Russell Baze at Golden Gate Fields

 現代は、若さが異常に高く評価される時代である。若くないことに積極的な価値が認められることはなく、年齢を重ねることは、単なる若さの喪失であり、「老化」にすぎぬものと捉えられることが少なくない。「アンチエイジング」なるものに狂奔する女性が多いのは、そのせいなのであろう。

 しかし、年齢にふさわしい外観を拒絶し、「アンチエイジング」にいそしむ姿は、年齢相応の経験の積み重ねを怠ってきたこと、内面が空虚であることの宣言と同じである。内面が本当に虚ろであるかどうかには関係なく、少なくとも「アンチエイジング」などには無関心であるかのようにふるまうのが賢明であるように思われる。

 実際、しばらく前、次のような出来事があった。

アンチエイジング大嫌い 小泉今日子ら、姐さん達の「ありのまま」がかっこいい - NAVER まとめ

 女性誌やネットに散見する「アンチエイジングって言葉が、大嫌い」という発言に対する反応の中には、これを真に受けないようにアドバイスするもの、あるいは、この発言の「真意」を解説するものが多かった。私は、そこに、見苦しさと痛々しさを感じた。「アンチエイジングは自分の最優先の課題だ、小泉今日子が何を喋ろうと関係がない」と言いきる度胸も信念も持つことができないままアンチエイジングを必要とする年齢になってしまった人間が珍しくないことが露呈したからである。

 しかし、もちろん、年齢を重ねること、若くなくなることには、大きな利点がある。それは、若いころの体験や経験を冷静に振り返ることが可能になる点である。私は、10年前、20年前、30年前とくらべて、いくらか高いところに登ってきたことを実感し、広い視野でものを考えることができるようになった。周囲を眺める余裕もなくひたすら前に向かって追い立てられるように生活していたころには気づかなかったことが、この年齢になってようやく視界に入ってきたのである。

 それとともに、年齢を重ねてからそれなりに賢くなるためには、やはり、若いころからのそれなりの心がけが必要であったこともまた、何となくわかってきた。私自身は、これまでの人生の中で時間をずいぶん無駄にしてきたけれども、それでも、若いころを振り返り、「ああ、あのときああいう勉強/経験をしておいてよかった」と感じる機会が少なくない。

 若いころの勉強や経験こそ、年齢を重ねてからの豊かな生活を実現するためのもっとも効果ある投資であり、これが本当の意味における「アンチエイジング」の手段でなければならないはずである。内面が虚ろなまま馬齢を重ね、そして――この事実を直視することができないからなのか――若返りのための美容や化粧に狂奔するというのは、何とも哀しいことのように私には思われるのである。