AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:試行錯誤

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レゴの特徴は、完全な自由にある

 「レゴ」というのは、デンマークの同名の会社が1940年代から製造しているブロック玩具である。私は、小学生のときから、レゴを集めていろいろなものを作った。非常に多くの時間がレゴで遊ぶことに費やされたけれども、この経験は、今でも生活のいろいろな場面で生きていると思う。

 レゴは、多種多様な大きさや形状の、しかし、それ自体は何の個性もないブロックである。だから、これをどのように組み合わせ、どのような形のモノを作るかは、作る者(≒子ども)の完全な自由に任されているはずである。

 何を作るかをあらかじめ決めずに、手近にあるブロックを試行錯誤で組み合わせて行くうちに、面白い形状の物体が出来上がったり、自分がよく知る動物の姿に似たものが偶然の結果として姿を現したりする。そして、このような体験を繰り返すうちに、やがて、何か「意味」のあるものを作ることを思いつく。ただ、私自身は、鉄道模型や箱庭のような「作品」を作るようになったのは、レゴで遊び始めてから2年か3年くらい経ってからだと思う。それまでは、どのブロックをどのように組み合わせるとどのような形になるのか、手当たり次第に試して面白がっていた。

 このように何かを作るという具体的な目標もなく、好きなようにブロックを組み合わせる中で子どもが自分で形を発見し、より複雑なものを自力で作り上げて行くようになる点にレゴの本来の価値はあると私は考えている。

作られる「べき」ものを指定するのはレゴの自殺

 ところが、最近は、レゴには決まった「遊び方」が求められるようになっているらしい。しかし、たとえば、飛行機を作ったり、よく知られた建物の模型を作ったりするという目標が「レゴで遊ぶ」ことに与えられ、作品の完成が何らかの「ゴール」であるかのように見なされるようになることは、レゴの自己否定であり自殺である。というのも、「遊び方」を誰かが決めるということは、面白い組み合わせ方を子どもが自分で発見するための玩具であるレゴに「正しい遊び方」と「誤った使い方」という虚偽の区分を導入するからである。

 レゴのこのような使われ方は、子どもの想像力を育てることにはならない。さらに、これは、本当の意味における遊びですらない。たとえば、「名人」がレゴで作った作品のようなものを見せられた子どもは、その完成度の高さに意気阻喪し、みずからが自力で作ったものを見すぼらしく感じるであろう、そして、レゴで遊ぶのをやめてしまうか、「作り方」のマニュアルを求めるかのいずれかになるであろう。これは、子どもを育てることにならないばかりではなく、むしろ、子どもを委縮させる点で有害ですらある。

 私自身は、自分だけの小世界をレゴで作り出し、自由な試行錯誤に身を委ねながら長時間を過ごした。それは、「名人」の作るレゴとも、そして、もちろん、レゴランドとも異なる、しかし、まったく私のオリジナルの小世界であり、この意味で、私に幸福を与える世界であった。

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「おすすめの本を教えて」という漠然とした求めには応じない

 職業柄、「どのような本を読めばよいのか」「おすすめの本を教えてください」などという質問や要求に出会うことが少なくない。

 「○○の分野に興味があるから、適当な文献を紹介してほしい」とか「△△関係で××を読んでみたがよくわからなかったから、もっとわかりやすい入門書を」とか、このような具体的な話には応えることにしているけれども、ただ漫然と「面白そうな本」や「おすすめの本」を挙げるよう求められても、これには基本的に応じないことにしている。

 そもそも、以前に投稿した次の記事で述べたように、私は、読書というのが基本的に私的なもの、密室でひそかに営まれるべきものであると考えている。自分が好きな本をむやみに公開するのは、自分が身につけている下着を繁華街の路上で披露するのとあまり変わらないことであるように思われるのである。(私は、露出狂ではない(つもりだ)から、当然、そのようなことはしない。)


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、

面白い本は試行錯誤しながら自分で見つけるものであって、誰かに教えてもらうものではない

 しかし、それ以上に重要なのは、次のような理由である。

 そもそも、面白い本というのは、試行錯誤によってみずから見つけ出すべきものである。これは、ある程度以上の読書経験がある者にとっては自明の真理であるに違いない。あるいは、この自明の真理を感得することが、「読書経験」の証であると言うことも可能である。

 さらに、それなりにたくさんの本を読んできた人なら誰でもわかるように、万人にとって面白い本などというものはない。本を手に取るときに読み手が背負っている人生経験に応じて、一冊の本は、異なる面白さ(あるいは、つまらなさ)を読み手に示す。当然、同じ一冊の本から得られる面白さは、読み手が位置を占める人生行路の地点が異なれば、これに応じて変化することになる。

 たとえば、私が太宰治の『人間失格』を初めて読んだのは、小学校6年生のときであった。私は、これを、ある意味において「面白い」作品として受け止めた。私が次に『人間失格』を手に取ったのは、大学院生のころである。このときにも、私は、この作品に面白さを認めた。しかし、当然、その面白さは、小学生の私にとっての面白さとは性質を異にするものであった。さらに、一昨年、私は、『人間失格』をもう一度読んだ。もちろん、私は、これを面白いと感じたけれども、それは、さらに新しいレベルの面白さであった。読書とは、このようなものであると私は考えている。

 したがって、ただ漫然と「面白い本を挙げろ」と言われても、それは、そもそも無理な相談なのである。

本をすすめることが相手にとって害になることもある

 もちろん、「おすすめの本を教えてください」という要求に出会うとき、私が挙げることを求められているのは、万人にとって面白い本ではなく、「おすすめの本を教えてください」と私に語りかけている当の誰かが「今、ここ」で読んで面白いと思えるような本であるのかも知れないが、相手の経験をそのまま引き受けることができない以上、この求めに応じるのが不可能であることもまた明らかであろう。

 それどころか、私は、このような要求に応えることが決して相手のためにならない場合が少なくないと考えている。そもそも、「おすすめの本を教えてください」などと私に無邪気に求めるような人間は、読書経験がまったくないか、あるいは、ゼロに限りなく近く、そのため、「つまらない本」に対する「耐性」がないからである。

 本を読むことにある程度以上の経験があるなら、つまらない本に出会っても、これに懲りることなく、気持ちを切り替え、次の1冊に手をのばすことが可能である。本の面白さについて自分なりの基準があり、また、この基準を満たす本に過去に実際に出会った経験があるからである。

 これに対し、本を読むことに慣れていない者の場合、つまらない本に遭遇すると、本を読むこと自体への意欲が失われてしまう可能性がある。つまり、次の1冊を試そうとはせず、そのまま読書に背を向けてしまう危険があるのである。私がすすめる本が相手にとって面白いという確信があるなら、話は別であろうが、このような確信がないかぎり――実際、あるはずはない――本をすすめることは、相手を不幸にするおそれがある。人間に許された物理的な経験の量は、時間的、空間的に非常に狭い範囲にとどまる。読書は、経験を他人から買い、みずからの経験を拡張する作業であり、したがって、人間に固有の、人間にふさわしい経験を形作る作業であると言うことができる。しかし、それだけに、私がすすめた本が原因で読書に背を向ける者が現われるようなことは、当人のためにならないばかりではなく、人類にとってもまた損失であるように思われるのである。

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