能面 The Mystery of Noh

マキアヴェリストの孤独

 自分の周囲にいる他人とのあいだに好ましい関係を維持することは、誰にとっても容易ではない。特に、周囲の人間が自分に対して何らかの悪意を持っているのではないかという懸念を持つ人は少なくないはずである。いや、悪意とまでは行かなくとも、自分が何か大切なことを呼びかけたり、助けを求めたりしても、周囲の人間から戻ってくるのが無理解、無関心、冷淡ばかりであるという想定は自然であろう。よのなかは「世知辛い」のであり、相手が家族や親友であっても、頼りにするわけには行かないことは、大人なら誰でも知っていることである。このような事実を理解していることを大人の条件と見なすことが可能である。

 しかし、他人から冷たく扱われるのではないか、困ったときに悩みを打ち明けても、誰も助けてくれないのではないか、それどころか、自分の苦境を悪用されるのではないか……、「最悪の事態」をつねに予想しながら毎日の生活を送ることは、精神衛生上、決して好ましいことではない。周囲をたえず警戒し、他人の言動の背後に悪意や敵意がないか、注意を向けていなければならないからである。周囲にたえず警戒を向けていると、自分が自分以外の誰かを演じているような感じ、仮面をつけて生きているような感じに襲われるようになる。この意味において、マキアヴェリストはつねに孤独である。周囲を意のままにコントロールすることが最優先の課題であるかぎり、仮面から解放されることは決してないからである。

 以前、次のような記事を書いた。


「本当の私」というものはないのに、なぜか「偽りの私」はある : アド・ホックな倫理学

街を歩いていると、自分が「見世物」にされているという感覚に襲われることがある。これは、たくさんの人々のあいだにone of themの匿名の存在として埋没している状態から私ひとりが引きずり出される感覚である。たとえば、周囲の人間がすべて、私が何者であるかを知ってい

 固定され、輪廓を具えた「本当の私」などというものはどこにもない。「本当の私」と呼ぶことができるような者があるとするなら、それは、「偽りの私」を克服して行く運動の目指すところとして遠望されているにすぎないものである。これが上の記事の内容である。

「本当の私」に近づくには、敵意や悪意を想定することをやめなければならない

 幸福な生活を送るためには、「本当の私」に近づくことが必要であり、「本当の私」に近づくためには、仮面をつけて生きているような感じを克服することが必要である。そして、そのためには、敵意につねに囲まれているという予想のもとに行動するのをやめなければならない。反対に、身の回りで起こることを何もかも好意的に受け止めること、すべてが自分に向かって微笑み、自分のことを助けてくれると思い込むことができるなら、あなたは、自分を偽る必要から解放されることになり、幸福を獲得することができるはずである。(「妄想支援」あるいは「プロノイア」と呼ばれる神経症は、このような態度の極端な形態である。)

 たしかに、世の中には、あなたにまったく関心がない人、あるいは、あなたのことを陥れようとしている人がいないわけではない。しかし、あなたを無視したり、あなたに損害を与えたりする人間が現われるのには、よく知られた状況がある。各種の詐欺は、このような状況を利用してあなたを陥れることを目指すものである。だから、このパターンを忘れなければ、悪意、敵意、冷淡、無関心、無理解などのかなりの部分には出会わずに済ませられるはずであり、社会通念上、他人には言わない方がよいと考えられていること、あるいは、他人にはしない方がよいとされていることを避けているかぎり、孤立無援に陥ったり、他人に陥れられたりする危険の大半とは無縁でいることができるに違いない。

すべてを好意的に受け止める決意

 身の回りで起こることのすべてを好意的に受け止めることは、これまで敵意や悪意を想定し、ハリネズミのような態度で他人に臨んできた者にとって、決して容易ではない。これは、一人ひとりの「決意」によって初めて可能となるものである。

 「トラストフォール」と呼ばれるゲームがある。数人でグループを作り、目を閉じ、何の支えもないまま後ろに倒れる者を、この者の背後に立つ他の者たちが支えることにより、他人に対する信頼感を獲得することを目標とするものである。(誰も支えてくれなかったら、転倒して頭を強打することになるからである。)


 自分の身の回りで起こることを何もかも自分に対する支援として好意的に受け止める決意は、社会的なトラストフォールを可能にする。自分のミスで困った状態に陥ったとき、あなたは、誰かに助けを求めるかも知れない。もちろん、相手があなたの求めにどのような反応を示すかはわからない。しかし、助けを求めるとき、「きっと大丈夫だ、何とかなる」と思い込む決意、そして、たとえ表面的にはあまり好ましくない反応が戻ってきても、「これはきっと俺にとってよかれと思って言ってくれているんだ」と、これをあえて善意に解釈する決意は、あなたを幸福にしてくれるに違いない。