Man And Woman On A Bench

「男女共同参画」の両義性

 もう何年も前から、「男女共同参画社会」という言葉を繰り返し目にするようになった。内閣府男女共同参画局のウェブサイトには、次のような説明が掲げられている。

男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」です。(男女共同参画社会基本法第2条)

 単なる言葉の言い換えのようにしか見えないこの説明は、しかし、「男女共同参画」に認められている価値の両義的な性格の表現としては大変に価値がある。すなわち、

  1. 「男女共同参画」には、一方において、男女の平等という目標が設定され、
  2. 他方において、「男女共同参画」により、社会全体の利益が促進されると普通には考えられている

ようである。これら2つの側面のうち、たとえば「選択的夫婦別姓」は前者の目標のための施策に当たり、「クォータ制」は後者を実現するための手段に当たる。すべての男女一人ひとりの福祉と社会全体の利益には、たがいに重なる部分が少なくない。(だから、今のところ、両者は明瞭に区別されてはいない。)けれども、両者は完全に一致しているわけではなく、男女一人ひとりの幸福の追求が社会全体の利益を損ねる可能性があり、また、反対の場合も同じように想定することができる。

 したがって、形式的に考えるなら、「男女共同参画」にはそれ自体としての価値があるのか、あるいは、「男女共同参画」が社会全体の利益を実現するための手段であるのか、二者択一を求められる場合があるはずである。両者の調和は必然ではないのである。

「手段としての男女共同参画」――クォータ制の導入に賛成

 功利主義の観点から見るなら、男女共同参画は、社会全体の利益を促進する有効な手段の1つであると言うことができる。男女の能力が全体として同等であるなら、男性のみからなる1000人の集団から調達された800人分の人的リソース(上位8割)よりも、男性と女性をあわせた2000人の集団から調達する800人分のリソース(上位4割)の方がはるかに質が高くなることは、誰が考えても明らかだからである。

 クォータ制――議会の議員、大企業の役員、官公庁の幹部などの一定数(普通は40%程度)を女性にする制度――は、社会全体の利益を促進すること、具体的には、国内の産業に競争力を与えたりGDPを増加させたりするのに有効であると考えられているものである。社会の広い範囲に影響を与える意思決定に女性が関与することが、女性の活躍の場を広げることに有効であることは確かである。
 だから、たしかに、これが男性に対する「逆差別」に当たる可能性があるとしても、何ら不思議ではない。男性に対する逆差別であるからクォータ制を導入すべきではないという主張は、「目的として男女共同参画」と「手段としての男女共同参画」の取り違えに由来する単純な誤解にすぎない。(同じような意味で、少なくとも短期的には、クォータ制が女性の幸福を促進する保証もない。)
 クォータ制は、前の段落で述べたように、1000人の男性から上位800人を採用する代わりに、2000人の男女から上位800人を採用する試みであるから、これまで採用されていた男性のうち、少なくとも400人は採用されなくなる。しかし、単純で機械的な労働に対する需要が長期的には減少する運命にあるなら、その分、高度に知的な労働にを担うことのできる人材が必要であり、形式的に考えるなら、無理やりにでもクォータ制を導入する方が、人材が適切に配置された社会が実現するはずである。