AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:性格

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 すべてに先立って言っておくなら、私は、人気がない。なぜ人気がないことの証拠に、私の前には、誰もあまり積極的に近づいてこない。「人気がある」という表現が「ファンが多い」と言い換えることが可能であるなら、私にはファンが少ないということになる。

 なぜ私に人気がないのか、原因は不明である。外見のせいなのか、話題に乏しいからなのか、金持ちではないからなのか、話し方や声にクセがあるからなのか、いろいろと可能性を検討してはみたけれども、結局、その正体はわからない。

 確かなのは、私が他人に直に対面するときでも、メールや手紙のような文字ベースのコミュニケーションでも、論文や著書でも、あるいは、このブログのような意見表明でも、「人気がない」点ではすべて同じということである。外見も声も明らかではない状態ですでに人気がないという事実をこう考慮するなら、私が不人気であるのは、私に由来するすべてのものの背後にある私の性格のようなものが忌避されているからであると考えるのが自然である。

 容姿のおかげで人気者になったり、財産があるという理由で人々が身辺に集まったりすることがないわけではないとしても、たしかに、人気というのは、大抵の場合、個人の性格に対する評価と一体のものである。したがって、人気者になるためには、何よりもまず、周囲から評価されるような性格の持ち主になることが必要であることになる。

 とはいえ、性格というのは、人生経験の中で形成された行動や判断の「癖」であるから、これを矯正することは容易ではない。おそらく、性格の矯正には、性格が形成されてきたのと同じくらいの時間がかかるのであろう。人生のどの時期に、どのような状況のもとで、何がきっかけで好ましくない「癖」が形作られたのか、人生を遡って行くとわかることがある。大抵の場合、性格を形作るのは、かなり若いころ、思春期またはそれ以前の時期の生活環境や出来事であり、ある時期以降は、今度は、このようにして形成された性格の方が人生に偏りを作り出すようになる。

 私の性格に由来する行動や判断は、私の生活の不可欠の一部であり、私の生活の枠組みをなすものであるから、これを冷静な吟味や反省の対象とすることは難しい。それでも、自分自身のあり方に注意を向け、これを見つめることにより、私の性格の正体もまた、少しずつ明らかになり、行動や判断の癖もまた少しずつ矯正されて行くのかも知れない。

関連情報

 このブログに昨日投稿した記事で、このブログに投稿した記事が合計で300になっていたことに気づいた。2016年8月25日に最初の記事を投稿してから、一日も休まず毎日1件ずつ記事の投稿を続けてきた。

 今年の3月末に次の記事を投稿してから、状況に大きな変化はない。PV(ページビュー)は驚くほど少ないまま、記事の数だけが多くなった。


ブログを書き続ける力 : AD HOC MORALIST

これまで7ヶ月以上、毎日記事を投稿してきたが...... 最初に自虐的なことを言うと、今日(2017年3月31日)の時点では、このブログは、ほとんどまったく読まれていない。 もちろん、誰にも読まれていないわけではないし、読んでくれる人たちには心から感謝している。それでも


 ただ、性格が矯正されるなら、事情もまた変化するのかも知れないけれども、現状では、私の努力の範囲を超える問題であり、したがって、さしあたり意味のない問題であると考え、なかば諦めている。

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内面も見た目もともに重要

 あらかじめ言っておくなら、以下の記事において、私は「内面などどちらでもよい」ことを主張するつもりはない。むしろ、内面はつねに大切にされるべきものであるとかたく信じている。

 ただ、内面が大切にされるべきであるとしても、それは、「内面の方が見た目よりも大切である」ことを必ずしも意味しない。

 内面と見た目は、ともに同じくらい重要である。

 いや、内面と見た目をあえて比べるなら、見た目の方にはるかに大切であり、単なる内面には何ものでもないと私は考えている。

人間の内面は、見た目で評価するしかない

 そもそも、「内面」と「見た目」の区別は可能であろうか。

 たしかに、容姿の点で劣る者に対し、慰めないし励ましの意味で「人間の価値は見た目ではなく内面にある、だから、内面を磨くよう努力しましょう」などと言われることが少なくない。

 すなわち、この場合の「見た目」とは容姿であり、容姿に対比される「内面」とは、性格や「教養」(?)や「知性」(?)を意味することになる。

 けれども、厳密に考えるなら、好ましい性格を形作ったり、教養や知性を身につけたりすることが「内面を磨く」ことを意味するとしても、これらは――容姿と比較されているという事実が示すように――純粋な内面には該当しない。

 そもそも、これらの内面が他人から評価されるためには、「見た目」に反映されていることが絶対に必要である。他人の内面に直接に到達するなど不可能であり、内面というのは、つねに見た目を媒介としてのみ他人に知られうるものだからである。

 したがって、ニーチェの指摘を俟つまでもなく、外からはうかがい知ることのできない内面、「見た目」には反映されない好ましい内面などというものはないのであり、性格や教養や知性が高く評価されるのは、それが「見た目」を変えるかぎりにおいてなのである。

容姿の点ですぐれた者を見返すために内面を磨く努力には、まがまがしさが付きまとう

 「人間の価値は見た目ではなく内面にある、だから、内面を磨くよう努力しましょう」という文は、「好ましい性格や教養や知性を努力によって身につけることで、生まれながらに与えられた容姿で得をしている人間を見返してやりましょう」という文に置き換えることが可能である。

 しかし、このような動機にもとづいて「好ましい性格」や「教養」や「知性」を身につけることは、本質的には復讐であり、このかぎりにおいて、道徳的にいかがわしいふるまいである。

 すぐれた性格や教養や知性を最初から具えており、これが「見た目」へと自然に反映されるのなら話は別であろうが、復讐を動機として磨かれた「内面」というものは、いかなる意味においても好ましいものではなく、むしろ、偽善と押しつけがましさに満ちたまがまがしい空気を否応なく醸し出すことになるように思われる。

 少なくとも、私は、このような内面を評価しない。

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