Million mask march Glasgow

 街を歩いていると、自分が「見世物」にされているという感覚に襲われることがある。これは、たくさんの人々のあいだにone of themの匿名の存在として埋没している状態から私ひとりが引きずり出される感覚である。たとえば、周囲の人間がすべて、私が何者であるかを知っていて、私が過去に失敗したこと、道徳的にいかがわしいふるまいなどを見て、どこかでこれに野次馬的な興味を持ち、無責任な仕方で追跡しているのではないかという感覚であり、私と他人とのあいだに、見る者と見られる者の断絶が見える感覚である。(ひどいときには、覗き見されているのではないかと思うことも稀にある。)そして、このような感覚に襲われるとき、私は、自分と他人のあいだの違いを鋭く自覚するとともに、底なしの孤独を覚える。

 たしかに、このような感覚は、ごく短い時間、ごく稀に私の心を占領するにすぎない。短い時間が過ぎれば、私は、匿名の存在へとふたたび戻る。普段の私は、あくまでも匿名の存在、周囲の環境に溶け込んだ平凡な存在として、毎日をけじめなく生きているのである。(芸能人やプロスポーツ選手でもないのに、他人に覗き見されている感覚につねに付きまとわれているなら、統合失調症を疑うべきであろう。)

 それでは、自分を演じているのではない自分、いわば「本当の私」のようなものがどこかにあるのであろうか。私の外側には、「本当の私」が現れ出ることを妨害しているもの、あるいは、私に対して「本当」ではないあり方を押しつけているものが付着しているのであろうか。そして、このような外的なものをすべて捨て去ったとき、「本当の私」が残滓として姿を現すのであろうか。「本当の私」の正体が「私のミニマム」であるなら、たしかに、余計なものを捨て去ることにより、「本当の私」に辿りつくことができるのかも知れない。しかし、残念ながら、「本当の私」なるものは、どこを探しても見出すことはできない。いや、このような自分探しの涯にあるのが「本当の私」であるなら、それは、探したくなどないもの、思わず目をそむけたくなるほど獣的な何ものかであり、「探さなければよかった私」であるように思われる。

 ただ、見世物にされているという感覚がないときでも、自分で自分を演じているという感覚は残る。特に、疲れていたり、体調が悪かったりすると、自分の持ち物、自分の社会的地位、ときには自分の親類や友人まで、演技のために必要な小道具のようによそよそしく見えることがある。不思議なことに、探すに値する「本当の私」などないとしても、それでも「偽りの私」にはリアリティがあるのである。

 現在の私のあり方について、何か違うという感じを持つことは、しかし、異常でも何でもない。現在の私を偽りと見なし、これを乗り越えて行くことは、人間の自然に属するのであり、「本当の私」なるものがあるとするなら、それはこのあり方、つまり、自分に属するさまざまなものを周囲にとり集めながら、しかし、これを実体化し――つまり、ここから脱皮し――新たなものを求めるあり方に他ならないのである。この意味において、「本当の私」というのは、「自分を演じている自分」をたえず克服しつつ、同時に、新たなる演技を自分に課す存在として把握されるに違いない。