教室に行くと、そこにいる学生の90%以上がスマートフォンをいじっている。
電車に乗ると、乗客の90%以上が、やはりスマートフォンをいじっている。
喫茶店では、客の90%以上がスマートフォンの画面と向かい合っている。
これは明らかに異常である。人間の文明は、スマートフォンによって滅ぼされるのではないかとすら私は考えている。
実際、下の記事を俟つまでもなく、スマートフォンが人間の知能の低下にさまざまな観点から貢献していることは、すでに各種のデータにより明らかな事実である。
しかし、残念ながら、「スマートフォンを持つべきではない」「スマートフォンの使用を制限すべきだ」などという主張は、「核兵器廃絶」と同じくらい困難でありナンセンスである。ひとたび開発され、使用されるようになったものを「なかったこと」にするなど不可能だからである。
火も、蒸気期間も、電気のエネルギーも、自動車も、原子力も、飛行機も、コンピューターも、いずれも無視することのできない害悪を人間に与えた。それでも、これらを「なかったこと」にはできなかった。
それでも、これを拒絶するのではなく、可能なかぎり上手にコントロールすることは可能となった。現代では、火をコントロールする技術は高度に発達し、日常生活では、裸の火を目にする機会は非常に少なくなっている。この意味において、火の危険は抑え込まれていると言うことができる。
スマートフォンについても、事情は同じである。スマートフォンが使われているという事実を前提として、この害悪を可能なかぎり抑えるスキルを身につけなければならない。
ただ、残念ながら、スマートフォンに代表されるコンピューターとの付き合い方に関し、人類は、有効なスキルを何一つ産み出してはいないように見える。そもそも、「歩きスマホ」すら解消されていないのであるから、事態は全体としてまったく改善されていないと考えるべきであろう。(問題の最終的な解決は、「歩きスマホをやめさせる」ことではなく、「歩きスマホが危険ではないような街づくり」によって実現されることになるような気がしてならない。)
スマートフォンが社会から姿を消すのは、スマートフォンを一挙に時代遅れにしてしまうような新たなライフスタイル(とその小道具)が作り出され、そして、広く受け容れられるようになるときである。それまでのあいだは、スマートフォンを煩わしいと思う者にできることは、他人に向かって「スマホを使うな」などと叫ぶことではなく、一人ひとりが「覚醒した者」として、個人的な技術を身につけることであろう。スマートフォンとの関係で言うなら、現代は、ライフスタイルの冒険の時代であり、一種の修行の時代なのである。