The worn ballet shoes

他人の模倣には重要な意味がある

 私たちは一人ひとり、かけがえのない存在である。この世に生れてきたからには、誰もが、自分にしか成し遂げることのできない何らかの課題を背負っていると考えることは自然であり、楽しくもある。

 しかし、私がこの世でなすべきことが何であるのか、さしあたり、私にはわからない。というよりも、自分の進むべき道が生まれながらに分かっている人間などいるはずがない。自分が何をなすべきであるのか、自分がどちらへ歩みを進めればよいのか、生まれたときから分かっていた、などと豪語する人間がいるとしたら、そのような人間は、他人に対して嘘をついているか、自分の嘘を自分で信じ込んでしまったかのいずれかである。

 そもそも、自分自身を発見するためには、これを何らかの仕方で表現することができなければならないが、生まれた瞬間に自分自身の内面を表現する語彙――言葉とは限らない――を持っている人間などいない。つまり、自分の課題や使命は、アモルフな状態で各人のうちに眠っているのであり、このアモルフな内面を表現する語彙は、外から調達しなければならない。つまり、他人の模倣が絶対に必要である。何らかの事柄に興味を持ち、これを習得することによって、みずからの内面に表現を与える語彙を獲得し、そして、これを表現することができるようになって行くのである。

 たとえば舞踊の場合、練習を積み重ねることにより、身体の動かし方の文法を身につけ、自分の身体をどのように動かすべきか、一々考えなくても身体が自然に動くようになり、その結果、見る者に次の瞬間の姿を予想させるような滑らかな曲線的な動きが可能となる。絵画でも、音楽でも、詩でも、書道でも、事情は同じである。すなわち、模範となるものを繰り返し模倣することにより、自分を表現するための言葉や技術が身につくのであり、このプロセスを徹底させ、場合によっては、自分が模範とするものになりきることができるようにならないかぎり、自分自身を表現することなど不可能である。

模倣しているという自覚がなくなったとき、本当にオリジナルなものが生まれる

 しかし、表現のための語彙を身につけ、模範とすべきものを巧みに模倣することができるようになるとともに、私たちは、模倣しているという自覚を少しずつ失い、いつのまにか自分の内面を自由に表現することができるようになる。模範とすべきであったものから無理に身を解き放ち、オリジナルなものを追求するというよりも、模範とするものが完全に消化され、これとは異なる新しいものが産み出されるのである。自分のなすべきこと、自分の課題、自分のかけがえのなさ、自分の使命……、しかし、逆説的なことに、自分のオリジナリティを表現する手段は、つねに他人から手に入れなければならないことになる。

 しかし、自分のオリジナリティが模範の完全な消化によってしか表現されえぬものであるからこそ、このオリジナリティは、理解可能なものとなり、共有可能なものとなる。言い換えるなら、それは、歴史的なものとなり、社会的なものとなるのである。私たち一人ひとりの本当の意味でのかけがえのなさというのは、「何とも似ていない」ことを意味するのではない。むしろ、それは、「模範となったものを想起させるが、決してその模範と同じではない」点、いや、正確に言うなら、「模範となったものの新しい解釈」あるいは「模範となったものの評価を不可逆的な仕方で変容させるものである」点に見出されねばならない。

 もちろん、世の中には、「何とも似ていない」がゆえにオリジナルであると評価されるものがないわけではない。しかし、そのようなものが産み出されるのは、大抵の場合、1回かぎりであり、偶然の産物であり、したがって、これを産み出した人間に認められるはずの「かけがえのなさ」とは何の関係もないと考えるべきである。そして、自分にしかなしとげることのできない何ものかとは無縁の、しかし、ある意味ではオリジナルなものを産み出した者は、自分の内面を正しく表現する語彙を手に入れる機会を奪われているのであり、このかぎりにおいて、不幸な存在であると言うことができる。