AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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Rush hour

「作家」で何が悪いのか

 1ヶ月くらい前、ツイッターで次のような書き込みを見つけた。


 その後、しばらくしてから、次のような記事をネットで読んだ。

【追記しました】私はライターじゃない : はあちゅう 公式ブログ

タッキー・はあちゅう大作家先生肩書問題の本質 - Hagex-day info

「肩書き」の意味のなさ : はあちゅう 公式ブログ

 私自身は、何らかの意味においてクリエイティヴ・ライティングに従事している著述家をすべて「作家」と呼ぶことにしており、この意味において、「はあちゅう」氏は紛れもなく作家である。したがって、「はあちゅう」氏が作家を自称することの何が問題なのか、それ自体としては私にはわからない。おそらく「ライターではなく作家」を自称したことがかなりの数の人の神経を逆撫でしたのであろう。(たしかに、「ライター」という語には、「主にテクニカル・ライティングで生計を立てている人」の含みがつきまとう。)

日本は「肩書社会」ではない

 とはいえ、肩書が社会生活において担う役割は、決して無視することができないものである。実際、肩書は、自称であれ他称であれ、社会における位置をわかりやすく表示するものであり、「無肩書」の人間は、いかなる場面においても信用されることはないであろう。

 ことによると、わが国が「肩書社会」であり、肩書に関し、外国と比較して相対的に窮屈であると思っている人が多いかも知れないが、これは必ずしも事実に合致しない。たしかに、アメリカの西海岸や東海岸の一部のように、職業を始めとする社会的な「属性」が大して重要と見なされない地域がないわけではない。また、このような「属性」があえて隠されることによって機能する集団――フリーメイソンやアルコホーリクス・アノニマス(アルコール依存症からの回復を当事者が匿名で支援する集団、アメリカのテレビドラマによく登場する)のような――というものもあるであろう。

 けれども、一般には、周囲からの呼びかけられ方、あるいは、周囲から承認された自称が社会生活の質に与える制約は、日本は、外国、特に欧米の諸国と比較してはるかに緩やかである。上のツイートにあるように、外見を見て「お父さん」とか「お姉さん」とか呼ぶのは、たしかに大いに問題であるが、見方を変えるなら、これは、わが国が「肩書で人を評価する」ことが比較的少ない社会、各人がその「実力」ないし「実質」に即して扱われる余地が大きい――必ずそうであるわけではない――自由な社会であることを示す事実であると言うことができないわけではない。

 イギリス、フランス、ドイツなどの諸国の場合、職業、経歴、家族内の位置などを示す肩書には、絶対的な意義が認められている。この意味において、ヨーロッパは階級社会であり、不適切な肩書を自称することにはあまり寛容ではない。

 そもそも、英語やドイツ語ではかなり崩れてきているけれども、多くの西洋近代各国語では、女性の呼称が未婚と既婚で異なる。また、ヨーロッパは、日本とは比較にならないくらい学歴や血統を重視する社会でもある。(だから、外見だけを手がかりに安直に「お母さん」などと呼ぶことには、かえって一般に慎重である。)私たちがこのような事情に気づかないとするなら、それは、これらの国を訪れるときには、私たち日本人が「外国人」として扱われるからであり、また、ヨーロッパ諸国の出身者で、日本人とあえて交流しようなどと思う者は、大抵の場合、窮屈な「肩書信仰」のようなものから比較的自由だからである。

呼称の改善案

 なお、上のツイートに関連する私の提案は、次のとおりである。

    • 「おばさん」「おじさん」「お母さん」「お父さん」をすべてやめ、「大将」に統一する。(これら4つの呼称は、相対的に年長の相手に対して使われるから、「大将」で何ら問題ない。)
    • 男女を呼び分ける必要があるのなら、それぞれ「旦那」と「お女中」とすればよい。
    • 姓のあとにつける「君」「さん」などを年齢や性別に関係なく統一させるなら、「……氏」とすればよい。実際、大学院生のころ、学年の順序と年齢の順序が一致しない環境に何年も身を置いていたけれども、このような環境では、相手への呼びかけるに「……氏」が多用されていた。(目の前にいる相手を3人称で呼ぶようで、あまり気持ちよくはなかった。)

The table is ready

この言葉の新しい用法

 私が、「半径5メートル」という言葉を初めて耳にしたのは、遅くとも2009年以前のどこかであったと思う。(2009年の春に執筆していた文章で、私自身が「半径5メートル」という言葉を使っているから、流通し始めたのは、さらに前であろう。)すでに私の耳に届いたころには、この表現は、当然、それなりに広い範囲で使われていたはずである。

 そして、それ以来しばらくのあいだ、誰かと喋っているときに「最近の若者」が話題になると、そのたびに、私は、「半径5メートル」という表現を繰り返し使った。もちろん、その後有名になった「はあちゅう」氏の次の本で同じ表現に積極的な意義が与えられているのとは反対に、当時、この表現が使われる際に一般に想定されていたのは、関心の幅の極端な狭さであり、「野望」ないし「野心」の極端なつつましさが、関心の幅のこの極端な狭さの必然的な帰結と見なされていた。(下の本をきっかけにして、「半径5メートル」という言葉の意味が決定的に変化したのである。)ただ、私自身は、今でも、「半径5メートル」という言葉をこの古い意味で使っている。

『半径5メートルの野望 完全版』(はあちゅう):講談社文庫] 製品詳細 講談社BOOK倶楽部

 上の本では、冒頭に次のような記述がある。

 ……自身を含めた多くの同世代が、自分の身の回りの「半径5メートル」圏内の日常にしか興味がないこと、そうだとしても、自ら小さな世界を充実させていくことこそが大事だと思う……

 さらに、次のような言葉も見出すことができる。

 ……個人で世界を見据えた大きな視点を持てる人は一握りだと思います。けれど、自分の日常の半径5メートルに意識を集中することなら、そんなに難しくないはず。そしてSNSが広がった今の時代だからこそ、隣の人の半径5メートルと自分の半径5メートルを融合させていくことで、自分の行動範囲・興味分野、つまり自分の「世界」をどんどん広げていくことができるのです。

 しかし、「半径5メートル」という表現の古い用法に従うなら、このようなものの見方は、まったく「半径5メートル」的ではない。きっかけとなるものが何であったとしても、また、手段がどのようなものであるとしても、半径5メートルの現状に安住せず、自分自身の存在可能性をつねに模索することが「半径5メートルの野望」の意味するところであるかぎり、その正体は、「なりたい自分になる努力への意志」であり、きわめてまっとうな人間的な「野望」――と言うほどのことでもないと思うが――である。

この言葉のもともとの用法

 とはいえ、「半径5メートル」がもともと担っていたのは、これとはまったく別の意味であった。すなわち、自分を中心として半径5メートルよりも遠くの事柄を自分のあり方との関係において把握することができないとき、「半径5メートルよりも向こうには関心がない」と言われたのである。

 半径5メートルに関心が局限された大学生や若い会社員が積極的な関心の対象となるのは、自分の日常生活において否応なく出会われる事柄だけである。このような世代の場合、社会に影響を与えるような活動に従事しているわけではないから、彼ら/彼女らの注意を惹くのは、生理現象、ファッション、テレビ、サークル活動、成績、アルバイトなどであり、このようなものに関する話題が刹那的な仕方で表現を与えられ、SNS上で無秩序に氾濫しつつあった。今でも、事情は基本的に同じであろう。

 だから、どの程度のカネが自由になるかによって多少は異なるとしても、彼ら/彼女らは、今朝の化粧のノリや(もちろん地上波で放送される)テレビドラマの結末、タレントのスキャンダルなどについては生き生きとした興味を示し、自分の利益を少しでも損ねることには非常に敏感に反応――というよりも反射――するが、自分に対し動物的、末梢的な刺戟を与えない事柄――政治、経済、社会、文化などに関し広く共有されるべき諸問題――については、恐ろしいほど無知であり無関心である。現職の総理大臣の名前を答えられない、(携帯電話代を自分で支払っていない場合には)1ヶ月の携帯電話の維持費がわからない、大政奉還が何年の出来事だったのか知らない(あるいは、忘れた)……、私自身は、知識と関心の深刻な欠落に何度も出会い、そのたびに、気味悪さを覚えてきた。

 このような傾向は、現在でも変化してはいないと思う。それは、たとえば次のような大学生の就職先として人気のある企業のランキングを眺めることにより、ただちに確認することができるであろう。

日本経済新聞連動特集 就職企業ランキング - 就活支援 - マイナビ2017

 上のランキングを見ると、「文系/理系」「男子/女子」のすべての区分の1位から10位までに挙げられているのがすべて、末端消費者を相手にしている企業であり、さらに、その多くが、テレビでCMを放送している企業であることがわかる。

 本来、就職先は、「社会に対しどのように貢献したいか」という観点から選択されるべきものである。しかし、実際には、現在の平均的な大学生には、「テレビのCMでよく知っている会社」「コンビニで見かける商品を作っている会社」などにしか関心がなく、また、知識を広げる意欲もなく、その結果、街で名前をよく見かける会社がランキングの上位を占めることになるのであろう。就職活動する大学生は、「お花が好きだからお花屋さんになりたい」「お菓子が好きだからお菓子屋さんになりたい」と語る小学生と大差ないことになる。日本の経済にとってきわめて重要な役割を担っているはずの総合商社、あるいは物流関係の企業が上位に姿を現さないという事実は、このような残念な事情を雄弁に物語っているように思われる。

 数年前から、「丁寧な暮らし」という言葉を目にする機会が多くなった。「丁寧な暮らし」とは、健康や環境に配慮し、家事を中心とする日常生活に時間とカネと手間を費やすことを意味するらしい。主な担い手となるのは、当然、専業主婦である。

 「半径5メートル」の内側にしか興味のない若者――特に女性――が年齢を重ね、「元若者」となるとき、(言葉のもともとの意味における)「半径5メートル」の「野望」は、「はあちゅう」氏が語るようなSNSを用いた広い視野の獲得には向かわず、むしろ、みずからの「半径5メートル」に固執する道を選ぶことになるに違いない。そして、このような「元若者」たちは、「丁寧な暮らし」の名のもとに食品、日用品、雑貨などを売りつけられ、消費社会の単なる養分になることを避けられないように私には思われるのである。

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