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「うちの嫁」の強烈な違和感

 自分の妻のことを第三者に語るのに「うちの嫁」という表現を使う男性を私が初めてテレビで見たのは、もう10年以上前のことであったと思う。そして、この「嫁」という語の用法は、私に強烈な違和感を与えた。

 そもそも、「うちの嫁」という表現が指し示すのは、男性の場合、自分の息子の配偶者でなければならない。したがって、「うちの嫁」という言葉が有意味であるためには、自分に息子がいること、そして、この息子が既婚であることが必要である。なぜ自分の配偶者を「うちの嫁」と呼ぶことが許されるのか、私にはまったく理解することができなかった。今でも理解することができない。

 私は独身であり――そのせいなのかどうかわからないが――私の周囲にも独身者が多い。自分の配偶者のことを話題にすることができる者が周囲に少ないのだから、「うちの嫁」などという言葉に出会う機会は、幸いなことに、さらに少ないことになる。しかし、世間では、「嫁」のこの誤用は、かなり広い範囲に蔓延しているようである。

既婚の女性が自分の夫を指し示すのに「うちの婿」という表現を使ったら

 「嫁」という語のこのような使用が不適切であることは、反対の場合を心に描くことにより、ただちに明らかになる。すなわち、既婚の女性が「うちの婿」という表現を用いて自分の夫を指し示すなら、「婿」という語のこの用法は、明らかな誤りとして受け止められるに違いない。

 男性は自分の妻を「うちの嫁」と呼んでもかまわないが、女性が自分の夫を「うちの婿」と呼ぶのは、誤用と見なされる。「うちの嫁」と「うちの婿」の用法のあいだに認められるこの差異は、生活における男女の役割の非対称性を雄弁に物語る。

正しい意味での使用の減少

 現在では、「お」という接頭辞も「さん」という接尾辞もともなわない単なる「嫁」という言葉が本来の意味において使われる機会は多くはないであろう。この言葉が使われる典型的な場面は、舅や姑が他人に対して息子の配偶者のことを語るときであるけれども、息子の配偶者を「嫁」の一言で片づけることを自然と受け止める舅や姑というのは、現在では少数派に属するはずだからである。

 さらに、少し冷静に考えるなら、「嫁」のこの本来の用法は、独立したものではなく、舅や姑の「嫁観」(?)の反映として受け取られるべきものであることがわかる。たとえば、息子の配偶者を「嫁」と表現するような舅や姑なら、当然、自分の息子の配偶者、つまり言葉の本来の意味における嫁の名を呼ぶとき、「花子さん」などとは言わず、「花子」と呼び捨てにするはずである。息子の配偶者の名を呼び捨てにするというのは、息子の配偶者に対するある態度の反映であり、特定の「家庭観」の反映なのである。だから、舅や姑が減少し、これとともに、「嫁」という語もまた、本来の意味において使われなくなってきたと考えるのが自然である。

「うちの嫁」が前提とする家庭観は「江戸しぐさ」のようなもの

 単独で使われる「嫁」という語がこのような古い家庭観を背負うものであるとするなら、「うちの嫁」という表現を妻に関して用いるとき、男性は、何らかの古い家庭観の枠組みの内部における「嫁」の位置や役割を自分の妻に対し――大抵の場合、不知不識に――期待していることになる。

 とはいえ、「うちの嫁」などという表現によって妻を指し示す男性がこの表現の背後に漠然と認めているのは、歴史的な「古い家庭観」ではない。妻を「うちの嫁」と呼ぶ夫が漠然と心に描く家庭とは、夫と妻の役割分担が明瞭な空間、妻を中心として家庭が整然と組織され、妻の役割や権限が夫によって十分に尊重されている空間である。そして、「うちの嫁」という表現が妻の位置や権限を尊重する文脈において用いられることが多いという事実は、この表現を使う男性が、「嫁」の語の使用が前提とする家庭の姿を「かつては日本のどこにでもあった古きよき家庭」の姿と見なしていることを教える。

 ただ、このような家庭は、皆無であったわけではないとしても、少なくともわが国の歴史では、「かつては日本のどこにでもあった」ものなどではなく、わざわざ探さなければ見つけることなどできない例外的少数である。「うちの嫁」という表現を支える家庭観が支配的になったことは、わが国の歴史では一度もないはずである。この意味において、「うちの嫁」という表現の使用が前提とする家庭観は、歴史に根拠を持たぬもの、あの「江戸しぐさ」に似た一種のフィクションであると言うことができる。

 既婚の女性は、「うちの嫁」として語られるたびに、架空の家庭観をソフトな仕方で押しつけられていることになる。だから、この押しつけに不満を覚えるのなら、そのような女性は、自分の夫のことを「うちの婿」と表現することでこれに抵抗すればよいと私は考えている。「うちの婿」という表現が使われることにより、「うちの嫁」の四文字からなる記号は不透明なものとなり、この記号が担う枠組みのフィクティシャスな性格を否応なく明らかにするはずである。