AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:精神衛生

loneliness 1

ひどい目にあった経験は誰にでもある

 これまでの人生を振り返るとき、誰の過去にも、特定可能な他人に関し、「ひどい目にあった」「あいつにひどい目にあわされた」と感じた瞬間があるに違いない。私なら、このような瞬間を1ダースくらいすぐに挙げることができる。(もし誰かからひどい目にあわされた記憶がない人がいるなら、それは、特別に幸せな人である。)

 もちろん、誰かにひどい目にあわされたことをいつまでも覚えていることは、「執念深さ」の現われであると普通には考えられている。だから、「このような経験は決して忘れない」などと他人に告げると、好ましくない印象を与えることになるかも知れない。

 しかし、誰かをひどい目に合わせた方がこれをすぐに忘れてしまうことは、学校でも社会でも同じであるが、ひどい目にあわされた方は、時間が経過してもこれを忘れることはない。さらに、ひどい目にあったという記憶を抱え、そして、返報しないままこれを放置し、しかも、記憶を保持したまま、何ら苦痛を覚えないのは、よほど強力な精神の持ち主だけである。普通は、ひどい目に会った痕跡が見える形では何も遺されてはいないとしても、他人から被った厄災に返報するか、つらい記憶にさいなまれるかのいずれかの道しかないはずである。

返報として意味があるのは、損害に直接に対応するものだけ

 とはいえ、大抵の場合、自分が損害を被っても、すぐには返報することができない。返報したくてもできなかったり、どのように返報すればよいかわからなかったりするからである。そこで、大抵の場合、ひどい目にあった側は、『金色夜叉』の貫一の行動が典型的に示すように、時間を措いてから、自分が被った損害とは直接には対応しない形で何かを成し遂げ、これをもって「返報」が遂行されたと勝手に決めるわけである。「金持ちになって見返してやる」「出世して見返してやる」などというのは、このようなタイプの復讐である。

 しかし、残念ながら、あなたが金持ちになっても、出世しても、これは返報にならない。なぜなら、あなたが被ったのと同等の損害を相手が被るわけではないからである。返報において決定的に重要なことは、あなたが被ったのと同じような損害を相手に与えることであり、相手に同じような損害を与えたことをあなたが自分で確認しないかぎり、返報は成立しない。誰かに殴られたら、殴り返すか、あるいは、何らかの仕方で物理的なダメージを与えなければ、ひどい目にあったつらい記憶が消えることはないのである。

返報ではなく脱出が最善の解決策

 たとえば学校で「いじめ」にあった記憶が精神衛生に深刻な影響を与え、場合によっては、この影響が一生続くと考えられているのは、相手に同等の損害を与えること、つまり、返報することができなかったからであると言えないことはない。特に、学校における「いじめ」は、時間が経過してからこれに返報することが難しいものであり、この意味でも、「いじめ」の記憶は、大人の社会で経験するハラスメントとくらべ、トラウマになりやすいのかも知れない。

 とはいえ、あなたが被ったのと同等の損害を与えて相手を罰すること、いや、それどころか、あなたに対し決して損害を与えることができないよう相手を徹底的に懲らしめることは、たしかにあなたに満足を与えることになるかも知れないとしても、それは、けれども、それは、相手と同じレベルに自分を引き下げることでもある。

 自分に損害を与えた相手と運命共同体を作る覚悟があるのなら、相手に罰を与えることには大切な意味がある。だから、誰かから損害を被ったとき、最初になすべきことは、自分の状況を冷静に振り返り、返報しなければならないと考えるほどの損害、返報しなかった場合にトラウマになるほどの損害を被り続ける必然的な理由があるのかどうか、自分に問いかけることであろう。そして、その場にとどまらなければならない理由があなた自身に認められないのなら、外的な事情がどのようなものであるとしても、その場にとどまって返報を試みるのではなく、学校でも職場でも、自分がこれ以上深い傷を負う前に、可能なかぎり早く「とにかく逃げ出す」ことが問題の最善の解決策になるはずである。

Schoolboys of Japan

ある知人の話

 ある知人から、次のような話を聞いた。

 毎朝、出勤するとき、自宅から駅まで歩き、そこから地下鉄に乗る。普段は、午前6時台に家を出るため、同じ時刻に出かけるサラリーマンや犬を散歩させる高齢者以外を見かけることはあまりない。

 ところが、ときどき、午前8時前後に出かけることがある。そして、そのようなときには、駅まで歩いて行く途中、近くの学校に向かう小学生や中学生の集団に遭遇することが少なくない。しかし、住宅街の中の道を歩いていて、小学生や中学生の集団が向こうから近づいてくるのがわかると、道を変えることにしている。すれ違うのがどうしても嫌だからである。正確に言えば、身の危険を感じるのである。

 もちろん、少し冷静に考えるなら、自分が小学生や中学生に朝の市街地で襲われるはずがないことは明らかである。それでも、向こうから近づいてくる小学生や中学生を回避することができず、彼ら/彼女らとすれ違うことを余儀なくされるときには、いつも軽い恐怖を覚える……。

 職業柄、人前で話す機会はそれなりにあって、大きなホールで目の前に大人が何百人が坐っていても、身動きがとれなくなるほど緊張することはないが、小学生や中学生が遠くに見えるだけで、気持ちがざわつく。

 知人は、このように語っていた。

 この知人は、小学生のころ、ひどい「いじめ」にあい、さんざんな生活を送っていたようである。「今にして思えば、よく生きて小学校を卒業できた」と知人は語っていた。登校する小学生や中学生の集団を見ると恐怖を覚えるのは、おそらく、この「いじめ」の経験があるからなのであろう。知人によれば、「『いじめ』の被害者としての経験は、ことによると自分の行動パターンに、知らずしらずに何らかの影響を与えている可能性はあるとしても、『いじめ』を思い出すことは、普段はあまりない。ただ、たとえば小学生や中学生の集団とすれ違ったり、「いじめ」と深い関連のある場所に身を置いたりするときには、昔のことが総集編のように記憶に甦り、鮮明に思い出される」ということであった。いわゆる「フラッシュバック」と呼ばれているものである。

「学校に通う」という惰性から一度は距離をとることが大切

 学校の授業や課外活動、また、学校での人間関係にどのくらいの価値を認めるのか、これは、人によりまちまちであろう。したがって、「いじめられるくらいなら、退学したり転向したりして、精神衛生上いくらか『まし』な環境に自分自身を移す」ことを選択する児童や生徒もいれば、反対に、(私自身には理解することができないけれども、)「今の環境にとどまり人間関係を再編成する可能性に賭ける」児童生徒もいるかも知れない。また、保護者の意向が本人の要求とは異なる可能性もある。したがって、少なくとも本人や保護者については、「いじめ」にあったときに講じるべき対応に「正解」があるわけではないと考えるべきである。

 ただ、少なくとも次の点は確かであるように思われる。すなわち、少なくとも保護者が、自分の子どもについて、「学校には行くのは当然」「学校をちゃんと卒業するのは当然」「友だちとちゃんと付き合うのは当然」「課外活動にちゃんと参加するのは当然」などの先入見を一度は捨て、学校と学校教育を相対化する視点を獲得しないかぎり、「いじめ」の問題は決して解決しないという点である。たしかに、保護者自身は、自分の子どもの学校生活を評価するとき、みずからが小学生や中学生であったころの生活を知らずしらずのうちにモデルとして前提しがちであり、このモデルに従うよう子どもを反射的に促してしまいがちであるように思われる。しかし、これは、子どもから選択肢を奪うばかりではなく、保護者自身からもまた選択肢を奪うことになる。

 もちろん、現在の日本の教育制度の場合、完全にドロップアウトしてしまうと、キャッチアップがきわめて困難であることは事実であり、キャッチアップすることができないと、社会生活において重大な不利益を被る危険があることもまた確かである。

 しかし、自主的に勉強を進める条件をみずから整えることができるかぎりにおいて、小学校や中学校に通わなくても、課外活動に参加しなくても、友たちを作らなくても、卒業することができないわけではないし、その後の進路に直接の悪影響が及ぶわけでもない。「周囲から浮く」というような、実に日本的な気がかり、しかし、非本質的な気がかりを一度は捨てることは、どうしても必要であるように思われるのである。


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