AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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 私は大学の教師である。大学の教師の本来の仕事というのは、教室で教えることではないが、生活の糧は、教室で教えることによって得ている。おそらく、「大学」と名のつくところで授業を担当するようになってから現在まで、すでに合計で5000時間近くを教室で過ごしているはずである。

 ところで、大学の教師の中には、成績を評価するために、「レポート」と呼ばれる類の提出物を学生に求める者が少なくないようである。私自身は、学生時代、この「レポート」でずいぶん悩まされた。だから、レポートは、自分で書きたくないし、学生にも提出させたくないと思っている。

 とはいえ、教室に長期間滞留しているせいか、私は、レポートに苦しむ学生をこれまでたくさん見てきた。そこで、レポートを書くには何が必要なのか、あるいは、何さえあればよいのか、簡単にまとめてみたい。

授業の内容に積極的な関心がなければ、レポートを課す授業は避けるのが無難

 少なくとも文系、特に人文科学系の授業で課せられるレポートというのは、その授業で扱われている分野について、ある程度の数の文献を自主的に読み、自分なりの立場や解釈を形作る努力を日常的に続けていることを前提として課せられる。つまり、(学期末だけではなく、普段からの)授業時間外の勉強が必須である。だから、普段は教室に坐っているだけで、あるいは、教室にすら行かないままで、学期末にレポートだけを書くのはまず無理である。

 そして、レポートというものがこのような継続的な努力を前提とするものであるかぎり、授業内容に対する積極的な関心がなければならない。レポートを課す授業とペーパーテストで成績を評価する授業を比較するなら、前者では、授業に対する学生のコミットメント(≒授業の内容を理解したいという意欲)が後者よりもはるかに強く求められていると考えるのが自然である。

 また、当然のことながら、レポートを書くには、最低限の時間と手間が必要になる。必要になる時間と手間は、各人の置かれた状況によってまちまちであろうが、情報の蓄積がゼロの状態から始めて3000文字のレポートを1日で完成させるのが不可能であることは明らかである。

レファレンス類を上手に使うと、無駄な努力を回避することができる

 ただ、教室で提示されたり、読むよう指示されたりするものの他に、文献を自発的に探し出すことは容易ではない。図書館に行き、関連しそうなキーワードで蔵書を検索すると、何百件もヒットすることがある。しかし、当の分野に不案内な状態で、ヒットした文献の山の中から優先的に読むべき少数のものを見つけることは困難であろう。大抵の場合、学生は、「諦めて何も読まない」(←圧倒的多数)か「根性を発揮して全部読む」(←圧倒的少数)かのいずれかを選ぶに違いない。

 しかし、このような不幸を回避する手段がある。それは、レファレンスを上手に使うことである。レファレンスとは、大雑把に言うなら、辞典、事典、資料集のようなものであり、多くの図書館では、出入り口と同じ階にまとめて配架されている。授業で提示された以外の文献を見つけたり、授業では暗黙の前提となっているような事項に関する情報を集めたりするには、専門的な事典で授業に関係ありそうな項目を拾い読みするのが捷径である。

 専門的な事典というのは、国語辞典や百科事典ではなく、その分野に特化した事典類である。社会学事典、法律学事典、あるいは『国史大事典』のような学問分野の全体についての事典もあれば、『ロンドン事典』『パリ歴史事典』『ギリシア・ローマ神話事典』『相撲大事典』『欧米文芸登場人物事典』『現象学事典』などのように、学問分野の一部をテーマとして編集されたものもある。もちろん、時間をかけて項目を拾い読みすべきなのは、主に後者である。(どの事典を手に取ればよいのかということすらわからないのなら、大学図書館には必ずある「レファレンス・カウンター」で司書に教えてもらえばよい。大学図書館で調べものをするのにレファレンス・カウンターを活用しないというのは、非常にもったいないことである。)

図書館に訊け! (ちくま新書)

 これらの事典をいくつも開き、授業に関連する項目を索引から探して拾い読みするうちに、レポートを書くための前提となる情報の全体を大雑把な形で把握することができる。何十項目かを読んだ段階で、レポートの構成はおのずから決まってくるに違いない。いくつもの項目を拾い読みして行くうちに、点としての情報が結びついてネットワークを形成し、項目を読み進んでも、新しい情報にほとんど出会わなくなる段階に到達する。これが、事典の拾い読みの完了のサインである。(特定の項目を丸写ししてはいけない。)

 しかし、このような専門的な事典の項目を拾い読みすることには、さらに大きなメリットがある。それは、(大抵の場合、各項目の末尾に)参考文献が掲げられている点である。ウィキペディアとは異なり、専門的な事典の項目は、その分野の専門家が執筆したものである。したがって、項目の末尾に文献が掲げられているとするなら、それは、その分野の専門家から見て信頼に値する文献であり、優先的に目を通すに値する文献、つまり、提出されたレポートに引用/参考文献として挙げられているとポイントが高くなるような文献である。

 また、事典の項目の末尾に掲げられる文献は、初心者が手に取る可能性を考慮して選択されるのが普通であるから、レポートに利用することができるものが少なくないはずである。(なお、社会科学や自然科学の場合、事典も文献も、データが更新されている可能性があるから、原則として最新の事典を読まなければならないが、人文科学については、内容の根幹にかかわるようなデータの更新は滅多にないから、必ずしも「最新」にこだわる必要はない。)

 事典の項目を読み、レポートの構成を決めたら、事典に掲げられた文献を拾い読みして、典拠を明示しつつ内容を引用したり要約したりしながら、すでに決めたレポートの構成の細部を埋めることにより、最小限の時間と手間でレポートを仕上げることが可能となるはずである。

 ただ、レファレンス類を拾い読みする作業は、レポート提出のデッドラインが視界に入ってから始めるべきものではなく、本来は、授業を履修するかどうか決める前に済ませておくべきものではあるのだが……。

深川図書館

 蔵書のダウンサイジングを計画するとき、誰の目の前にも、1つのアイディア(または誘惑)が必ず姿を現すはずである。それは、「図書館にある本は処分し、必要なときに図書館から借りることにしよう」というアイディア(または誘惑)である。

 たしかに、これは、魅力的なアイディアであるように見える。図書館に所蔵されている本を必要に応じて借りることにより、自宅の貴重なスペースを解放することが可能となるからである。

 実際、どれほど頻繁に手にとる本でも、実際にこれを占有している正味の時間は決して多くはないのが普通である。だから、ある本が必要になったら、図書館にその都度足を運べば十分であり、図書館にあるのと同じ本に自宅の貴重なスペースを占領させておくのはもったいないと考える者がいても不思議ではない。

 しかし、私は、これは無理なアイディアであると考えている。理由は2つある。

 まず、さしあたり現実を無視し、理想だけを確認するなら、図書館が所蔵する本というのは、批判的な精神を具えた市民の育成を目的として税金によって購われたものであり、社会の共有財産である。したがって、ある本が必要になったとき、これにいつでも自由にアクセスすることができるわけではない。私の住む杉並区の場合、区立図書館の蔵書の借り出し可能な期間は2週間である。また、全国の市区町村にある公共図書館の大半において、貸し出し期間は2週間と定められているはずである。しかし、このことは、私が必要とする本を求めて図書館に行ったとき、この本が手もとに届くまでに最大2週間待たなければならないことを意味する。この2週間の待機に耐えられるかどうかは、本の性質や緊急性の程度によってまちまちであろうが、大人しく待つことができなければ、買うしかない。あるいは、別の図書館で捜すしかない。前者の場合、カネとスペースが必要になるし、後者の場合は、体力と手間がかかることになる。私の自宅からもっとも近い図書館は、徒歩3分のところにある。これは、公共図書館の多い東京の中でも、特別に恵まれた状況であるに違いない。しかし、わずか3分であるとしても、図書館に所蔵されている本を見るためには、最低限の身なりを整え、靴を履き、玄関から出て公道を歩かなければならない。椅子に坐ったまま、腕を伸ばせば届くところに本があるというのと、その手間や時間はまったく異なるのである。実際、私は、購読していない雑誌のバックナンバーや専門的な事典類を調べるために図書館に行くことはあるが、それは、平均すると月に1回程度である。本の購入にあたり、近所の図書館に所蔵されているかどうかを考慮することはない。

 さらに、図書館は、私が自宅に本を集める場合とは異なる方針にもとづいて収書している。すなわち、自宅の蔵書は、私だけの必要に応じて集められた本から成り立っているのに対し、図書館の蔵書は、可能的な利用者全員の利益を考慮して選ばれたものである。本来、私の手もとには、私自身の関心を尺度として、私にとって相対的に価値ある本が集められているはずである。しかし、図書館に所蔵されている本を基準として「図書館にはないが必要な本」を手もとに残して行くと、「私にとって重要な本が私の手もとにある」という理想には遠い状態となる。これは、本の単なる寄せ集めであり、私自身の必要や関心と有機的に連関する蔵書ではない。

 図書館を利用することが悪いとは思わない。しかし、個人の蔵書が個人の蔵書として機能するためには、何よりもまず、私自身の関心を尺度として本が集められ、私にとって必要性の高いものが私の手もとにある状態になっていなければならない。図書館の蔵書で代用可能なのは、原則として、関心の周縁部分に位置を占める本――したがって、大抵の場合、1回アクセスすれば十分な本――にとどめるべきであるように思われるのである。


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