「作家」で何が悪いのか
1ヶ月くらい前、ツイッターで次のような書き込みを見つけた。
その後、しばらくしてから、次のような記事をネットで読んだ。見ず知らずの人を外見的属性で呼ぶのはもう止めるべき。特に老ける方向での属性呼びは非常に良くない。「おばさん」とか「おじさん」とか。まして「お母さん」「お父さん」はもう論外だと思う。問題は知らない人にどう呼びかけるか。僕の業界には「先生」という便利な言葉があるが。「卿」が使えれば。
— オッカム (@oxomckoe) 2017年3月9日
【追記しました】私はライターじゃない : はあちゅう 公式ブログ
タッキー・はあちゅう大作家先生肩書問題の本質 - Hagex-day info
私自身は、何らかの意味においてクリエイティヴ・ライティングに従事している著述家をすべて「作家」と呼ぶことにしており、この意味において、「はあちゅう」氏は紛れもなく作家である。したがって、「はあちゅう」氏が作家を自称することの何が問題なのか、それ自体としては私にはわからない。おそらく「ライターではなく作家」を自称したことがかなりの数の人の神経を逆撫でしたのであろう。(たしかに、「ライター」という語には、「主にテクニカル・ライティングで生計を立てている人」の含みがつきまとう。)
日本は「肩書社会」ではない
とはいえ、肩書が社会生活において担う役割は、決して無視することができないものである。実際、肩書は、自称であれ他称であれ、社会における位置をわかりやすく表示するものであり、「無肩書」の人間は、いかなる場面においても信用されることはないであろう。
ことによると、わが国が「肩書社会」であり、肩書に関し、外国と比較して相対的に窮屈であると思っている人が多いかも知れないが、これは必ずしも事実に合致しない。たしかに、アメリカの西海岸や東海岸の一部のように、職業を始めとする社会的な「属性」が大して重要と見なされない地域がないわけではない。また、このような「属性」があえて隠されることによって機能する集団――フリーメイソンやアルコホーリクス・アノニマス(アルコール依存症からの回復を当事者が匿名で支援する集団、アメリカのテレビドラマによく登場する)のような――というものもあるであろう。
けれども、一般には、周囲からの呼びかけられ方、あるいは、周囲から承認された自称が社会生活の質に与える制約は、日本は、外国、特に欧米の諸国と比較してはるかに緩やかである。上のツイートにあるように、外見を見て「お父さん」とか「お姉さん」とか呼ぶのは、たしかに大いに問題であるが、見方を変えるなら、これは、わが国が「肩書で人を評価する」ことが比較的少ない社会、各人がその「実力」ないし「実質」に即して扱われる余地が大きい――必ずそうであるわけではない――自由な社会であることを示す事実であると言うことができないわけではない。
イギリス、フランス、ドイツなどの諸国の場合、職業、経歴、家族内の位置などを示す肩書には、絶対的な意義が認められている。この意味において、ヨーロッパは階級社会であり、不適切な肩書を自称することにはあまり寛容ではない。
そもそも、英語やドイツ語ではかなり崩れてきているけれども、多くの西洋近代各国語では、女性の呼称が未婚と既婚で異なる。また、ヨーロッパは、日本とは比較にならないくらい学歴や血統を重視する社会でもある。(だから、外見だけを手がかりに安直に「お母さん」などと呼ぶことには、かえって一般に慎重である。)私たちがこのような事情に気づかないとするなら、それは、これらの国を訪れるときには、私たち日本人が「外国人」として扱われるからであり、また、ヨーロッパ諸国の出身者で、日本人とあえて交流しようなどと思う者は、大抵の場合、窮屈な「肩書信仰」のようなものから比較的自由だからである。
呼称の改善案
なお、上のツイートに関連する私の提案は、次のとおりである。
- 「おばさん」「おじさん」「お母さん」「お父さん」をすべてやめ、「大将」に統一する。(これら4つの呼称は、相対的に年長の相手に対して使われるから、「大将」で何ら問題ない。)
- 男女を呼び分ける必要があるのなら、それぞれ「旦那」と「お女中」とすればよい。
- 姓のあとにつける「君」「さん」などを年齢や性別に関係なく統一させるなら、「……氏」とすればよい。実際、大学院生のころ、学年の順序と年齢の順序が一致しない環境に何年も身を置いていたけれども、このような環境では、相手への呼びかけるに「……氏」が多用されていた。(目の前にいる相手を3人称で呼ぶようで、あまり気持ちよくはなかった。)