AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:反ライフハック > 健康

Beautiful hands with french manicure

クリームも手袋もサプリメントも、私には効果がなかった

 私は、子どものころから、指先の「あかぎれ」と「ひび」に悩まされていた。また、ある時期からは、湿疹のようなかゆい水疱がまでできるようになった。10年くらい前まで、冬になると、いや、場合によっては他の季節にも、指先がガサガサとして、ウロコのようになり、つねに軽い痛みを指先に抱えていた。タオルで手を拭くと、繊維が皮膚のひび割れた部分に引っかかるほどであった。

 冬には絆創膏が欠かせなかった。指先のひび割れたところが出血するからである。また、水疱をかき壊すと、大変なかゆみに苦しめられることになる。冬というのは、ながいあいだ、指先のトラブルの季節であった。手の10本の指のうち7本から8本には絆創膏が巻かれているのが普通であった。当然、このような状態では、ペンを握るにも、パソコンを打つにも一苦労となるが、そればかりではない。会議室や応接室で仕事関係の打ち合わせがあるときには、手を相手に見せないようにしなければならなかった。私の指先を見た相手がギョッとしたような顔をすることが多かったからである。たしかに、すべての指先が絆創膏で覆われているのを見れば、不審に思うのが自然であろう。

 もちろん、何の対策も講じなかったわけではない。最初に試したのは各種のクリームである。しかし、少なくとも、保湿成分を含むクリームは、私には何の効果もなかった。

 手袋も使った。外出するときばかりではなく、寝るときも湿度を逃さないよう、ビニールの手袋を付けていた。仕事中と食事中以外、手をずっと手袋に入れていた年もあった。しかし、手袋は、つけているあいだは快適――とはいえ、蒸れることはあった――であるけれども、はずしてしまえば、指先の状態はもとに戻ってしまう。

 ビタミンEを含むサプリメントを試したこともある。しかし、これもまた、目に見える効果はなかった。

「あかぎれ」の主な原因は「指先の乾燥」ではなく「全身の冷え」

 ちょうど、これらを一通り試した10年くらい前の冬、別件で病院に行く機会があった。診察を受けているとき、指先をチラッと見た医師から、絆創膏だらけの理由を尋ねられ、私は、「あかぎれ」であると答えた。すると、医師から、「あかぎれ」の最大の原因は「乾燥」ではなく「冷え」、特に体幹の「冷え」だから、身体を温めると効果的である、という意味のことを言われた。

 私は、それまで、特に身体を冷やすような服装をしていたわけではなかったけれども、たしかに、ゴロゴロと着込む方ではなかったが、医師の忠告をうけ、試しに、自宅にいるときにも防寒の下着と厚手のパーカーを常時着用して過ごしてみたところ、指先の状態が数日のうちに急速に改善された。少なくとも、絆創膏を必要とするような状態ではなくなった。やはり、私の場合、「あかぎれ」の原因は冷えであったようである。

 その後は、毎年冬になると、身体を冷やさないよう、徹底的な厚着を心がけており、そのせいか、この数年は、指先の皮膚がウロコのようになることはない。また、私の体験の範囲では、この状態でクリームを使用することは、銘柄に関係なく、とても効果的である。

 一般に「冷え」というのは、身体の不調の多くの原因の一つになっているものであるから、身体は冷やすよりも温めた方がよい。フリース1枚で「あかぎれ」が軽減され、体調の改善にもなるのであれば、これは、ずいぶん安上がりな解決法であると言うことができるように思われるのだが……。


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 2016年の春に「かかりつけ薬剤師」という制度が始まったらしい。

今春スタート!薬局で【かかりつけ薬剤師制度】を活用するメリットとは? | EPARKくすりの窓口コラム

 どこかでこのようなニュースを聞いたような気がするが、幸いなことに、今年は病院と薬局に何回か通ったが、昨年は病院にも薬局にも縁がなく、すっかり忘れていたのを、昨日、下のような記事をたまたま目にして思い出したのである。

「かかりつけ薬局あり」は41% 「くすりの適正使用協議会」発表

 この「かかりつけ薬局」は、「かかりつけ医」と同じように、病人の健康管理について重要な役割を担うことになるものらしいということはよくわかる。それでも、私には、どうしても「余計なお世話」と感じられて仕方がない。

 しばらく前、処方箋を持って薬局に行ったときのことである。初めて行くその薬局で、保険証の提示を求められた。薬局で保険証を提示しろと言われたのは、私にとっては初めてのことだった。そこで、「その要求に法的な根拠はあるのか、処方箋に必要な情報はすべて記されているはずだが」と私が切り返すと、処方箋に記された保険証の番号を確認するのに必要であること、したがって、毎回は必要ないが、年に一度はチェックしたいという返事が戻ってきたため、その場で保険証を見せた。(薬局が保険証のコピーを保管するようなことはなく、私が提示した保険証をその場で処方箋と照合し、住所をメモするだけの作業であった。)

 しかし、私は、保険証は提示しても、初めての薬局に行くたびに記入を要求される「問診票」「アンケート」などと呼ばれる書類の記入は、すべて断ることにしている。余計な個人情報を薬局に伝えたくないのである。

 たしかに、薬局が、薬を客に引き渡す前に、客が現在服用している薬の種類、(アレルギーを含む)副作用、そして、既往症に関する情報を把握しなければならないことはよくわかる。したがって、私は、求められれば、必要最低限の情報を口頭で伝えることにしている。(「問診票は書かない」と薬局の窓口で言うと、「何か薬を飲んでいるか」「薬の副作用が出たことはあるか」などを即座に尋ねられることが多い。)

 患者が自分の身体に関する情報を開示する気になるかどうか、そして、薬局の窓口にいる薬剤師から意見やアドバイスをもらったとき、これに耳を傾ける気になるかどうか、つまり、患者が、薬局にいる薬剤師に健康管理の一部を委ねる気になるかどうか……、「かかりつけ薬局」なるものが機能するかどうかは、この点にかかっていると私は考えている。自分の健康というのは、誰にとっても大切なものであるから、「かかりつけ薬局」なる制度が作り上げられたとしても、薬剤師が親身でなかったり、他人事だったり、よそよそしかったりすれば、私たちは、薬剤師に必要最低限の情報しか開示しないであろうし、まして、薬剤師に何かを相談することなど決してないであろう。「かかりつ薬局あり」が41%にとどまっているのには、それなりの理由があると考えるのが自然であり――というよりも、41%は、私の予想よりもかなり高い数値である――「かかりつけ医」が制度化されるとしても、事情は同じであるに違いない。


brain power

 「寿命がのびる」という表現が使われるときに一般に想定されているのは、身体の寿命がのびることである。もちろん、最近何十年かのあいだに身体の寿命がのびたのは、それ以前に生命を奪ってきた病気の多くについて、完全に撲滅されたり、完治を可能にするような治療法が見つかったりしたからである。現在では、何らかのがんが死因の上位を独占しているけれども、それは、何十年か前にがんよりも上位にあった多くの死因が次々と除去されて行った結果であり、がんに罹患するリスクが見かけ上高くなったのは、人口構成に占める高齢者の割合が増えたからにすぎない。

 どのくらい遠い将来になるかわからないけれども、がんを根治する方法が発見されたら、今度は、現在では下位にある死因の順位が繰り上がり、上位を占めるようになるはずである。ただ、100年後の死因の第1位を今から知ることは不可能である。ことによると、それは、特定の疾病ではなく、「交通事故」や「戦争」や「自殺」になっている可能性がないわけではない。この場合、100年後の医学は、病気の治療ではなく安全や平和を目指す一種の社会科学になっているであろう。

 しかし、身体の寿命とは異なり、脳の場合、人類が始まってから、基本的にその寿命に変化はないように見える。(もっとも、私は完全な素人だから、間違っている可能性はある。)つまり、適切に知覚し、判断し、行動する能力が身体の寿命とは関係なく、ある年齢以降とどまることなく衰える点については、現在も過去もあまり違わないように思われるのである。(なお、がんの場合と同様、認知症の患者が増えたのも、社会の高齢化が原因である。かつては、身体の寿命が短かく、認知症になるまで生きている人間が少なかったのである。)ニューロサイエンス(neuroscience=脳神経科学)において、脳の活動力を薬によって増強させることの可能性が検討され、ニューロエシックス(neuroethics=脳神経倫理学)において、この道徳的な是非が重要なトピックとして取り上げられてきたことにはそれなりの理由があると考えるべきであろう。

 人間の生命を奪ってきたさまざまな病気が治療可能となり、身体の寿命が延びたため、脳の方が身体よりも短命になった、これが現在の状況である。身体よりも脳の方が寿命が短く、脳の衰えの方が身体の衰えに先立つのであるから、人間の生死は、今や身体の生と死よりも、脳の生と死――これはいわゆる「脳死」とは別である――と深く関連すると考えねばならない。気力や知力などと表現することのできるものがいちじるしく衰えたとき、脳の機能を回復させ、明晰な思考と判断を維持することは、「脳の寿命」をのばすことであり、ニューロエシックスが何と言おうと、社会の活力を維持するためにどうしても必要であるように思われる。


depression

 秋、特に10月と11月は、私のもっとも嫌いな季節である。秋が嫌いな理由はいくつもあるけれども、そのもっとも大きなものの1つは、間違いなく健康診断である。

 私の場合、今のところ、BMIは標準であり、「メタボ」と見なされる恐れはない。また、酒ともタバコとも縁がない生活を送っている。血液検査の数値に深刻な異常が出たこともない。それでも、健康診断がたまらなく嫌であり、健康診断が終わるまで毎日、何度も健康診断のことを考え、そのたびに憂鬱になる。それなりに忙しい時期であるにもかかわらず、集中力と生産性は非常に低くなる。

 ネットで調べると、健康診断が嫌いであることを公言する人が少なくないことがわかる。しかし、その理由は必ずしも同じではない。バリウムを飲むのが嫌である(ただ、胃部X線検査は労働安全衛生法に定められた必須の項目ではなく、したがって、検査は拒否できる)とか、血液検査で針を刺されるのが嫌であるとか、色々な理由が記されている。健康診断がそれ自体として精神衛生上有害な影響を生活に与えているのである。

 私の場合、なぜ健康診断ごときでこれほど憂鬱になるのか。おそらく、場所の雰囲気に耐えられないからであると思う。よく知らない人たちと一緒に列を作り、特に何を話すわけでもなく、閉じた空間を何十分か回遊するのが嫌なのである。少なくとも私の職場では、よく知らない者たちが人口密度の高い同じ一つの空間を共有するという状況が出現することはない。(もちろん、会議のときには、会議室の人口密度は高くなるけれども、普通は、全員が顔見知りである。)検査する側の看護師や医師からは、「やる気」も人間味も感じられず、受診する側は、工場のベルトコンベアを流れてくるモノのように扱われる。今の職場では、尿検査のときの採尿には便所が使われるが、以前の職場では、健康診断が実施される部屋の中――つまり便所の外(!)――に便器が1つ設置され、そこで採尿することになっていた。

 私など、屠殺されるために引きずられて行く牛になったような気分で、虚ろな目をして列に並ぶ。今年も、あと2日で、もっとも嫌いな年中行事がやってくる……。


Hippo Mouth

 体調を崩したり疲労がたまったりしたとき、身体のどこかにサインが現われると便利である。蕁麻疹ができたり口内炎ができたりする人もいるが、私の場合は、歯が痛くなる。そして、歯が痛くなったら、誰から何を言われようと、休息をとることにしている。

 去年の春、旅行していたとき、歯が突然痛みだした。痛みは強烈で、熱が出たため、痛み止めを飲んで熱と痛みを抑え込み、東京に戻ってから歯医者に駆け込んだ。

 私は、嘔吐反射がひどく、歯医者が苦手だった。そのため、ながらく歯医者には行っていなかった。かつて通っていた歯医者では、嘔吐反射で嫌味を言われたこともあり、去年は、歯医者を新たに捜すところから始めた。

 まずネットで調べてから電話をかけ、嘔吐反射がひどいことを説明し、それでも対応してもらえるかどうかを一応確認してから診察を受けた。もし困ると言われたら、別を当たるつもりだった。

 痛みがひどい歯は、かつて大々的に削って金属をかぶせたところだから、ここが虫歯になっていたら、治療はさぞ大変なことになるに違いない、と半ば観念していた。ところが、X線で口の全体を撮影し、さらに、あちこち調べてもらったところ、少なくとも痛みの原因は虫歯ではないという診断が出た。大々的に削って神経を取ってしまった歯があるが、これは、それ自体は何ともない、という話だった。(もし本当にこの歯に虫歯ができて、それが原因で痛みが出ているなら、そのときの痛みは、市販の痛み止めが効くようなレベルではない、とも言われた。)

 ただし、 この歯の根元には細菌がいる可能性があり、元気なときには問題ないが、疲れてくると、腫れたり痛んだりすることがある可能性があり、今回は、それに該当する、だから、唯一の治療法は休息をとることだ、というのが結論だった。

 私は、いい話を聞いた、と思った。
 
 私は、もともと、体力がある方ではなく、子どものころから、何となく疲れていることが多い。 しかし、疲れたと感じても、ただ目の前の仕事をやりたくないだけなのか、それとも、本当に疲れているのか、自分でも区別がつかない。だから、疲れていても、怠けていると周囲から思われたくないから休まないことが多かった。

 しかし、私が疲れを自覚しているかどうかに関係なく、疲れているときには歯が痛むということであるなら、歯が痛みだしたら、それは、「疲労のサイン」と受け取ってよい、いや、受け取らなければならない。問題の歯を削ったのは中学生のときで、それ以来、去年まで30年以上、痛むということはなかったが、これからは、自分がつかれているかどうかは、この歯に尋ねればよいことになる。これは、実に便利である。

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