AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:コーピング

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 上手く行かないことが一日のうちに続けざまに起こることがある。予定していた会合が急にキャンセルになったり、書類にミスが見つかったり、仕事上の関係者の不手際のせいで面倒な雑用が急に飛び込んできたり……。このようなとき、その日にするはずだったことが片づかないばかりではなく、何となく消耗して意気阻喪し、生産的な仕事に着手する気が失せることがある。また、このような気分をおして無理に何かを片づけようとすると、新たなミスが発生するのではないかという気がかりに襲われ、ミスを避けることに注意がさらに奪われて消耗することになる。

 このような悪循環が生れる原因の1つがオーバーワークにあることは確かであり、このような場合、仕事量を減らし、自分の目の前のスペースを片づけるだけで、生活に秩序が戻ることは少なくない。

時間に余裕がなければ、目をつぶって深呼吸する

 しかし、「今日は何もかも上手く行かない」と思ったら、ほんの少しでもよい、仕事の手(あるいは足)を止めて、別のことをすべきである。私自身は、仕事に余裕がないときには、目をつぶって2分か3分のあいだゆっくり深呼吸する。思い切り深呼吸しながら呼吸の数を数えていると、少なくともそのあいだは、注意が数えることに完全に奪われるから、今日の上手く行かなかったことを考えずに済ませることができる。もちろん、深呼吸しても、問題の根源がどこにあるのかわかるとはかぎらないけれども、それでも、少しだけ問題から距離をとって落ち着くことができるに違いない。

 上手く行かないことが続き、これに注意を奪われていると、呼吸が浅くなる。深呼吸に効果があるのは、身体が酸素不足の状態になっているからであるのかも知れない。ただ、私はこの点について詳しい知識を持っているわけではないから、断定的なことは言えない。

少し時間があるなら、軽い筋トレを

 30分くらいなら時間をとることができるとき、私は、仕事を中断し、軽い筋トレをすることにしている。筋トレのメリットは、深呼吸と同じである。つまり、自分の身体に負荷をかけるときには、身体に注意を否応なく集中させるから、今日の自分の不運など考えている余裕はなくなるのである。

 同じ運動と言っても、ジョギングやウォーキングのような有酸素運動は、他のことを考えながらでも続けることが可能である。だから、「今日は上手く行かない」という気分は、有酸素運動では解消することができない。スポーツジムに行くなら、トレッドミルの上を歩くのではなく、マシンやフリーウェイトを使った筋トレをすべきであろう。また、その方が、ダイエットにとってもまたはるかに効果的である。

 私は、下の本の著者のように筋トレがすべての問題を解決するとは思わないけれども、それでも、筋トレが精神衛生に与える影響は、もう少し認められてもよいとひそかに考えている。

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スマホをいじったり、テレビを観たりするのは逆効果

 なお、深呼吸や筋トレとは異なり、スマホをいじったり、テレビを観たりすることには、仕事を中断して気分と態勢を立て直す効果はなく、むしろ、私の個人的な経験では、これは逆効果である。たしかに、スマホやテレビの画面に注意を向ければ、そのあいだは、自分のことを考えずに済む。しかし、スマホやテレビは、深呼吸や筋トレのように「頭の中をカラにする」のではなく――非科学的な言い方になるが――別の気がかりや別の情報によって頭を満たしてしまう。だから、中断した仕事に戻ろうと思っても、頭の中に霞がかかったような状態になり、生産性はむしろ損なわれるように思われる。


ドラマは密室で独りで観る

 「テレビドラマを観るのにまで作法が必要なのか」と思うかも知れない。結論から言えば、そのようなものは原則として不要である。映画館で映画を鑑賞するのとは違って、テレビ受像機――ブツとしてのテレビの正式名称――を前にするときには、格好や姿勢は一切関係がない。極端なことを言うなら、逆立ちしていようと、裸だろうと、何ら問題がない。昔はともかく、今では、テレビというものは、独りで密室で観るものになっているからである。したがって、逆説的であるが、テレビドラマを観る作法なるものを設定することが可能であるなら、それは、何よりもまず、テレビドラマが鑑賞される状況の「密室性」を促進し完成させるようなルールでなければならないであろう。たとえば、スマートフォンは手もとに置かない、来客があっても居留守を使う、テレビのある部屋のドアは閉めておく……、これらは、ドラマ鑑賞のための最低限の条件となるに違いない。

 もちろん、ドラマを密室で鑑賞するからと言って、注意を画面に集中しなければならないわけではない。番組の最中に台所に立ってコーヒーを淹れてもかまわないし、ストレッチしながら画面を眺めてもかまわない。大切なことは、「ドラマを観ているあいだは独りになる」という原則であり、この原則が守られてさえいれば、何をすることも許されるということなのである。

気晴らしになるドラマ以外は観ない

 さらに、テレビドラマを観るに当たり、守るべき作法がもう1つある。それは、「何のためにドラマを観るのか」を自覚し、この目的に適合するドラマだけを観ることである。大抵の場合、ドラマを観るのは、勉強のためではないし、仕事のためでもない。ドラマを観るのに費やされる時間は、気晴らしのための時間である。したがって、ドラマを観て気晴らしができなければ、その時間は無駄だったことになる。つまり、「確実に気晴らしすることができる」点がテレビドラマの価値となるのである。

 この場合の「気晴らし」とは、大雑把に言うなら、ストレスの解消であり、最近は、「コーピング」(coping) という総称で呼ばれる一連の作業の中に位置を与えられているものである。そして、生活の中で惹き起こされた否定的な気分から距離をとり、これを相対化することがコーピングであるなら、ドラマを観ているときには、本当に気晴らしができているのか、手をときどき胸に当てて自問することが必要であり、ドラマが気晴らしになっていなければ、そのようなドラマを観るのはただちに中止すべきである。

 「話題になっているからつまらなくても観続ける」などというのは、テレビを観ているときに知り合いを思い出すことになるから、このような理由でドラマを観ることは、精神衛生上マイナスの効果しかない。「つながり」から解放されるためにドラマを観るのだから、「つながり」を想起させるような仕方でドラマを選ぶべきではない。これは当然の話である。

新番組の第1話はすべて観る

 最近はやめてしまったけれども、私は、何年か前までは、連続ドラマの第1話を、日本のものも海外のものも――「韓流」を除き――すべて録画して観ていた。第2話以降も観続けるに値するかどうかをチェックするためである。さまざまなタイプのテレビドラマを観ていると、そのうち、自分にとって気晴らしになるものと気晴らしにならないものの区別が次第に明らかになってくる。たとえば、私の場合、「ホラー」と「SF」と「高校生が主人公のもの」は気晴らしにならない。また、具体的な名前は挙げないけれども、どうしてもテレビで観たくない俳優がいることもわかってきた。もちろん、自分の本当の好みがわかるまでには、それなりに「場数を踏む」ことが必要である。場数を踏まないと、自分の内面の声が聞こえるようにならないからである。


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