忙殺され、そして、疲労困憊した状態で1月4日の仕事始めを迎える……、このような正月の過ごし方が正常であるはずはないように思われるのである。


葬式

 直接あるいは間接の知人が亡くなり、何らかの仕方で遺族に香典を渡す。大人であれば、このような経験は誰にでもあるに違いない。そして、大抵の場合、葬儀の場で香典を渡すと、しばらく経ってから、何らかの「香典返し」が送られてくる。百貨店や贈答品の専門店が用意したものが送られてくることもあれば、亡くなった人の好物のようなものが届くこともある。いずれにしても、やや日持ちのする食品に代表される「消えてなくなるもの」が香典返しに選ばれることが多く、「消えてなくならないもの」は忌避されるのが普通である。

 ところが、何年か前から、葬儀に出ると、メール便や宅急便で分厚い冊子体のカタログが香典返しとして送られてくるようになった。いわゆる「カタログギフト」である。しかし、私自身は、1度だけこのカタログを開けてみたことがあるけれども、それ以降、カタログが届いても開封したことがない。香典返しとして送られてくるカタログに強烈な違和感を覚えるからである。

 香典返しにカタログを送ることを最初に思いついたのが誰なのか知らないが、これは、葬儀の意味を不可逆的な仕方で変質させることになったように思われるのである。

香典返しは、故人または遺族にゆかりのある品物とするのが筋

 そもそも、香典返しというのは、故人を送る儀礼に参加してもらった人々への御礼である。つまり、香典と香典返しのあいだに見出されるのは、支払われたカネとその対価としてのモノの交換ではない。それどころか、「香典返し」という名称に反し、香典返しというのは、香典に対する返礼ではなく、故人を偲んでもらったことに対する返礼なのである。したがって、香典返しとしてもっとも望ましいのは、故人や遺族にゆかり(=縁)のある品物であり、しばらくのあいだ故人を思い出すよすが(=縁)となるようなものであるはずである。

香典返しは「ギフト」ではない

 もちろん、遺族には、ゆかり/よすがの役割を担うような品物を選ぶ余裕などないのが普通であるから、無個性的な贈答品が結果として選ばれるのはやむをえないことであるかも知れない。ただ、注意しなければならないのは、香典返しが決して「ギフト」ではなく、あくまでも、故人を思い出すきっかけを作るもの、故人をめぐる記憶の記号にすぎない点である。カタログギフトを香典返しに使う理由として関係するウェブサイトで繰り返し語られているのは、「もらってうれしいもの」を各人が選ぶことができる点であり、実際、カタログギフトのメリットはここにあると普通には考えられているようである。しかし、本当は、これは、カタログギフトが全力で忌避されるべき第一の理由と見なされねばならない。

 そもそも、形式的に考えるなら、人々が葬儀に参列するのは、香典返しが欲しいからではない。香典返しの内容が葬儀に参列するかどうかの決定に影響を与えることはないはずである。特定の商品が欲しいのなら、自分で買う方が時間の点でも手間の点でもはるかに効率的である。葬儀に参列して香典返しとしてもらうなどという迂路をあえて選択する者などいないであろう。

香典返しを受け取るのは故人を見送る儀式の一部

 さらに、葬儀において主役となるのは、遺族(と故人)である。葬儀は、決して参列者が楽しむためのイベントではない。だから、葬儀が楽しいものである必要はないし、遺族にとっては、香典返しとして送り出す品物の選択に当たり参列者の好みを考慮する必要もないことになる。いや、参列者の好みを考慮して香典返しを選ぶことは、香典返しを当てにして参列する者を想定することであり、むしろ、参列者に対し失礼であると私は考えている。

 そして、このような点を考慮するなら、香典返しというのは、それ自体が主題的な注意の対象となってはならない品物であることになる。香典返しとして送られてきた品物を受け取るというのもまた、故人を見送る儀式の一部なのであり、香典返しは、その内容について受け取る者があれこれと論評するような性質の品物ではないのである。

 同じ理由によって、香典返しとしてカタログを送り、カタログから商品を選ばせるというのも、参列者に対し失礼であると私は考えている。というのも、カタログを開封し、特定の商品を選び、注文するという行動は、その商品に対する明瞭な欲求を前提とするものであり、カタログを送った遺族は、故人とは何の関係もない商品に対する欲求をあらわにするよう参列者に求めていることになるからである。私は、香典返しとしてカタログを受け取っても、これを開封しないことにしている。つまり、「何も選ばない」ことを選択している。自分の私的な欲求をあらわにするきっかけとして故人を利用するのは、故人に対し失礼だからであり、香典返しが葬送の儀式の一部をなすものであるかぎり、その意義を損ねることになる。カタログを開封せず、何も選ばないことは、故人に対する最低限の礼儀であると私は信じている。

 香典返しは、参列者の好みとは無関係に選ばれるべきものである。(同一人物の葬儀が複数回行われることはなく、葬儀の「リピーター」などありえないのだから、)「もらってうれしいもの」を送るくらいなら、「もらってもありがたくないもの」を送るか、あるいは、何も送らない方がまだましであるに違いない。

葬儀は通販なのか

 ところで、現在はまだ、インターネットにアクセスすることのできない老人への配慮なのか、香典返しとして冊子体のカタログが送られてくる。しかし、遠くない将来、葬儀に参列すると、会場でURLとパスワードが渡され、オンライン上のカタログにアクセスして香典返しを選ぶ……、などというシステムが作られるであろう。(すでに現実のものになっているのかも知れないが、私は知らない。)そして、そのとき、葬儀は、「ふるさと納税」と同じように、通販への堕落の道を踏み出すことになるに違いない。


phone call I

「1回目」には応答するが、同じ番号からの「2回目」以降は無視するのが原則

 何かの事情で日中に自宅にいると、セールスの電話を受けることが多い。これを迷惑に感じる人は多いであろう。また、電話によるセールスというのは、21世紀の現在では、古典的――というよりも原始的――な勧誘方法であり、どのくらいの効果が挙がっているのか、電話を受けながら疑問に感じることがないわけではない。ただ、平均すると週に2件か3件の電話がかかってくることは確かであり、その都度、小さな不快感を味わっている。

 私自身は、電話機のディスプレーに表示される電話の発信番号が未知のものでも、だからと言って電話を無視することはなく、一応は電話に出る。ただ、その電話がセールスを目的とするものであることがわかったら、発信番号をその都度「セールス」として登録する。(発信番号に関係なく、すべて「セールス」という同じ名前で登録する。)そして、電話の呼び出し音が鳴り、電話機のディスプレーに「セールス」と表示されたら、その着信は無視することにしている。

 もっとも、同じ業者から2回以上かかってくることは、最近はずいぶん少なくなった。「2回目」以上の割合は、セールスの電話全体の5%くらいではないかと思う。

時間と体力と気分に余裕があるなら:法的(?)に反応する

 問題は、全体の95%を占める「1回目」の呼び出しにどのように対応するかである。もちろん、セールスへの対応に正解などあるわけではないから、好きなようにすればよいのだが、ここでは、対応をさしあたり3つに区分し、メリット/デメリットを考えてみる。

 最初に――あるいは最後に――思い浮かぶのは、セールスの電話に対する「法的」な対応である。

 そもそも、私の電話番号は、個人情報の一種である。そして、電話番号が個人情報であるかぎり、少なくとも日本では、私は、電話番号の使われ方をコントロールする権利を法律(個人情報保護法)によって認められている。名簿業者から購入した何らかの名簿を利用してセールスの電話を私にかけることは、それ自体としては違法ではない。しかし、この名簿に私の電話番号を掲載するに当たり、私は、電話番号の情報がセールスに使われることにあらかじめ同意しているわけではない。そして、個人情報が私自身の同意しないした方で使われた場合、私にはこれを拒否るする権利が法律によって認められているのである。

 だから、セールスの電話がかかってきたときには、セールスの電話をかけてきた業者に対し、(1)私の電話番号を入手した手段を明らかにするよう求めた上で、(2)電話番号のこのような使用に私が同意していないことを伝え、そして、(3)2度と私の電話番号を使わないよう求めればよいことになる。次の記事のように対応するなら、「法的」には完璧なのであろう。

迷惑な勧誘電話 - 悪質セールス撃退と個人情報保護法 - Lucablog

 たしかに、これほど強硬な態度で臨めば、同じ業者からふたたび電話がかかる可能性は、ゼロにかぎりなく近づくはずである。

 しかし、このような対応にはデメリットが2つある。1つは、かかってきた電話を一々この方式で撃退するのが面倒である点、もう1つは、こちらがお説教を始める前に、相手の方が電話を切ってしまう可能性が高い点である。気分的な余裕が十分にあり、かつ、セールスの電話によほど腹を立てているのなら――相手が電話を先に切った場合、こちらから電話をかけなおしてでも――時間と体力を使うのはかまわないが、残念ながら、これは万人向けの対策ではないように思われる。

口をきくのは面倒だが、不快であることを相手に示したいなら:放置する

 ただ、セールスの電話が強い不快感を惹き起こした事実を相手に伝えたいことはある。そのようなときにに有効なのは、電話に出たあと、受話器を放置することである。

 電話をかけてきた業者は、大抵の場合、こちらが実際に聞いているかどうかには関係なく一方的にしゃべり続ける。こちらに相槌を打つ隙を与えず、型通りの話をダラダラと3分近く続けた業者を私は知っている。不思議なことに、このような一方的なおしゃべりが相手に不快感を与えることに気づかず、それどころか、何かが売れるかも知れないと期待しているらしい。

 かつて、同じ不動産の業者が毎日のように電話をかけてきたとき、私は、毎回、電話に出てから受話器をそのまま放置し、勝手にしゃべらせておいた。これが効いたのかどうかわからないが、その業者からは、やがて電話がかかってこなくなった。やはり、受話器の向こうに誰もいない状況で同じことをしゃべり続けるなど、普通の神経では耐えられないであろう。相手に間接的な不快感を与えることで、こちらの気分を相手にわからせることができる可能性は高いように思われる。

時間と体力のロスを最小限に抑え、早く忘れたいなら:すぐに切る

 とはいえ、やはり、セールスの電話がかかってきたら、そして、内容に興味がないのなら、もっともよいのは、「すぐに切る」ことである。この場合の「すぐに切る」とは、文字通り、電話をかけてきた相手がセールスであるとわかったら、1呼吸おいて切ることを意味する。「1呼吸おく」ことが必要であるのは、間違いなく通話を遮断するためである。というのも、(1)電話を切るのがあまりにも早いと、知り合いからの電話をセールスと勘違いして切ってしまう危険があるからであり、また、(2)電話をかけてきた業者の方が、何らかの事故で回線が切れたと判断し、かけなおしてくる危険があるからである。

 私は、かつて、ながいあいだ、セールスの電話がかかってくると、相手の用件を確認した上で、「興味ありません」と謝絶して電話を切ることにしていた。電話をかけてくるのが同じ人間であるかぎり、相手の話を聞いてからこちらが返事するというのがコミュニケーションの本来の姿であると私は考えていた。今でもそう考えている。

 しかし、今から20年近く前、あるセールスの電話を受けてから、私は、セールスの電話についての考え方を少し変えた。

 今でもよく覚えているのだが、それは、そのころ「3分9円」中継電話サービスを開始した東京電力系の東京通信ネットワークが提供する「東京電話」のセールスであった。私が電話に出ると、相手は、こちらの名前も確認せず、東京電話のサービスの説明を始めた。それは、まるでパンフレットを棒読みしているようであった。私は、30秒くらい黙って聞いていたが、少しつらくなってきた。そこで、謝絶しようと思い、「申し訳ないが、興味ありません」と言おうとしたところ、「申し訳……」まで言ったところで、電話をいきなり切られた。セールスの電話に出て、相手から電話を切られたのは、それが最初であった。

 もちろん、このような行動は、商品や業者のブランドイメージを毀損するから、それなりに知られた企業やブランドを名乗ったセールスや勧誘では避けるべきことであるに違いない。実際、「東京電話」に対する私の印象は非常に悪くなり、当時、テレビでさかんに流れていた東京電話のCMを見るたびに、私は、不快なセールスを繰り返し思い出すことになった。


 このような不快な思いを避けるには、セールスの電話は、数秒のうちに黙って切るのがもっともよい。これは、電話をかけてきた相手に対する礼儀という点で問題がないわけではないけれども、こちらの都合や気持ちなどまったく考慮しない相手が与えるかも知れぬ不快感から身を守り、精神の健康を維持することを優先するには、やむをえないことであると私は考えている。


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