Pettegolezzi - Tittle-tattle

どうしてほしいかハッキリ言わないかぎり、誰も助けてくれない

 あなたが誰かの援助を期待するのなら、まずあなた自身が最初の一歩を踏み出さなければならない。

 「誰か俺のことを助けてくれないかな」と思ってただ周囲を見渡していても、誰も助けてくれないからである。いや、助けようがないと言うべきであろう。

  1. 第1に、あなたが何も発信しなければ、誰もあなたに気づきようがないからであり、
  2. 第2に、あなたが「助けてくれ」と言っても、何をどうすればあなたを助けたことになるのか、他人にはわからないのが普通だからである。

 あなたがニートであっても、被災者であっても、あるいは、難民であったとしても、さらに、経営難に陥った会社の社長であったとしても、この点に関し何ら違いはない。

 とはいえ、誰にとってももっともわかりにくいのは、「被害者」と呼ばれる存在である。というのも、各種のハラスメントでも、「いじめ」でも、その他の犯罪でも、あなたがみずからを「被害者」と規定することにより初めて、あなたを被害者とするハラスメントや「いじめ」や犯罪が成立すると一般には考えられているからである。言い換えるなら、ある出来事がハラスメントやいじめや犯罪であるかどうかを決めるのは「被害者」なのである。あなたが被害者として声を挙げ、当の出来事を指し示し、さらに、何をしたら具体的に助けたことになるのか、周囲に対して明らかにする努力をしなければ、あなたが何かに苦しんでいるとしても、周囲がこれに気づくことは不可能である。

いじめの「自家中毒」的構造

 私の見るところ、もっとも厄介なのは「いじめ」である。というのも、少なくとも私の知る範囲では、「いじめ」という出来事のきわだった特徴は、被害者が被害者として声を挙げにくい点にあるからである。

 「いじめ」の潜在的な被害者が声を挙げないのは、沈黙することが「学級/クラス」という流動性を欠いた「ムラ社会」の内部における「生き残り」の戦略として有効だからであるのかも知れない。(だから、被害者自身が「いじめ」の事実を否認することすらありうる。)つまり、「いじめ」は、被害者がみずから声を挙げ、被害の事実を確認することを妨げるばかりではなく、誰かが生命を失うようないたましい出来事が発生し、「いじめ」のプロセスが自動的に停止するまで、とどまることなく内攻するような構造をみずからのうちに具えているのであり、そのせいで、そこに「いじめ」が発生しているのかどうか、外部からの観察ではわからないのである。

 「いじめ」を「早期に発見」したり「抑止」したりすることが困難であるのは、このような「自家中毒」的な構造が「いじめ」に具わっているからであると考えることができる。(児童虐待もまた、構造という点では同じである。)

「いじめ」を逃れるシェルターが必要

 教員が公平な目を持っているとしても――現実には、教員は生徒や児童と「運命共同体」を作っているから、そのまなざしは少なからず歪むことを避けられないのだが――閉鎖的な集団の内部で起こる「いじめ」を外部からの観察によって発見することは困難であるとするなら、児童虐待の場合と同じように、「いじめ」の被害者についても、「シェルター」のようなものは必須であるに違いない。実際、すでに次のような意見もある。

いじめシェルター | はるかぜちゃん | note

 以前に書いたように、学級/クラスが消滅しないかぎり、「いじめ」はなくならない。それでも、学校や家庭から分離された「シェルター」があり、そこに逃げ込むことがいつでも許されるのなら、「いじめ」を早いうちに発見することが可能になるかも知れない。みずからが「いじめ」の被害者であることを確認すること、そして、「いじめ」の事実を被害者として語り、どうしたいのか、どうしてほしいのかを語ることができるようになり、周囲の人間もまた、被害者を正しい仕方で応援し支援することができるようになるはずだからである。

「いじめ」の原因は流動性の低さにあるから、学校がムラ社会であるかぎり、「いじめ」はなくならない : アド・ホックな倫理学

昨日の新聞に、下のような記事が載っていた。「重大事態」明確化を=被害調査に指針も-いじめ対策で提言・文科省会議:時事ドットコム 何が「いじめ」に該当するのか、その基準を明文化することを文科省の「いじめ防止対策協議会」が決めたようである、上の記事にあるよ