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 以前、次のような記事を投稿した。


死者との対話 : AD HOC MORALIST

歴史は死者のものである 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の文明がメソポタミアに起源を持つという世界史の常識に従うなら、人類の歴史には少なくとも8


 私たちが生きている「この世」は、歴史(または伝統)の積み重ねの上に成り立っている。現代というのは、歴史の厚みの最上部を覆う薄い膜のようなものである。現在の社会は、死者との対話の中で形作られてきたものであり、このかぎりにおいて、この世に暮らす私たちは、膨大な数の死者に支えられたわずかな数の生者にすぎないことになる。

 とはいえ、歴史を形作る人間のほとんどすべてが死者であるとしても、また、私たちの生活が死者とのたえざる対話であるとしても、このような事実は、この世が死者たちののものであることを必ずしも意味するものではない。むしろ、この世は、現に生きている者のためにあること、過去のために現在があるのではなく、過去とは、あくまでも現在に奉仕するかぎりにおいて過去として成立するものである。この点を、私たちは決して忘れてはならないと思う。

 私の誕生日は、私の親族の一人の命日と同じである。そのため、私の誕生日を祝う日とすべきか、それとも、亡くなった親族に思いを寄せる日とすべきであるのか、決めかねていたことがある。しかし、結局、私は――というよりも、私の家族は――その日を親族の命日ではなく、私の誕生日とし、亡くなった親族のための墓参は、前日に済ませることにした。生者の都合を優先し、死者の記念日を移動させることは、勇気を必要とする決断であったと思う。けれども、この世に身を置き、食事したり、働いたり、眠ったりするのは、死者ではなく生者である。死者を想い出すよすがとなるものは必要であるとしても、死者は、そして、歴史は、あくまでもこの世の脇役にすぎないと考えるべきであるように思われるのである。

 とはいえ、残念なことに、現代の日本では現在と未来に主役の位置を与え、歴史や過去を脇役として参照するごく自然な歴史的パースペクティヴを失いつつあるように見える。この点を雄弁に物語るのは、意味不明なモニュメントの氾濫である。


モニュメントの氾濫 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

街を歩いていると、銅や石を主な素材とするモニュメントを見かけることが少なくない。以前は、このようなモニュメントを東京で見かけるとすれば、それは、ごく限られた地域の、しかも、いかにもモニュメントがありそうな場所だけであったように思う。上野公園の西郷隆盛像


 そもそも、「記念碑」とは、過去を思い出すためのよすがとすべきものである。したがって、ごく少数の重要な人物の像が歴史的に見て適切な地点に設置されるのがふさわしい。そして、この観点から眺めるなら、漫画やアニメの登場人物の姿をモニュメントとしてかたどることが、歴史的なパースペクティヴの狂いを反映するものであることがわかる。漫画やアニメの登場人物は、あくまでも、現在に属するものであり、現在に属するものであるかぎり、歴史を形作るものとなるかどうかを決めるのは、未来の世代のはずだからである。

 過去と現在のあいだには、境界はない。両者は、一体となって共存しているものである。けれども、両者のあいだには、区別が認められねばならない。つまり、それが生者のためのものであるのか、それとも、死者のためのものであるのか、丁寧に吟味し、死者へのまなざし――そこには、モニュメントの氾濫に認められるような「自己歴史化」と呼ぶべき事態が含まれる――が生者の生存を阻碍し歪めるのなら、これは、断固として排除されねばならないと私は考えている。