AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:病気

病的であり歪んでいるのか

 相模原市の「津久井やまゆり園」で起こった殺傷事件から1年が経過した。この1年のあいだ、事件について何回か続報が視界に入ってきたけれども、事件の見方をそれ自体として根本から変えるような情報が新たに報じられることはなかったように思う。

 ところで、しばらく前、この事件を特集したNHKの番組を見た。

シリーズ障害者殺傷事件の真実 被告の手紙・遺族の声 - NHK クローズアップ現代+

シリーズ障害者殺傷事件の真実 "ヘイトクライム"新たな衝撃 - NHK クローズアップ現代+

 上の番組を見て、気になったことがある。それは、加害者が抱いていた「障碍者に対する差別」の感情について、「病的」であり「歪んでいる」という意味の表現が繰り返し用いられていた点である。

 私は、「障碍者は差別されるべきである」という主張には決して同意しないけれども、それとともに、障碍者に対する差別がそれ自体として「病んだ」感情であるとは考えない。障碍者に対し何らかの偏見を抱くことが「病気」であると決めつけることは、当の「偏見」の解消をかえって妨げると堅く信じるからである。

自分と違う意見の持ち主に「病気」のレッテルを貼ると、安心して思考停止に陥ってしまう

 私たちは、社会において支配的である(ということになっている)多数意見を他人と共有しているとき、それが真理であるかのような錯覚に陥りがちである。そして、このようなとき、私たちは、自分の考えていることが「正しい」という点に関し疑念を抱くことはない。


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 しかし、言論と表現の自由が認められる現在の日本では、自分と意見を異にする者たちの声に真剣に耳を傾けることは、万人に課せられた義務であり、しかも、この義務は重く、決して気楽に担うことのできるものではない。これは、以前に投稿した次の記事に書いたとおりである。

「言論の自由」に耐える力 : AD HOC MORALIST

私たちは言論の自由を与えられているが、この自由は、自分と異なる意見に対する寛容という義務と一体をなすものであり、post-truthやpost-factualと呼ばれる時代の状況は、私たちに試練として課されたものであると言うことができる。


 「障碍者は差別されるべきではない」という主張は、広い範囲で受け容れられているものであるかもしれない。それでも、障碍者を差別しない自分たちを「正常」で「健康」と見なし、この点に関して意見を異にする者たちに「病気」「異常」というレッテルを貼ったり、何の吟味もせず声高に非難することは、決して許されないはずである。


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 たしかに、自分と意見を異にする者たちに「異常」「病気」というレッテルを貼ることで、私たちは、ある種の安心を手に入れる。相手が「異常」であり「病気」であるなら、相手の発言は理性にもとづかぬものとなり、言論と表現の自由と一体をなすはずの義務、つまり少数意見を尊重する義務を免除され、自分の意見を多少修正して「落としどころ」を見つける辛い作業を省略することが許されると思うからである。

差別反対の旗を高く掲げるのなら、反対意見に耳を傾ける義務から逃れてはいけない

 障碍者を差別すべきであることを強く主張する者に対し最初になすべきことは、対等な立場に身を置き、主張の根拠を明らかにするよう求めることであり、私たちの方が病人である可能性を忘れることなく、合意しうる点と合意しえない点を見きわめることでなければならない。

 しかし、レッテルを貼ることは、

    • 第一に、多数意見の妥当性を吟味する貴重な機会が失われるとともに、
    • 第二に、少数意見の持ち主を合理的な仕方で説得する可能性を閉ざし、さらに、
    • 第三に、少数意見の吟味という義務を放擲し、少数意見を圧しつぶす安易な全体主義と画一的な世論を肯定することを意味する。

 「障碍者に対する差別」という「病気」は、単なる「治療」の対象となってしまう。少数意見を持つことは病気であり、少数意見の持ち主とは病人であり、治療されねばならない、これは、とても恐ろしい社会であるに違いない。

Red Cross Museum Geneva

 私は医者が好きではない。必要に迫られなければ、病院には行かないし、医者と話したくもない。幸い、今のところは、持病と言うほどのものはないから、日常的に服用している薬もなく、定期的に医者の診察を受ける必要もない。これはありがたいことである。

 私の場合、歯医者に定期的に通うのを除くと、医者に行く機会は多くはない。だから、差し迫った必要があるわけでもないのに医者にかかる人の気持ちがよくわからないのだが、自分の身体の不調の解消を期待して病院に行くのであろう。たしかに、病院に行って病気を治す、あるいは、治してもらうというのは、ごく当然のことのように見える。

 実際、単なる風邪から十分な治療薬のない難病まで、人間は無数の病気に罹る可能性があるけれども、純粋に「数」という観点から眺めるなら、病院は、これらの病気の大半を治すことが可能である。人間の寿命が大幅に延びたのは、医療の進歩により多くの病気が克服可能になったからである。

 しかし、医療の進歩が人間の長寿を実現したという事実は、私たちに2つのことを教える。第一に、人間の寿命が今ほど長くなかった時代には、医療によって克服することのできる病気や怪我は必ずしも多くはなかったこと、第二に、人間と医療との関係もまた、現在とは異なるものであったことである。

 少なくとも20世紀半ばまでの何千年ものあいだ、医者というのは、病気に対して無力な存在であり、医療の対象となる病気は限られていた。だから、病気に罹り、日常生活にいちじるしく支障をきたすような異状が身体に認められるようになるとき、それはほぼそのまま死を意味したはずである。

 もちろん、中には、病気を治すために考えうるかぎりの可能性を試す者がいないわけではなかったであろう。しかし、このような者が頼るのは、普通の意味における医療ではなく、どちらかと言えば、呪術に属するものであったに違いない。

 「病気になったら病院で治せばよい」というのは、現在の常識であるかも知れない。しかし、これが常識となったのは、最近60年か70年のことである。もちろん、病院に行っても、すべての病気を治すことができるわけではなく、人間にとって死は不可避である。人間はどうせ死ぬのだから治療しても無駄であると言うつもりはないけれども、それでも、医療には明瞭な限界がある。どう生きるか、あるいは、同じことであるが、どう死ぬかを、つねに考えながら医療というものに向き合うことは、治癒する可能性のある病気が増えただけに、そして、死が私たちの身近からその分遠ざかっただけに、現代の私たちにとって、愚者にならないための不可欠の心がけであるように思われるのである。


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