AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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日焼けしたくないという気持ちはわからないわけではないが

 5月の中ごろ、休みの日に近所を散歩していたら、1人の高齢の女性が通りを向こうから歩いてくるのが目にとまった。この女性もまた、散歩の途中だったのであろう、両手には何も持たずに歩いていた。

 この女性が私の注意を惹いたのは、この女性が挙動不審だったからではない。そうではなくて、この女性が手袋をつけていることに気づいたからである。この女性がつけていた手袋は、指先から手首あたりまでを覆ういわゆる「手袋」ではなく、上腕の途中まで、つまり、半袖のシャツから露出している部分をすべて覆うようなものである。この数年、夏になると、このタイプの「手袋」をつけている女性、特に中高年の女性をよく見かける。

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 この「手袋」は、紫外線の侵襲と日焼けを防ぐためのものである。だから、「手袋」をつけている女性は、サンバイザーか帽子を必ずかぶっている。

 たしかに、日焼けしたくないという気持ちは、わからないわけではない。日焼けしたり、皮膚にシミができることは――日本人の場合、これが原因で皮膚がんになる危険は比較的小さいとは言え――健康面でも美容面でも、決して好ましいことではないと言えないことはない。

芸能人と「一般人」では、紫外線対策の意味が違う

 しかし、私は、あの「手袋」には強い違和感を覚える。というのも、「手袋」をつけた女性たちは、夏の紫外線対策を、日常生活においてきわめて優先順位の高い課題と見なし、紫外線対策に高い優先順位を与えるような生活を自分が送っていることを外部に向かって誇示しているように見えるからである。

 「誇示などしていない、必要だから手袋を身につけているだけ」という反論があるかも知れないが、そうであるなら、手袋をつけるのではなく、長袖の衣類を上から羽織ればよい。わざわざ半袖のシャツを着て、その上で長い手袋をつけるというどこかチグハグな身なりは――もちろん、「夏の装い」をめぐる従来の常識に対する挑戦であり――この手袋を見せるためであると考えないかぎり、説明のつけようがないのである。

 なぜ女性たちがこの不思議な「手袋」をつけるようになったのか、私は知らないけれども、きっかけは女性の芸能人だったのではないかと想像している。たしかに、女性の芸能人、特に、映画やテレビドラマに出演することを主な仕事とする女優であるなら、職業上、顔面、腕、足など、衣類から露出している皮膚の日焼けやシミは、絶対に避けなければならないものであり、紫外線対策は、優先順位がつねにもっとも高い課題の1つであると言うことができる。だから、必要に迫られないかぎり皮膚を直射日光にさらさないよう、長い手袋で腕を紫外線から保護することがあるとしても、これは、女優にとっては、職業上のやむをえざる措置であり、決して外部に対して自分のステータスを誇示するためではないのである。

芸能人の夏の美容法。綾瀬はるかや壇蜜の美の秘訣とは | 福山雅治に学ぶメンズ美容

 しかし、たとえばママチャリに乗って激安スーパーに買い物に出かけるような女性にとって、肌を日焼けさせないことは――どうでもよいとは言わないが――決して優先順位の高い課題ではないはずである。このようなことは、美人で有名な女優が必要に迫られてするからサマになるのであり、普通の女性が同じことをしても、大抵の場合、ただ違和感を与えるだけである。普通の日本人の女性にとって、芸能人のライフスタイルや美容法を模範とするなど、高級な料亭やフランス料理店のメニューに倣って毎日の献立を決めるようなものであり、浮世離れした暇つぶしにすぎない。

 芸能人には芸能人の生活なりの課題の優先順位があり、そして、この優先順位は、私たち一人ひとりの生活における多種多様な課題の優先順位と同じであるはずがない。私たちの生活はそれぞれ、かぎりなく個性的であり、したがって、生活の目標もまた、同じように個性的であるはずである。紫外線対策のために手袋をつけている女性にとり、自分の生活の中で、日焼けしないこと、しみを作らないことがどの程度の優先順位にある課題であるのか、一度冷静に吟味することは、決して無駄ではないように思われるのである。

THE FIGHTER - red carpet, in Hollywood, California

 今日、次の記事を読んだ。

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 私は、普段、民放の番組を見る機会があまりない。当然、誰の人気があるのか、誰のことは知っていないければならないのか……、このようなことはまったくわからない。また、芸能関係のニュースを几帳面に追いかけているわけでもないから、スキャンダルの類にも不案内である。だから、芸能人の具体的な言動についてあれこれと批評する資格は私にはないように思う。(「ベッキーが好きなのか?」と尋ねられたら、私は、「特に好きではないが、私にとっては、名前と顔が一致する数少ない芸能人の1人ではある」と答える。私でも知っているくらいだから、よほど有名なのであろう。)

 ただ、最近10年か15年くらいのあいだ、芸能人の「ありがたみ」がずいぶん薄れてきたことは確かであるように思われる。芸能人らしさの一部が芸能人から失われているように見えるのである。

 平均的な日本人の多くは、芸能人の姿をテレビを通して眺めている。しかし、芸能人というのは、テレビに出演し、何らかの役割を演じているだけの存在であるわけではない。

 民放がテレビドラマを作るとき、名の通った俳優やタレントやアイドル――たがいにどう違うのかわからないが――を使う代わりに、出演者のすべてを無名の役者や完全な素人から選ぶことは不可能ではないし、ドラマの質だけを考慮するなら、その方がすぐれた作品が出来上がるかも知れない。しかし、顔を見たこともない、名前を聞いたこともない出演者ばかりが画面に登場するドラマなど、民放の番組の普通の視聴者は興味を示さないであろう。視聴者が見たいのは、ドラマではなく有名な芸能人だからである。

 そして、芸能人に人々が注目するのは、露出の機会が多いからだけではなく、むしろ、本質的には、平均的な日本人の生活から何らかの仕方で乖離した生活を送っているように見えるかぎりにおいてである。だから、芸能人の私生活は、よくわからないままであるか、あるいは、いくらか風変りであるのが望ましいことになる。芸能人の生活を覗き見た普通の視聴者が、自分の生活と大して変わらないという感想を抱くことがないようにすることは、芸能人にとって必須である。ある芸能人がごく平均的な生活を送っているとしても、自分のごく平均的な生活をあるがままに暴露したら、その芸能人は、自分の評判を少なからず傷つけることになるはずである。

 だから、芸能人の言動は、それが本当の意味における犯罪に当たるものでないかぎり、これを世間の普通の尺度で評価してはならない。世間の常識をよくわきまえ、小市民的な生活を送っていることを公言する芸能人というのは、どのような状況のもとでも決して魅力的ではないけれども、特に世間が不況に苦しんでいるときには、魅力に乏しいばかりではなく、有害ですらあるように思われる。このような芸能人の生活を垣間見ても、模範的な家庭生活の退屈な見本を見せられるだけだからである。

 むしろ、芸能人に社会的な使命があるとしても、それは、模範的な生活を人々に示すことではない、謎に満ちた生活、微妙にいかがわしい生活、普通の人間には真似ができないような派手な生活、あるいは、極端に禁欲的な生活など、標準からはずれた暮らしを人々の前で演じることにより、人々がくすんだ日常を忘れたり、励まされたりする点にある。だから、テレビ番組や映画に出演するだけではなく、画面の外部においてもまた、芸能人は、普通の市民ではなく、芸能人としてふるまうことが望ましい。ウディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」(1985年)は、1930年代のハリウッドのスターが社会に対しこのような役割を担っていたことを教えてくれる。


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 実際、当時のハリウッドを代表するスターの一人ジョーン・クローフォードは、大恐慌の時代、人々が不況に苦しみ、社会的な不安の中で節約に努めているとき、あえて派手な生活を演じ、非日常を人々に見せることがスターの社会的な使命であるという自覚のもと、次のように語ったと伝えられている。(微妙に異なるバージョンがあるようであるが、ここでは最大公約数的なものを記す。)

私はジョーン・クローフォードです。私はドルを信用しています。私は、稼いだものは全部使います。

I am Joan Crawford.  I believe in the dollar.  Everything I earn, I spend.

 平均的な日本人の中に溶け込み、「等身大」の「普通」の存在になることは、芸能人の社会的な使命の放棄以外の何ものでもないと私は考えている。(「会いに行けるアイドル」など、もってのほかである。)

 むしろ、芸能人が、良心の欠如が疑われるような仕方で派手な不倫を経験したり嘘をついたりしても、小市民的な(善悪でしかものを評価することのできない狭量な)道徳的尺度をこれに適用してはならず、むしろ、それもまた一種のドラマとして楽しむべきであるように思われるのである。

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