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作品を鑑賞するのに必要な時間は数秒

 美術館で開催される展覧会というのは、私がもっとも苦手とする空間である。というのも、展覧会の会場で何をすればよいのか、よくわからないからである。

 絵画でも、彫刻でも、書でもよい。目の前に何らかの作品が展示されており、私は、作品へと近づき、これを眺める。しかし、大抵の場合、私は、このような状況に困惑する。作品と向き合っていると、次第にいたたまれない気持ちになる。

 そもそも、絵画の場合、何秒か向き合っていれば、作品の鑑賞にとっては十分であり、いつまでも作品の前に立っていても、退屈なだけである。作品を前にして深い感動らしきものを身振りによって示したり、「ほお」とか「まあ」とかつぶやいている人をときどき見かけるけれども、私自身には、絵画、彫刻、書、あるいは、その他の工芸品を見て感動した経験がなく、これらのオリジナルがどのような仕方で人間を感動させるということが理解できないのである。

 何年か前、京都を旅したとき、京都市美術館で開催中の展覧会に行ったことがある。フェルメールの「青衣の女」が日本で初めて公開された展覧会であったらしく、私が美術館を訪れた日は、平日であったにもかかわらず、大変な人出であったことを覚えている。



青衣の女
By ヨハネス・フェルメール - 不明, パブリック・ドメイン, Link

 ラッシュアワーの時間の新宿駅のような混雑の中の1人となって行列を作り、私は、フェルメールのこの作品の前を通り過ぎた。作品が私の視界の内部にあった時間は、かなり長かったけれども、作品の前で立ち止まることは許されなかったから、私が作品を適切な距離から眺めた時間は、10秒にもならなかったはずである。

美術の素人が展覧会でオリジナルを前にして「ほお」「まあ」などと言っているのは不自然

 しかし、私にとっては、これで十分であった。

 私の鑑賞能力がどのレベルであるのか、これはよくわからない。西洋文化に関連することを研究対象としているから、ヨーロッパの絵画や彫刻が嫌いというわけではないけれども、作品を見て楽しいかという問いに対する答えは曖昧である。いずれにしても、素人の水準を超えていないことは間違いないように思われる。

 そして、オリジナルが見る者に与える何かがあるとしても、それは、私のレベルの素人にはまったくわからない。私にとり、展覧会に足を運んでオリジナルを鑑賞するのは、球場で野球の試合を見物したり、マラソンを沿道で見物したりするのと同じようなものである。だから、展覧会で作品の前に佇み、「ほお」「まあ」などと言っている人を見かけると、私は、そこに何か不自然なもの、わざとらしいもの――オリジナルに心を打たれる自分を演じているような――を感じてしまうのである。

 正直に言うなら、私の目には、オリジナルよりもむしろ、画集に収められた複製の方がよほどすばらしいものと映る。画集で複製を見るのは、テレビ中継でスポーツを観戦するのと同じであり、このような手引きなしに藝術作品を享受することは、素人には無理であると私はひそかに信じている。