AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:仕事

Starbuck's Study Table for Students

人間には、1度に1つのことしかできない

 私は、職業柄、自宅で仕事することが多い。だから、音楽を聴きながら仕事することが可能である。しかし、実際には、仕事中に音楽を聴くことは滅多にない。というのも、音楽を聴くと、気が散って仕事が阻碍されるからである。

 もちろん、音楽が流れていると気分が落ち着く人はいるであろう。それどころか――私には信じがたいことであるが――私の知り合いには、音楽を聴いていないと仕事に集中することができないなどと公言する者すらいる。だから、音楽と仕事の関係は、人により区々なのであろう。

 私自身は、仕事しているときばかりではなく、食事しているときにも音楽は聴かない。食事中にある程度以上の音量で音楽が流れていると、気が散って食事に集中することができないからである。私は、同時に1つのことしかできない性質のようである。

飲食店で音楽が流れていても気が散る

 だから、音楽が流れている飲食店で知り合いと食事するなど、拷問以外の何ものでもない。当然、3つの作業(=会話する、食べる、音楽を聴く)を同時に遂行するなど、私にはできないから、3つの作業を順番に遂行することになる。

 すなわち、まず、何も食べず、何も飲まずに、知り合いとしらばくのあいだ大声で会話する。(大声で話すことで音楽を掻き消すわけである。)次に、完全に沈黙してひたすら飲み、かつ、食べる数分間を過ごし、最後に、誰とも口をきかず、飲食もせずに音楽に耳を傾ける……、これを短い間隔で何度も繰り返すのが私の「飲食店での友人との会食」である。

視覚、触覚、味覚はピンポイントの刺戟の寄せ集め

 耳というのは、人間の感覚器官のうち、もっとも受動的なものであると言うことができる。そして、この受動性は、「音」というものの性質に由来する。

 たとえば、触覚は、基本的にピンポイントで受け止められるものである。全身の触覚が何らかの仕方で刺戟を受けることがあるとしても、全身の刺戟は、体表の一点を狙う刺戟を単位として、この単位の寄せ集めとして生まれるものである。

 視覚についても、事情は同じである。私が誰かに何かを見せようとしても、見せたいものには輪廓があるから、この輪廓が当の相手の視界と重なり合わないかぎり、見せたいものを見せることは不可能である。視覚や触覚に刺戟を与えるものには、基本的にすべて指向性があるのである。(味覚も同様である。)

音は空間全体を支配する

 もちろん、音に指向性を与えることができないわけではないけれども、音は、放っておけば、すべての方向へと拡散し、空間を支配する。

 音を聞きたくない場合、耳をふさいだり、その空間から逃げ出したりしなければならないが、その際に私たちに与えられているのは、ある空間を支配する音のすべてを受け止めるか、あるいは、すべてを遮断するかという選択肢だけであり、何らかの特別な装置の力を借りないかぎり、特定の音を選んで聞くことはできない。

 展覧会を見物するために美術館に行き、壁にかかった絵画を1つひとつ順番に見ることは可能でも、コンサートに行って、オーケストラを構成する1つひとつの楽器の演奏を個別に聞くことはできないのである。

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音は暴力となりうる

 聴覚というのは、ピンポイントの刺戟ではなく、音が聞こえるかぎりの空間全体を一挙に変容させる。このかぎりにおいて、音は、視覚や触覚を刺戟するものとくらべて暴力的であると言うことができる。

 音楽を聴きながら仕事する(あるいは、仕事しながら音楽を聴く)ことに何の苦労もない人には、ことによると、空間を支配している音を意識の背景へと囲い込み、意識の前景で遂行される知的作業からこれを完全に分離する特別な能力があるのかも知れないが、残念ながら、私にはこのような能力がなく、耳に入ってくる音はすべて、意識全体に影響を与えてしまう。だから、騒音のような完全に無意味な音はともかく、意味のある音が少しでも聞こえてくると、仕事が完全にストップしてしまうのは、決して異常なことではないに違いない(と私は自分のことをひそかに正当化している)。

Business Man

会社員の不思議な生態

 私は、これまでの人生において、普通の民間企業で働いたことがない。つまり――正規であれ、非正規であれ――企業に従業員として雇用され、給与を受け取ったことが一度もない。大雑把に言うなら、会社員であったことがないのである。これは、現在の日本人の中では少数派に属するはずである。

 また、職業柄、私自身が「会社員」であったことがないばかりではなく、普段から付き合っている知り合いにも、普通の企業に勤め、朝9時前から夕方遅くまで毎日オフィスで仕事するようなタイプの会社員は必ずしも多くはない。そして、このような生活環境にながいあいだ身を置いていると、会社員の生態に不可解なものを感じることが少なくない。それは、私の目には、ときには滑稽に、ときには腹立たしく映ることになる。

 もちろん、会社員というのは、社会における圧倒的多数派であるから、自分たちの普通が必ずしも普通ではないかも知れない、などと疑う機会は滅多にないであろう。当然、みずからが強烈な「会社員臭」を放っているとしても、周囲がやはり同じような「会社員臭」を放っているかぎり、これを気にする必要はない。エレベーターに乗り合わせた全員が酒臭ければ、誰も自分の酒臭さに気づかないのと同じである。会社員との関係で言うなら、私は、酔っ払いばかりが乗る酒のにおいが充満したエレベーターに乗り込んだシラフの人間のようなものであり――実際、私は酒が飲めない――会社員臭を強く感じることが少なくない。

 会社に勤めたことがない人間が会社員について抱く違和感は単純なものではないけれども、もっとも不思議に感じられるものをあえて1つ取り出すなら、それは、自分の本来の仕事と思われるもので生活の糧を得ているという点であろう。会社員は、労働の対価として給与を受け取り、この労働を自分の仕事だと思っているらしい。つまり、自分がなすべき仕事で給与を得ているようなのである。「何を当たり前のことを」と思うかも知れないが、私のような仕事の場合は、2つの点においてこれに該当しない。

給与は仕事の対価か雑用の対価か

 私の給与は、基本的には、私が自分の身体を職場に運び、職場で遂行する労働の対価である。少なくとも、職場に行き、ある種の労働に従事しなければ、給与を受け取ることができないのは確かである。

 けれども、私の同業者がすべてそうであるように、物理的な意味における職場で私が行っていることは、私の本来の仕事であるというよりも、本質的には、本来の仕事に不可避的に付随する広い意味での「雑用」にすぎない。(実験やデータ処理の装置を必要とする自然科学系の分野の研究者はこのかぎりではない。)「雑用」であるとは、ある作業の成果の質について、最低の基準だけが決まっており、この基準を満たしていれば、それ以上の質は要求されないか、あるいは、評価が事実上不可能であることを意味する。

本来の仕事が報酬を産むか

 また、私および同業者には、本来の仕事というものがあり、この本来の仕事に関しある程度以上の成果を挙げていることが雇用の条件になっているけれども、給与は、職場での雑用に対して支払われているのであり、本来の仕事の成果に対し報酬が支払われることはない。たしかに、私は、本来の仕事に多くの時間を使っており、この仕事の成果が私の評価を決めているけれども、仕事は、それ自体としては基本的に無報酬で遂行されていることになる。このかぎりにおいて、私のような職業の場合、本来の仕事というのは一種の「道楽」であると言えないこともない。


趣味とは何のためにあるものなのか : アド・ホックな倫理学

「趣味」(hobby) というのは、私を始めとして、趣味を持たない人間には一種の謎である。そこで、趣味というものが成立するための形式的な条件について少し考えてみたい。 「何を趣味にしているのか」という問いに対し「趣味は仕事」などと答えて得意になっている人がいる


 ところが、会社員の生活には、このような分裂が認められない。会社の業務を遂行することが本来の仕事であり、この仕事に対して給与が支払われているのである。だから、会社員と話していると、私が職場で遂行している雑用が私の本来の仕事であるという勘違いによく出会う。会社員には、「本来の仕事の成果がそれ自体としては報酬を産まない」ことを理解するのが難しいようである。

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