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男性に対する嫌がらせを「家事ハラ」と呼ぶのをやめさせても、嫌がらせの事実がなくなるわけではない

 今から3年前に、「家事ハラ」という言葉を頻繁に目にしていた短い時期がある。発端となったのは、旭化成のコマーシャルである。


 このコマーシャルが「ありがちな状況」を再現しているのかどうか、私にはよくわからないが、少なくはない数の既婚男性がこのコマーシャルにリアリティを感じたのであろう。このような事実がなければ、これが放映されることはなかったはずである。

 しかし、このコマーシャルは、なぜか「炎上」した。このコマーシャルを気に入らない視聴者が特に女性に多いということは誰でも予想できるけれども、わざわざ文句をつけるほどのことでもあるまいと私は考えていた。今でもそう考えている。

 このコマーシャルにおいて「問題」とされる論点をまとめた記事はネット上にいくつもある。批判の大半に私は同意しないけれども、少数ながら考慮するに値するものもあったと思う。したがって、ここでは、どのような仕方で実際に批判されたのかは一々記さない。

「妻の家事ハラ」広告はなぜ集中砲火を浴びたのか?世間が納得できない家事・労働シェアの空論と現実

 「家事ハラ」という言葉は、「家事労働ハラスメント」の短縮表現であり、この「家事労働ハラスメント」の意味は、次の本に記されているとおり、「家事労働を貶めて、労働時間などの設計から排除し、家事労働に携わる働き手を忌避し、買いたたく」ことである。だから、主婦による夫への嫌がらせを「家事ハラ」と呼ぶのは不適切であるという意見は、それ自体としては間違いではない。

 ただ、この意見が適切であるとしても、嫌がらせの事実がなくなるわけではない。いわゆる「家事ハラ」について語られることがなくなったとするなら、それは、「言葉狩り」のおかげであり、事実が隠蔽されているにすぎないのである。

家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書)

 なすべきことは、上のコマーシャルで紹介されたような事態が――どのような名で呼ばれようとも――惹き起こされる理由を明らかにすることに尽きることになる。

男性が家事を「手伝う」という表現が怪しからんと言うが……

 とはいえ、「なぜ主婦が家事を手伝う夫に対し嫌がらせするのか」という問いが発せられるなら、この疑問文が最後まで声にならないうちに、一部の主婦やフェミニスト(男性を含む)は、次のように絶叫するに違いない。つまり、「そもそも『手伝う』とは何ごとだ」「家事は女がやるものだと思っているのは時代錯誤の差別主義だ」……。

 たしかに、夫婦が公平に家事を担うというのは理想である。実際、少なくとも40歳代より下の世代では、「家事は女がやるものか」という問いに肯定的に答える男性はもはや少数派であるに違いない。だから、夫に対する主婦の嫌がらせに対して疑問を持つ男性がすべて性差別主義者であるわけではなく、むしろ、大半の男性は、「性差別主義者」などという安直なレッテル貼りを警戒し、慎重な言動を心がけているはずである。

 問題は、このような「信条」の問題とは別のレベル、表面的なコミュニケーションのレベルにある。

家事の「水準」を勝手に決めない

 これは完全な想像になるが、いわゆる「家事ハラ」が起こることには前提がある。すなわち、家事の「水準」と呼ぶべきものに関し夫と妻のあいだに明確な合意がなく、妻が夫と相談せずにこの「水準」をひとりで決めているはずである。

 家事の「水準」とは、たとえば

    • 「家全体はどの程度まできれいに掃除されているべきか」
    • 「洗濯ものはどの程度まできれいに整頓、収納されているべきか」
    • 「食事はどの程度まで整ったものにすべきか」

など、家事の完成度のレベルを意味する。

 もちろん、妻がこうした点をひとりで決めているのは、あるいは、よく考えることなく自分にとって自然なレベルにこれを設定しているのは、大抵の場合、夫が意思決定に関与することを妻が妨害しているからではない。夫がこの問題に対する関心を欠いており、そのせいで、妻が自然と考える水準が、吟味を受けることなくそのままその家庭の家事の水準になってしまう場合は少なくないに違いない。

 したがって、妻が家事の水準を自分で決め、夫のする家事がこの水準に到達しないことに腹を立て、これが結果として嫌がらせを惹き起こしているのなら、つまり、自分の思いどおりに夫が動かないことにいら立っているのなら、家事の水準を見直す――具体的には引き下げる――ことが絶対に必要である。そして、そのためには、この問題について話し合い、当事者が合意することのできるレベルを明確な形で設定することもまた避けられないであろう。

 実際、家事の水準に対し夫が明確な同意しているのならばともかく、そうでないのなら、やはり、夫にとって、家事は、「やらされている」もの以外ではありえず、最大限に好意的に表現しても「手伝い」以上の意味をそこに見出しえないことは明らかである。

 たとえば、洗濯物にアイロンをかけ、きれいに畳んだ上で収納するのには、相当な手間と時間が必要となる。夫婦共働きの家庭にそのような余裕などあるはずはない。水準を引き下げ、たとえば、アイロンがけは最大限省略する。皺ができては絶対に困るもの以外は収納は適当にする、あるいは、洗濯の回数自体を減らす、などの変更をすべきであろう。

 同じように、塵一つ落ちていない床が理想であり、風呂場の掃除は毎日行われるに越したことはないとしても、時間と体力に限界があるのなら、また、夫がこだわらないのなら、生活に支障がない範囲で手を抜くことは好ましいことですらある。(夫だけがピカピカの家にこだわるのなら、自分で掃除させればよいのである。)

 食事についても事情は同じである。家族の健康を損ねることがない範囲において、食卓に並ぶのが冷凍食品であっても、宅配であっても、中食であっても、家族の同意があれば、何ら問題はない。

 私の場合、子どものころの家の中は、決してピカピカではなかった。また、出てくる食事は冷凍食品ばかりであった。(1970年代の冷凍食品は、悪夢のように不味かった。)シャツは、誰が着るものもおしなべてヨレヨレであった。収納が雑だったからである。(「シャツの皺なんて着ているうちにのびる」が母の口癖であった。)それでも、家族全員がこの状態に同意を与えていたから、誰も家事の水準に不満を持つようなことはなかった。当事者が満足しているかぎり、家事の水準など、家庭によってまちまちであって一向にさしつかえない。自分の家庭の家事の水準をよその家庭と揃えなければならないと考えるべきではないのである。

 夫婦で、あるいは、家族で、家事の水準に関する明確な合意を形成することができるなら、いわゆる「家事ハラ」が発生する可能性は、ゼロにかぎりなく近くなるはずである。

家事について夫が低い水準しか求めないのなら、妻もこれに合わせるべき(合わせられないのなら、ひとりでがんばるしかない)

 妻が専業主婦であり、「丁寧な暮らし」を望んでいるのなら、夫もまた「丁寧な暮らし」を望んでいるのかどうか、意向を確認することが絶対に必要である。

 「丁寧な暮らし」を妻が趣味として実践する分には、夫がこれに文句を言う理由はあまり見当たらない。しかし、みずから「丁寧な暮らし」の当事者になり、「丁寧な」家事の分担を望む夫は、圧倒的な少数派のはずだからである。

 だから、妻は、夫の意向を無視して家事に高い水準を求めてはならない。夫の目には、それは、妻の単なる自己満足と映るはずである。(反対に、夫が家事について高い水準を求め、かつ、家事の分担を嫌がるようなら、妻は「ふざけるな」「自分でやれ」と言えばよい。)共同生活である以上、それぞれの家庭の家事の水準は、家族で折り合うことのできるレベルとせざるをえないのである。