Appetizers Winter 2011

 もう何年も前になるが、ある講演を聴いたことがある。それは、動物行動学に関係あるらしい自然科学系の分野の研究者による一般向けの講演であったが、独立の講演会ではなく、ある財団が主催する別のイベントの前座として行われたものである。私は、イベントの本体に参加するために出かけたついでに、その講演を聴くことになったのである。

 講演の内容は、もはやほとんど覚えていない。覚えているのは、私にはほとんどまったく理解できなかったこと、そして、何よりも、「目の前にいる人間の反応を無視して話せる人間がいるんだな」という雑な感想が自分の心に浮かんだことだけである。スピーカーの話は、最初から最後まで、化学物質、薬品、器具、手順などを表すらしい(が、説明がないから、ハッキリとはわからない)片仮名やアルファベットのテクニカルタームの羅列であり、これらの名詞を簡単な動詞、助詞、助動詞、接続詞などでつないだだけのものであった。私は、スピーカーが「マウスに××××を投与し、○○○○を使って△△△△を◇◇◇◇という条件で行うと、☆☆☆☆という結果が出るが、これに対し、◆◆◆◆を使って◎◎◎◎を行うと、※※※※という結果になり……」というような調子で、実験のデータと関連する映像をパワーポイントで次々と映し出しながら相当なスピードで話すのを約1時間にわたって聴かされたのである。

 当日の聴衆の半分は、文系の人間であった。そして、このことは、スピーカー自身、事前に知らされていたはずである。私がスピーカーなら、テーマを決めるに当たり、専門がまったく違う人間にもわかることを最優先で考慮する。万が一、テーマが自由に決められないとしても、完全な素人にも一応は理解できるよう心がける。これは、話す側の当然のマナーであるに違いない。いや、マナーである以前に、これは、講演というコミュニケーションを成立させるための最低限の条件である、小心者のせいか、私はこのように考えている。

 それだけに、目の前にいる人間が自分の話をまったく理解しなくても、一向に意に介さない人間がこの世にいて、しかも、国民が納めた税金を原資とする補助金を使って学術研究に従事しているというのが、私には不思議で仕方がなかった。もちろん、私は、「公金に頼って学術研究を続ける以上、全国民にわかるような結果を出すべきだ」と主張するつもりはない。実際、そのようなことは不可能であろう。しかし、自分の研究の意義を、関心を共有していない人々に説明する努力は、つねに必要であると思う。

 形式的に考えるなら、コミュニケーションというものは、「コミュニケーター」(communicator) つまり送り出す側と「コミュニケ―ティー」(communicatee) つまり受け取る側の両方がいないと成り立たない。また、すべてのコミュニケーションでは、(マス・コミュニケーションを含め、)コミュニケーターとコミュニケ―ティーの役割は、それぞれ異なる人間によって担われるのではなく、すべての当事者がこれら2つを同時に担う。

 しかし、両者は決して対等ではない。コミュニケーションにおいて決定的にに重要なのは後者、つまりコミュニケ―ティーの方である。なぜなら、それぞれのコミュニケーションの価値を決めるのは、コミュニケーターではなく、コミュニケ―ティーだからである。小説の価値を決めるのは、作家ではなく読者である。落語の価値は、落語家自身にとって面白いかどうかによって決まるのではなく、聴衆が面白いと思うかどうかによって決まる。作家は、読者に受け容れられるかどうかをつねに考慮しながら作品を執筆し、落語家の最大の関心事は、聴衆が自分の期待どおりに反応してくれるかどうかという点であるに違いない。これは、あまりにも当然のことであるけれども、残念ながら、私の狭い経験の範囲では、講演に関しこの点に配慮するスピーカーは、現実には決して多くはないように思われるのである。

 小説に関するかぎり、私たちは、これを読まない自由を持つ、同じように、落語を聴く義務が私たちに課せられているわけではない。しかし、世の中には、聴きたくなくても聴かなければならない話、読みたくなくても読まなければならない文章というものがある。そして、強いられた読者、強いられた聴衆をコミュニケ―ティーに持つコミュニケーションにおいてコミュニケーターになるときこそ、相手の関心、相手の期待への最大限の配慮が必要となるはずである。