Temporary pier on the river

老人と同居していると、老人にとって最適の移動経路を組み立てる習慣が自然に身につく

 しばらく前、東京駅から中央線の快速に乗ったところ、しばらくして、すぐ近くの座席に坐っていた3人組の老人の会話が耳に入ってきた。その老人たちは、御茶ノ水駅で総武線の各駅停車に乗り換え、秋葉原方面に行くつもりのようであった。

 私は、御茶ノ水駅で降りるのはやめて、少し時間がかかっても、次の四ツ谷駅まで行き、そこで乗り換える方がよいのではないかと思ったのだが、見ず知らずの人々に対して余計なお世話と考え、何も言わず、黙っていた。そして、3人の老人は、そのまま御茶ノ水駅で電車を降りて行った。

 東京に住み、普段の生活において中央線の快速に乗る機会の多い人なら誰でも知っているように、御茶ノ水駅で千葉方面に行く総武線の各駅停車に乗り換えるには、ホームを替えなければならない。

 しかし、これもまたよく知られているように、御茶ノ水駅には、エスカレーターもエレベーターもない。御茶ノ水駅というのは、神田川の狭い土手の上にあり、拡張の余地がほとんどないからである。

 御茶ノ水の周辺には、順天堂、東京医科歯科大学、日本大学など、大きな病院が密集している。それだけに、その中心にある駅がバリアフリー化されていないというのは致命的である。現在、神田川の上に駅を張り出させるような仕方で、拡張、耐震補強、バリアフリーの工事が進められており、数年のうちには、エスカレーターもエレベーターも設置されることになるのであろうが、少なくとも今はまだ、御茶ノ水駅には、このような設備は何もなく、2017年3月現在、ホームのあいだの移動に使えるのは階段だけである。御茶ノ水駅は、老人には過酷な駅であり、総武線の各駅停車に乗り換えるなら、エスカレーターとエレベーターのある次の四ツ谷駅まで行く方がよい……、私はこのように考えたわけである。

老人と暮らしたことがない者たちに超高齢社会を支えることができるのか

 老人と一緒に暮らした経験があり、老人と日常的に行動をともにする機会が多いと、バリアフリーにはおのずから敏感になる。初めて訪れた場所でも、エレベーターやエスカレーターの位置、人ごみの状況などを観察し、行きたい場所までの最適――最短とは限らない――の経路をまず組み立ててみる習慣が自然に身につく。

 私自身は、今では、老人とも障碍者とも同居してはいないけれども、以前、相当な期間、老人と一緒に暮らす機会があった。そのおかげで、どのような空間が老人にとってつらいのか、何となくわかるようになった。これは、老人と何年か同居することで、誰でも簡単に身につけることができる能力である。

 ところが、よく知られているように、現在では、核家族が普通となり、自分よりも2世代上の親族と同居している者、同居した経験のある者は非常に少ない。自分が最初に看取る親族が両親のどちらかであり、しかも、40歳を超えてからであるというような例すら稀ではないはずである。しかし、これは、いくら何でも遅すぎると私は考えている。

 「人がどのように老いて行くのか」、つまり、人間の心身がゆっくりと衰弱して行くプロセスをごく若いころ――遅くとも成人するまでのあいだ――に間近で観察する機会は非常に重要である。自分がまだ体験してはいないけれども、いずれ間違いなく体験することになる状態を先取りし、自分とはかけ離れた人間の気分や体調を直観的に理解することができるようなることほど、超高齢社会において必要となることはないはずだからである。

 以前、私は、次のような記事を投稿した。


老いのきざし : AD HOC MORALIST

どれほど頑張っても、若者には老人のものの見方を理解することができない 髪が薄くなったり、疲れやすくなったり、食欲がなくなったりすると、齢をとったなと感じる。また、若いころにはなかったようなタイプの身体の不調を覚えるときにも、年齢を感じることがある。 しか


 「高齢者疑似体験セット」により老人の気分を先取りするなど不可能であり、このような装置は老人の「老い」をめぐる根本的な誤解を前提とするものであるというのが上の記事の内容である。

 私が危惧しているのは、実際に何年か、あるいは何年も老人に寄り添い、60代、70代、80代と人が老いて行くのを観察したことがない者たち、「人がどのように老いて行くのか」を知らない者たちが、超高齢社会における制度を設計し、バリアフリーを設計し、そして、老人の「暮らしやすさ」や老人との「共生」の姿を提案することである。

 このような者たちが何を設計し、提案するとしても、そのようなものは、老人の要求から乖離したものとなることを避けられないであろうし、このような設計や提案を枠組みとする社会は、本当の意味における共生とは微妙に、しかし、決定的に異なる不幸な何ものかを――あるいはリスクを――抱え込むことになるような気がしてならないのである。

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