AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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Sputnik, mi amor

読んでいることを他人には報告できない本がある

 何を読んでいるのか、あるいは、何を読んだのかと他人から問われて、返答に窮することがある。

 SNS上では、自分が読んだ本を喜々として公表している人がいるけれども、私にはとても真似することができない。(1)大抵の場合、複数の本を並行して読んでおり、しかも、(2)実際に手に取る本のうち、最初から最後まで通読する本は必ずしも多くはないからである。

 私は、朝から夕方まで、本を読んでいたら片づけることができない仕事がないかぎり、何らかの仕方でずっと本と格闘しているけれども、「読む」ということが「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」ことを意味するなら、おそらく、私は、本をほとんど何も読んではいないことになる。

 そもそも、「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」という読書態度は、私の雑な歴史認識に間違いがなければ、少なくとも西洋では、18世紀後半以降、小説の受容とともに支配的になったものである。トルストイの『戦争と平和』のような超長篇小説を最初から最後まで読み通すというのは、決して普通のことではないように思われるのである(と言いながら、集中力が続かない自分自身を慰めている)。

 しかし、それ以上に大切な理由は、たとえ通読していても、「読んでいる」「読んだ」などと恥ずかしくてとても公言することができない「下等」な本を読むのに、それなりの時間が費やされているからである。

下等な本の方が知的な刺戟に満ちていたりする

 しかも、厄介なことに、このような下等な本を読んでいるときの方が脳が活発に働くせいか、知的な刺戟を与えられることが多いのである。食事になぞらえるなら、読んでいることを他人に報告することができるようなものは、野菜をたくさん使った健康的な料理であり、これに対し、読んでいることを他人には知られたくないような下等な本は、健康を害することが明らかな酒の肴やジャンクフードに当たる。

 だから、著書や論文のネタが最初にひらめくのは、大抵の場合、下等な本を読んでいるときであり、誰でもタイトルを知っているような古典的な著作を読んでいるときに心に浮かんだ思いつきが知的生産の直接のトリガーになることは滅多にない。もちろん、それは、私が下等だからなのかも知れないが……。

本は、隠れて読まないと面白くないのか

 とはいえ、他人に隠れて読む本の方が、白昼堂々と読む本よりも断然面白く感じられることは事実である。

 締め切り間近の仕事を片づけなければならないとき、これを放擲してこっそり読む本は、途方もなく面白く感じられるのに、同じ本を時間に余裕があるときに読み返しても、どこが面白いのかよくわからないことが少なくない。中学生のころ、中間試験や期末試験の直前、本当は真面目に勉強していなければいけないとき、自宅の机の引き出しに忍ばせておいた司馬遼太郎の歴史小説を隠れて読んでいた。小学校6年生の冬には、中学受験の直前だというのに、机の引き出しに――今となってはどこに面白さを感じたのかわからないが――井伏鱒二や志賀直哉の小説を放り込んでおき、これを読んでいたのを覚えている。

 本は隠れて読むことで初めて――場合によっては実力以上に――面白いものとなるという主張が妥当なものであるなら、「読むことが格好よい本」とか「読むことが望ましい本」というのは、決して面白くないことになる。少なくとも、誰かから「読め」と命令された本など、面白く読めるはずがないのである。

 この意味では、恥ずかしくて他人にタイトルを告げることができないような本ほど面白く、読書にふさわしいものであり、読むことを禁じられた書物がない現代の日本では、このような下等な本を読むときにこそ、読書の本来の可能性が拓かれると言うことができないわけではないように思われる。

 以前、次の記事を投稿した。


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、


 この記事において、私は、読書が本質的に密室で遂行されるべきものであり、「読書会」「ソーシャル・リーディング」などの試みが読書の本質と相容れないものであることを強調した。

 しかし、「読書は密室で遂行されるべきものである」という表現は、正確ではないかも知れない。むしろ、密室においてのみ、読書は本来の意味において遂行されるのである。たしかに、書物に関する情報の共有は、それ自体としては好ましいことである。しかし、これを超えて、他人とともに、他人の視線にさらされながら、あるいは、他人に命令されて本を手に取り、文字を目で追いかけることは、もはや「読書」ではない。書物を媒介として誰かと「つながる」など、書物に対する侮辱に当たるのではないかと私はひそかに考えている。

ドラマは密室で独りで観る

 「テレビドラマを観るのにまで作法が必要なのか」と思うかも知れない。結論から言えば、そのようなものは原則として不要である。映画館で映画を鑑賞するのとは違って、テレビ受像機――ブツとしてのテレビの正式名称――を前にするときには、格好や姿勢は一切関係がない。極端なことを言うなら、逆立ちしていようと、裸だろうと、何ら問題がない。昔はともかく、今では、テレビというものは、独りで密室で観るものになっているからである。したがって、逆説的であるが、テレビドラマを観る作法なるものを設定することが可能であるなら、それは、何よりもまず、テレビドラマが鑑賞される状況の「密室性」を促進し完成させるようなルールでなければならないであろう。たとえば、スマートフォンは手もとに置かない、来客があっても居留守を使う、テレビのある部屋のドアは閉めておく……、これらは、ドラマ鑑賞のための最低限の条件となるに違いない。

 もちろん、ドラマを密室で鑑賞するからと言って、注意を画面に集中しなければならないわけではない。番組の最中に台所に立ってコーヒーを淹れてもかまわないし、ストレッチしながら画面を眺めてもかまわない。大切なことは、「ドラマを観ているあいだは独りになる」という原則であり、この原則が守られてさえいれば、何をすることも許されるということなのである。

気晴らしになるドラマ以外は観ない

 さらに、テレビドラマを観るに当たり、守るべき作法がもう1つある。それは、「何のためにドラマを観るのか」を自覚し、この目的に適合するドラマだけを観ることである。大抵の場合、ドラマを観るのは、勉強のためではないし、仕事のためでもない。ドラマを観るのに費やされる時間は、気晴らしのための時間である。したがって、ドラマを観て気晴らしができなければ、その時間は無駄だったことになる。つまり、「確実に気晴らしすることができる」点がテレビドラマの価値となるのである。

 この場合の「気晴らし」とは、大雑把に言うなら、ストレスの解消であり、最近は、「コーピング」(coping) という総称で呼ばれる一連の作業の中に位置を与えられているものである。そして、生活の中で惹き起こされた否定的な気分から距離をとり、これを相対化することがコーピングであるなら、ドラマを観ているときには、本当に気晴らしができているのか、手をときどき胸に当てて自問することが必要であり、ドラマが気晴らしになっていなければ、そのようなドラマを観るのはただちに中止すべきである。

 「話題になっているからつまらなくても観続ける」などというのは、テレビを観ているときに知り合いを思い出すことになるから、このような理由でドラマを観ることは、精神衛生上マイナスの効果しかない。「つながり」から解放されるためにドラマを観るのだから、「つながり」を想起させるような仕方でドラマを選ぶべきではない。これは当然の話である。

新番組の第1話はすべて観る

 最近はやめてしまったけれども、私は、何年か前までは、連続ドラマの第1話を、日本のものも海外のものも――「韓流」を除き――すべて録画して観ていた。第2話以降も観続けるに値するかどうかをチェックするためである。さまざまなタイプのテレビドラマを観ていると、そのうち、自分にとって気晴らしになるものと気晴らしにならないものの区別が次第に明らかになってくる。たとえば、私の場合、「ホラー」と「SF」と「高校生が主人公のもの」は気晴らしにならない。また、具体的な名前は挙げないけれども、どうしてもテレビで観たくない俳優がいることもわかってきた。もちろん、自分の本当の好みがわかるまでには、それなりに「場数を踏む」ことが必要である。場数を踏まないと、自分の内面の声が聞こえるようにならないからである。


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