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 しばらく前、次のような出来事があった。

「誰もあんな扱いを受けるべきじゃない」ユナイテッドCEO - BBCニュース

 上の記事は、アメリカのシカゴで、ベトナム系アメリカ人の乗客が意に反する形でユナイテッド航空の満席の旅客機から暴力的に引きずり降ろされた事件である。このようなことは、誰の身にも起こってはならないことであろうが、残念ながら、この出来事は、万人により同じ切実さをともなって受け止められたわけではないように思われる。

立ち入られたくない私だけの空間の価値

 私たちには誰でも、私的な、自分の意に反して誰のことを迎え入れることも望まないスペースがある。このスペースは、入られたくない他人により、それぞれ異なる。

 たとえば、私がある知り合いについて、自宅に入られたくないと思っているのとするなら、この場合は、自宅の内部が私的なスペースになる。

 しかし、もちろん、自宅に入られてもかまわない知り合いもいるであろう。このような他人との関係では、たとえば自室が私的なスペースとなる。

 さらに、自室に入ることを許すような親しい友人がいるとするなら、この友人に対応するものとして、たとえば自室の机の引き出しが私的なスペースとして私の意識に上るに違いない。

私的なスペースのミニマムは身体

 そして、他人との関係で設定される私的なスペースのうち、もっとも小さなもの、つまり、そこに立ち入ることのできる他人がもっとも少ないものは、みずからの身体である。

 見ず知らずの他人に身体を触られるのは、誰にとっても忌避されるべきことであろうし、もっとも親密な男女の関係における女性の態度が「体を許す」と表現されるのもまた、同じ理由による。

「いじめ」や性犯罪について真面目に考えるには、被害者としての実体験が重要

 私たちは誰でも、自分の意に反して他人が私的なスペースに侵入してくることに抵抗する。この点が直観的にわからない人はいないはずである。

 けれども、それとともに、現代の日本に生きる者の大多数、特に男性には、自分の私的なスペースが他人によって実際に暴力的に蹂躙された経験がないに違いない。そして、この事実は、わが国が平和であることの証拠であると言えないことはない。

 だた、私的なスペース、特に身体の自由を奪われたり、身体を傷つけられたりしたことがない者には、このような体験を持つ者の苦しみが分かりにくいこともまた確かであり、日本が平和であり、暴力に出会う可能性が低いせいで、逆説的なことに、たとえば「いじめ」や性犯罪の被害者に対する共感が社会に乏しいように思われる。

 意に反して身体の自由を奪われることは、途方もない恐怖を惹き起こす。この恐怖は、ことによると、生命を奪われることへの恐怖よりも深刻であり、ものの見方を決定的な仕方で変えてしまうことにより、忘れられないものとなるはずである。

 しかし、この恐怖を一度も体験したことがない者には、これを直観的には理解することができないから、他人の私的なスペースへの侵入に対する態度は、鈍いままにとどまらざるをえない。男性がこのタイプの暴力に鈍感である場合が少なくないとするなら、それは、女性の方が高度な共感能力を具えているからではなく、身体の自由を奪われる恐怖を体験した男性の絶対数が少ないからであるにすぎない。


応援し支援する あるいは「いじめ」の自家中毒的な仕組みについて : AD HOC MORALIST

どうしてほしいかハッキリ言わないかぎり、誰も助けてくれない あなたが誰かの援助を期待するのなら、まずあなた自身が最初の一歩を踏み出さなければならない。 「誰か俺のことを助けてくれないかな」と思ってただ周囲を見渡していても、誰も助けてくれないからである。い


 被害者としての実体験の有無は、「いじめ」や性犯罪の理解を左右する。以前に上の記事で書いたように、特に「いじめ」には、被害者自身が声を上げることを妨げる構造がある。しかし、説明の努力を諦めることは、鎖につながれ、脱出することを諦めた奴隷になるようなものである。被害者にしかわからないことは、苦痛であるとしても、被害者が自分で説明し、みずから道を切り拓く以外にないのである。