AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:恐怖

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相手に「試されている」ように感じることがある

 誰かと向かい合って言葉を交わしていると、相手に「試されている」のではないかという疑念に囚われることがある。つまり、「相手は、私の言葉や反応にもとづいて私に『何か』を与えるかどうか決めるつもりなのではないか」と考え、不安になってしまうのである。

 同じように、誰かから何かを依頼されたときにもまた、これが「テスト」なのではないかという疑いに心が支配されてしまうことがある。相手が親しくない他人でも、あるいは、家族でも、事情は同じである。

相手に何かを期待しているから

 もちろん、すべての他人は、私が何を語り、どのようにふるまうかにより、私についての評価を決めるはずである。したがって、相手が私の言動にもとづいて私を評価することは当然である。

 それでも、私が「試されている」と感じるとするなら、それは、相手から何かを受け取ることができるのではないかと期待している場合である。しかも――私が期待するのは、地位、好意、金銭などであるかも知れないが――何らかの事情により、それを私が求めていることを相手にエクスプリシットな形で伝えることができない場合である。(私が求めているものの内容によっては、私が相手にそれをエクスプリシットに求めると、対人関係が壊れてしまうかも知れない。)

目的と手段の関係が明瞭ではないから

 ただ、相手が私に与える可能性があるものが何であるか、あらかじめ明らかにされているとしても、私が相手の言葉やふるまいを「テスト」と受け止める余地は残る。というのも、私が期待するものについて当事者のあいだに明確な合意があるとしても、求めているものを手に入れるための手段が明らかにならないかぎり、何をすればよいのかわからないからである。

 何をすればよいかわからなければ、相手の言動の一つひとつが「テスト」に見えてしまうのは、仕方のないことであろう。

相手に恐怖を抱いているから

 もちろん、相手を全面的に信頼しているのであるなら、私は、「試されている」のではないかという疑念とは無縁のはずである。というのも、私を試すのなら、いつ、どのような条件のもとで、何を試すのか、どの程度まで何を実現することができれば合格したと見なされるのか、「テスト」の具体的な輪廓の提示を相手に期待することが許されるからである。

 相手に対する基本的な信頼があるかぎり、「試されている」という疑念を抱くことはないとするなら、「試されている」のではないかという疑念は、相手に対する不信ないし恐怖に根を持つものであることになる。

 相手は、私に対していつでも邪悪なことをなしうる立場にあり、しかも、私の言葉やふるまいによっては、実際に私に損害を与える――または、私に必要なものを与えない――可能性がつねにある……、私が相手をこのような存在と見なし、さらに、このような相手から何かを得ようとするとき、私は「試されている」のではないかと疑い始めるのである。これは、一種の自家中毒であると言うことができる。

あなたが本当に望むものは、信頼していない相手からは得られない

 だから、「試されている」「テストされている」という感じに囚われたら、

    •  あなたが相手に期待しているのが、あなたが本当に望むものであるのか、
    •  あなたが本当に望むものである場合、それを他の手段によって手に入れることはできないのか、

慎重に吟味することが必要である。

 ただ、あなたが信頼していない相手、心の底では恐怖すら感じる相手があなたが本当に望むものをあなたに差し出す可能性はないことは確かである。なぜなら、あなたが何を手に入れるとしても、それは、信頼していない他人から「かすめとられたもの」にすぎないからであり、「かすめとられたもの」には、それ自体としての価値はないからである。

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 しばらく前、次のような出来事があった。

「誰もあんな扱いを受けるべきじゃない」ユナイテッドCEO - BBCニュース

 上の記事は、アメリカのシカゴで、ベトナム系アメリカ人の乗客が意に反する形でユナイテッド航空の満席の旅客機から暴力的に引きずり降ろされた事件である。このようなことは、誰の身にも起こってはならないことであろうが、残念ながら、この出来事は、万人により同じ切実さをともなって受け止められたわけではないように思われる。

立ち入られたくない私だけの空間の価値

 私たちには誰でも、私的な、自分の意に反して誰のことを迎え入れることも望まないスペースがある。このスペースは、入られたくない他人により、それぞれ異なる。

 たとえば、私がある知り合いについて、自宅に入られたくないと思っているのとするなら、この場合は、自宅の内部が私的なスペースになる。

 しかし、もちろん、自宅に入られてもかまわない知り合いもいるであろう。このような他人との関係では、たとえば自室が私的なスペースとなる。

 さらに、自室に入ることを許すような親しい友人がいるとするなら、この友人に対応するものとして、たとえば自室の机の引き出しが私的なスペースとして私の意識に上るに違いない。

私的なスペースのミニマムは身体

 そして、他人との関係で設定される私的なスペースのうち、もっとも小さなもの、つまり、そこに立ち入ることのできる他人がもっとも少ないものは、みずからの身体である。

 見ず知らずの他人に身体を触られるのは、誰にとっても忌避されるべきことであろうし、もっとも親密な男女の関係における女性の態度が「体を許す」と表現されるのもまた、同じ理由による。

「いじめ」や性犯罪について真面目に考えるには、被害者としての実体験が重要

 私たちは誰でも、自分の意に反して他人が私的なスペースに侵入してくることに抵抗する。この点が直観的にわからない人はいないはずである。

 けれども、それとともに、現代の日本に生きる者の大多数、特に男性には、自分の私的なスペースが他人によって実際に暴力的に蹂躙された経験がないに違いない。そして、この事実は、わが国が平和であることの証拠であると言えないことはない。

 だた、私的なスペース、特に身体の自由を奪われたり、身体を傷つけられたりしたことがない者には、このような体験を持つ者の苦しみが分かりにくいこともまた確かであり、日本が平和であり、暴力に出会う可能性が低いせいで、逆説的なことに、たとえば「いじめ」や性犯罪の被害者に対する共感が社会に乏しいように思われる。

 意に反して身体の自由を奪われることは、途方もない恐怖を惹き起こす。この恐怖は、ことによると、生命を奪われることへの恐怖よりも深刻であり、ものの見方を決定的な仕方で変えてしまうことにより、忘れられないものとなるはずである。

 しかし、この恐怖を一度も体験したことがない者には、これを直観的には理解することができないから、他人の私的なスペースへの侵入に対する態度は、鈍いままにとどまらざるをえない。男性がこのタイプの暴力に鈍感である場合が少なくないとするなら、それは、女性の方が高度な共感能力を具えているからではなく、身体の自由を奪われる恐怖を体験した男性の絶対数が少ないからであるにすぎない。


応援し支援する あるいは「いじめ」の自家中毒的な仕組みについて : AD HOC MORALIST

どうしてほしいかハッキリ言わないかぎり、誰も助けてくれない あなたが誰かの援助を期待するのなら、まずあなた自身が最初の一歩を踏み出さなければならない。 「誰か俺のことを助けてくれないかな」と思ってただ周囲を見渡していても、誰も助けてくれないからである。い


 被害者としての実体験の有無は、「いじめ」や性犯罪の理解を左右する。以前に上の記事で書いたように、特に「いじめ」には、被害者自身が声を上げることを妨げる構造がある。しかし、説明の努力を諦めることは、鎖につながれ、脱出することを諦めた奴隷になるようなものである。被害者にしかわからないことは、苦痛であるとしても、被害者が自分で説明し、みずから道を切り拓く以外にないのである。

Concerned

 私たちは誰でも、他人とのコミュニケーションを避けることができない。また、職業や社会的な立場によって割合に多少の違いはあるであろうが、普段の生活の中で出会われる他人のかなりの部分について、私たちは、「あらかじめ完全に知っている」とは自信をもって言うことができないはずである。初対面であるとか、親しいわけではないとか、このような相手と向き合うときには、相手にどのような態度を示すのが適切であるのか、決められないことが少なくない。

 もちろん、たとえば、ツイッター上で独善的な態度で誰かに罵声を浴びせることが目的であるなら、相手の適切な遇し方に関し悩むことはないであろう。ネット上の私刑にコミットする者は、対人関係ではなく娯楽を求めているにすぎないからであり、これは、動物虐待と基本的には同じことだからである。あるいは、セールスを目的とする電話や戸別訪問を試みる場合にも、応対に出た者によって言葉遣いを変えるようなことはないはずである。自分が向き合っている相手が誰であるかに関係なく、同じセリフを機械のように口から繰り返し吐き出し続けることがセールスにおいて重要である――本当は違うと思うが――と一般に考えられているらしいからである。

 しかし、このような特殊な状況を除けば、対人関係において、定型的で機械的な「処理」が通用することは多くはない。たしかに、普段から顔を合わせている他人が相手であるなら、そして、これまで繰り返し身を置いてきたような状況のもとにおいてであるなら、相手との接し方に悩むことはないであろう。相手とのコミュニケーションの文脈があらかじめ設定されており、相手との向き合い方は、この文脈が自然な仕方で決めてくれるからである。

 しかし、初対面であっても、あるいは、昔からの知り合いであっても、具体的な状況のもとで、相手への態度を個別に決めなければならないことがある。どのような敬意を相手に示せばよいのか、自分が相手に示しているつもりの敬意が相手に正しく伝わっているのかどうか、頭を悩ませることがあるはずである。

 このような相手は、あなたにとって、何らかの意味において大切な存在であり、大切な存在であるからこそ、あなたは、相手に対し何らかの敬意を抱いていると考えることができる。しかし、上司であれ、家族であれ、恋人であれ、あなたにとって相手が大切であれば、それだけ、あなたは慎重な態度をとらざるをえない。場合によっては、取り返しのつかないことになる可能性があるとあなたが考えているからである。

 あなたは、敬意をめぐる緊張と不安をあなたに強いるような相手、雑な言い方をすれば「気を遣う」相手が大切な存在であると信じている。あなたは、相手が気を遣うに値する存在であると判断しているのである。しかし、このような他人があなたにとって本当に大切な存在であるのかどうか、相手と距離を置き、冷静に考えてみることは、決して無駄ではないように思われる。

 一回かぎりの人間関係であるなら、どのような仕方で敬意を示せばよいのかわからず、悩むことがあってもかまわないであろう。しかし、両親や配偶者や上司のような、普段の生活において、長時間、長期間にわたって空間を共有する他人の場合、相手への敬意の表し方についてたえず悩み続けることがあるとするなら、それは、多くの人にとって苦痛であるに違いない。このような息苦しさを覚えるとしても、もちろん、その原因は、大抵の場合、あなたにあるわけではないし、相手にあるわけでもない。

 この場合、あなたが相手に対して抱いているのは、敬意ではなく、むしろ、恐怖であるかも知れない。他人に対して抱く感情のうち、敬意と恐怖は、「相手があなたに対して何をするのか完全には予想できない」という認識を基礎とする点において一致しており、この意味で、兄弟の関係にある感情である。また、特に恐怖については、あなたが相手に何かを期待しているときに発生する感情であると言うことができる。だから、あなたが敬意をめぐる緊張と不安を強いられるとしても――相手があなたを操ろうとしているサイコパスでないかぎり――原因は、相手ではなくあなたにあると考えるのが自然である。

 だから、あなたの身の回りに、非常に気を遣わなければならないとあなたが考える他人がいるなら、あなたがその他人に対して抱いている感情が敬意であるのか、それとも恐怖であるのか、冷静に考えてみることは無駄ではない。相手に何かを期待して気を遣っているのなら、あなたが相手に対して抱いている感情は、敬意ではなく恐怖であり、その場合には、あなたが相手に期待しているものの正体を確認し、その正体の価値を批判的に吟味すべきである。また、それが、相手に期待するのが適切な何ものかであるのかどうか、みずからに問うことも必要であろう。

 世の中には、あなたが何一つ期待してはないが、それでも、自然な仕方で敬意を抱くことができるような他人というものがいるはずである。また、そのような相手の前では、敬意が適切であるかどうか、などという悩みがあなたの心に生まれることはないに違いない。私たちにとって理想的な対人関係にふさわしいのは、あなたに気を遣わせ、敬意をめぐる緊張を不安をあなたに強いるような相手ではなく、むしろ、あなたが自然な仕方でふるまうことを許すような相手であるに違いない。

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