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 昨日、次のような記事を見つけた。

ロボット化する社員が企業の倫理的問題を招く

 ここで「ロボット化する社員」と呼ばれているのは、ある職場で設定されているルールに機械的に従うだけで、何のためにそのルールがあるのか、ルールに実際に従った場合、どのような事態が結果として惹き起こされるのか、などの点に考えが及ばない従業員のことである。マニュアルに盲従することにより、ロボットにかぎりなく近づくわけである。これに対し、この記事の筆者は、他からの指示を待ち、これを機械的に実行するだけではなく、何をなすべきなのか、自分で考えることが必要であることを主張している。

 とはいえ、この記事で述べられていることは、特に独創的なことでもなければ、新しいことでもない。むしろ、「何を今さら」という感想を持つ人の方が多いであろう。

 現代の社会では、ルールに対し(2つの意味で)機械的に(、つまり、機械のように正確に、そして、機械のように無反省に)従う人間は、きわめて有害で危険な存在と見なされている。自分の行動へと反省が向かわないため、悪をなしているという自覚のないまま、巨大な悪を産み出してしまうからである。これは、「悪の凡庸」(『イェルサレムのアイヒマン』)の名のもとでハンナ・アーレントが指摘したとおりである。

 ルールへの忠実な態度を要求する軍人や官僚の集団が先にあり、この集団が、ロボット化する従業員を産み出すのか、それとも、ロボット的なメンタリティ(?)の持ち主が集まって細かいルールを持つ組織を作り上げるのか、それはよくわからない。確かなことがあるとするなら、それは、ルールに機械のように従って行動する――だから、言われたこと以外は何もしない――従業員をコントロールするには、ソフトウェアのプログラミングのように、ルールを際限なく細かく記述しなければならないことになるが、このような措置は、従業員をますますロボット化することになる。

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 しかし、一度ロボット化してしまった社員に対し、何をなすべきかを自分で考えるよう求めるなど、可能なのであろうか。私は疑わしく思う。自分自身をロボットに擬することにより何らかの利益に与ってきた人間、具体的には、自分で考えることを放棄し、機械のようにふるまう習慣を身につけることで生活の糧を得てきた者は、自分で考えるなどという面倒くさいことは、徹底的に忌避するはずだからである。

 細かいルールが記されたマニュアルを破棄し、原則を簡潔に記述するだけのものへとあらためれば、従業員は、間違いなく混乱に陥り、組織はアノミーを避けられない。なぜなら、示されているのが抽象的な原則だけであるかぎり、この原則と個別の事例をつなぐ「中間原理」のようなものを自分で見つける作業がどうしても必要になるが、「思考」をもっとも要求するのは、この「中間原理」を見つける作業だからである。

 たとえば、ある飲食店に「客が満足するような料理を出す」という原則があるとする。この原則のもと、ある客がメニューにない料理を注文したとき、客の要求にどのように応えるかは、それぞれの従業員が決めなければならない。これが原則と個別の事例のあいだを媒介する「中間原理」であるが、この中間原理の内容はつねに同じではなく、状況により変化するものである。だから、「メニューにない料理を客から要求されたらどうするか」を問い、マニュアルに慣れた従業員に思考実験を促しても、大抵の場合、戻ってくる答えは「どうでもいい」であろう。

 また、客がメニューにない料理を実際に注文したら、接客する従業員は――「メニューにない料理は作らない」ことがマニュアルに明記されていれば、客の注文をその場で断るであろうが、マニュアルがない場合――この要求をそのまま別の従業員に丸投げし、この従業員はさらに別の従業員へとこれを丸投げし……、客への「応答」(response) は、無際限に繰り延べられることになるように思われる。

 マニュアルに従って機械のようにふるまうとは、「応答可能性=責任」(responsibility) を免除されるということであり、労働条件がどれほど劣悪であっても、自分で考えないかぎり、最終的な「責任」を負わずに済むという点において気楽なのである。ただ、社員の「ロボット化」は、それほど遠くない将来に解消される問題であるような気もする。というのも、人工知能が広い範囲で実用化されれば、「ロボット化した社員」――つまり「人力のロボット」――は、本物のロボットによって置き換えられ、人間に残るのは、責任を負うという仕事だけになるはずだからである。

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