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話したことは書けない

 論文であれ、ブログであれ、ツイートであれ、私は、誰かに口頭で話したことは書かない。というよりも、書けない。つまり、話した内容を文字に直すということができないのである。

 話した内容を録音しておき、これを文字起こしすればよいのではないかと考え、実行したことがある。しかし、会話と文章では話題の排列もリズムもまったく異なるため、話したことをそのまま文字にしても、読みにくいばかりであることがわかった。

 以前、あるところに講演に呼んでもらい、後日、講演を印刷物にするため、主催者側で文字起こししたものを送ってもらったのだが、読んでみたところ、話の流れがよくわからないばかりではなく、文法的にも支離滅裂であることがわかり、結局、最初からすべて書き直さざるをえなかった。

 話してしまった内容を文章に書くことができないというのが万人に共通の法則であるのかどうか、私は知らないが、少なくとも、私の場合、例外を許さぬ法則のようである。無駄が多いと言えないことはない。

メッセージを伝えたい相手がいるから書いたり話したりできる

 私には、誰かに話したことを書くのも、話した内容をそのまま文字にすることもできない。しかし、その理由は、比較的明瞭であるように思われる。

 何かを書くとき、私には何らかの伝えたいメッセージがあり、また、このメッセージを届けたい相手がいる。

 もちろん、メッセージを届けたい相手は、具体的な名前を持った誰かである場合もあれば、特定の好みや考え方を共有する抽象的な集団にすぎない場合もある。それどころか、未来に姿を現すはずの、したがって、今のところはまだ実在しない何者か――自分自身を含む――に対するメッセージとして何かを書くことすら可能である。

 口頭での発話についても、事情は同じである。伝えたいメッセージとメッセージを伝えたい相手がいるからこそ、語ることが成り立つのである。

メッセージを届けると、気が済んでしまう

 しかし、伝えたいメッセージとメッセージを伝えたい相手がいることが書くことの前提であるなら、私が何かを伝えたい相手にメッセージが伝わったとき、私が書いた文章は、その使命を終える。

 同じように、私の発話の役割は、私のメッセージが標的とする相手に届くことにより完結する。

 そして、一度誰かに話してしまったことを文章に直すことができない最大の理由はここにある。すなわち、口頭での発話の場合、メッセージを伝えたい相手は、今、ここに、つまり私の前にいる。だから、この相手に言いたいことが伝わることにより、メッセージはその役割を終え、私は「気が済んでしまう」のである。あとに残された言葉があるとしても、それは、私と誰かが相対しているという個別的、具体的な状況のもとでのみ生命を与えられるものであり、それ自体としては、言いたいことの乗り物であり抜け殻にすぎないのである。

 このかぎりにおいて、私は、約40年前から大変に評判が悪くなった「現前の形而上学」や「音声中心主義」にも、実践的な平面では、それなりの正当性がないわけではないに違いないと(ひそかに)考えている。

文章としてすべてを残すには、誰とも口をきかないのがよい

 だから、頭の中にあることをすべて文章にするためには、誰とも口をきかず、すべてを文章で表現すればよいことになる。

 文章というのは、それなりに込み入った内容のメッセージを誰かに届けるために書かれるものであるから、不特定多数の読者にアクセス可能な文章でも、「読んでほしい相手」を想定しなければ、書くことができない。

 具体的な知り合いでもよい、あるいは、未知の、抽象的な理想の読み手でもよい、誰とも口をきかず、誰にも話さず、読み手となるはずの相手を心に描きながら、いわばラブレターのように文字を綴るとき初めて、文章は、生命を獲得するものであるように思われる。