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「ただ生きているだけ」には耐えられない

 私は、自殺を考えたことが一度もない。これが私の幸福の証であるのかどうか、よくわからないけれども、何らかの意味において「めでたい」ことであるのは間違いないように思われる。

 とはいえ、いつか自殺したくなるかも知れないということを漠然と予想することがないわけではない。そして、どのような状況のもとで自殺したくなるか、ときどき思考実験している。(もちろん、自殺の原因や状況や動機はまちまちであり、一般化は困難である。だから、私が想像する自殺の条件は、私にしか妥当しないものであるに違いない。)

 そして、自殺について考えるたびに、私の心に必ず浮かぶものがある。それは「ただ生きているだけ」の状態である。何の前進も成長もなく、未来が現在の機械的な延長のように見えるとき、自分が「ただ生きているだけ」であるように感じられるのである。生活のすべてを会社に捧げてきたサラリーマンの多くは、定年退職したあと、「ただ生きているだけ」の状態に陥るはずである。

 人間は――というよりも、私は――「ただ生きているだけ」には耐えられない。「ただ生きているだけ」の状態を強いられたら、実際に自殺するかどうかはともかく、生きる意欲を決定的な仕方で失うであろう。

「ただ生きているだけ」はどこにでも出現する

 もっとも、人が「ただ生きているだけ」の状態に陥るのは、決して珍しいことではない。定年退職し年金生活を送っている老人ばかりではなく、働いて給与を受け取っているサラリーマンでも、あるいは、その他の職業に従事している者でも、日々の仕事の繰り返し――決して定型的なものではないとしても――に飽き、この先、同じことを繰り返して一生を終えることを想像して意気阻喪することになる。自分が「ただ生きているだけ」であるように感じられる瞬間である。

 不安定な生活よりも安定した生活の方が好ましい。これは、誰にとっても同じである。しかし、どれほど収入が多くても、どれほど安定していても、将来における自分の新しいあり方を心に描くことができなければ、それは、生きていないのと同じことであるに違いない。人間は、マグロやカツオと同じように、前進していないと死んでしまうものであると言うことができる。

 私は、夕食のとき、次のように自問することにしている。すなわち、「今日のこの食事は、ただ生命を維持するためだけのものなのか、それとも、食事がさらなる成長や前進の糧になるのか」と自分に対し問うことにしているのである。これは、自分の人生に何らかの意味があることを確認するための儀式のようなものであり、「ただ自分の命をつなぐためだけに食べている」としか思えなくなったら、そのときには、ものを食べる気力すら失われるであろう。