AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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 これは、下の記事の続きである。


人工知能の限界 あるいは遊戯のオリジナリティ : アド・ホックな倫理学

人工知能の能力は、人間に「できた」ことを精密に模倣する能力である 人工知能がどのような影響を社会に与えることになるのか、正確に予測することは困難である。しかし、現在の世界において「職業」と見なされているもののある部分が人工知能によって置き換えられるのは間


 理論的には、人生全体を遊戯にすることは簡単である。自分が遊戯――ゲームではない――として専念することができるようなものを人生の中心に置き、生活の残りの部分を、この遊戯に奉仕するように組み立てればよい。「遊戯として専念することができるもの」とは、他の何か――たとえば生活の糧を得ること――の手段であるかぎりにおいて意味を持つものではなく、それ自体が目的であるような活動である。

 しかし、「遊戯として専念することができるようなものを見つけ、これを中心に生活を組み立てればよい」という見解は、少なくとも2つの反論をただちに惹き起こすはずである。すなわち、

    1. 「遊戯として専念することができるようなものは仕事とは言えないし、そうでなければ食って行けない」という反論、そして、
    2. 「遊戯として専念することができて、それ自体が目的となるようなものを見つけるなど不可能である」という反論

である。たしかに、少なくとも現在の社会では、この反論は決して誤りではない。

 とはいえ、人工知能が高度に進歩し、多くの職業が人工知能によって担われ、言葉の本来の意味における「職業」ではなくなるとき、それにもかかわらず、人工知能には、私たちが実際に遊戯として専念しているものに関し、これを代理することは不可能である。

 現在では、職業というのは、遊戯となりうるどうかを基準として選ばれ、評価されているのではなく、生活の糧を得るための効率、あるいは、社会的な影響を基準として選ばれることが少なくない。しかし、社会における人工知能の役割が大きくなるとともに、職業選択の基準や職業の評価もまた、おのずから変化するはずであり、最終的に、遊戯として専念することができるようなものを何も持たない者は、生活の糧を何によって得ていたとしても、社会における位置を失うことを避けられないであろう。

 そもそも、人生というのは、何か人生の外部にある何かに奉仕するものではなく、それ自体が目的と見なされるべきものである。人生の外部には何もないのである。もちろん、「人生の目的」なるものを設定することは可能であり、また、好ましいことでもある。ただ、人生の外部に目的を設定することは、人生のそれ自体としての価値の否定に他ならない。「人生の目的」は、みずからの人生の内部に――必ずしも「自分だけのために」ではなく――求められるべきものであり、それにより初めて、人生は、みずからを目的とするもの、つまり遊戯となる。

 人工知能が社会において担う役割が大きくなることは、社会生活の外見をごく表面的に変化させるばかりではない。近い将来のことはよくわからないが、少なくとも遠い将来――何十年、何百年も先――職業や仕事というものの観念は、現在とはまったく異なるものになっているはずである。


Fritz Lang - Metropolis still 1

人工知能の能力は、人間に「できた」ことを精密に模倣する能力である

 人工知能がどのような影響を社会に与えることになるのか、正確に予測することは困難である。しかし、現在の世界において「職業」と見なされているもののある部分が人工知能によって置き換えられるのは間違いないように思われる。

 人工知能によって置き換えられる可能性が高い職業について、さまざまな観点からさまざまな予測が試みられているようであるけれども、これもまた、正確な予測は困難である。ただ、人工知能の本質を考慮するなら、次の点は確かである。すなわち、仕事に携わる者の個性を成果に反映させることを求められないような職業は基本的にすべて人工知能に置き換えられる可能性がある。求められるのが高度な知識や正確な技術にすぎないような仕事は、人間のするものとは見なされなくなるであろう。

 医師や法律家は、高度に知的な職業であるように見えるけれども、その業務内容のかなりの部分は、人工知能に奪われるはずである。たとえば、X線写真を読影して単純な怪我を治療したり、適切に投薬したりすることには、人間の個性などまったく要らないからである。遠い将来、技術を競うようなタイプの仕事には、もはや医師は必要とされず、医師の業務として残るのは、患者のケア――キュア(治療)ではなく――だけとなるに違いない。(だから、医師の場合とは異なり、看護師、ソーシャルワーカー、臨床心理士などの仕事の大半は、人工知能では置き換え不可能である。)法律家についても事情は同じである。「法律家なら誰がやっても同じ」であるような仕事は、人工知能によって置き換えられるはずである。

 以前に書いたように、人間に「できた」ことなら何でもするのが人工知能の本質である。つまり、人間がなしえたことを機械的に再現したり、これを組み合わせたりする能力に関するかぎり、人工知能は人間よりもすぐれているに違いない。しかし、人工知能には、人間に「できる」ことなら何でもできる能力が具わっているわけではない。というのも、人工知能には、独創性(オリジナリティ)が決定的に不足しているからである。つまり、本質的に新しいものを産み出すのは、人間だけなのである。


人工知能と「贋作の時代」の藝術作品 : アド・ホックな倫理学

しばらく前、精巧な贋作を大量に製作した人物のドキュメンタリーを観た。NHKオンデマンド | BS世界のドキュメンタリー シリーズ 芸術の秋 アートなドキュメンタリー 「贋(がん)作師 ベルトラッチ~超一級のニセモノ~」 この人物は、贋作が露見して逮捕、告訴さ



 もちろん、既存のものの組み合わせを「オリジナリティ」と呼ぶなら、人工知能にもオリジナルなものを産み出すことができると言えないことはないが、それは、表面的な目新しさにすぎない。人工知能が「作る」歌謡曲――厳密には、人工知能が歌謡曲を作るのではなく、人間が人工知能に歌謡曲を作らせるのであるが――がどれほど多くの聴衆を惹きつけるとしても、それは単なる見かけ上の新しさにとどまるのである。

オリジナリティは、学習の失敗によって生れるエラーではなく、遊戯のうちにあり、仕事を遊戯に変えるものである

 人工知能にはオリジナリティがないこと、したがって、オリジナリティあるいは「その人らしさ」が求められるようなタイプの仕事は人工知能によって置き換えられないことは、これまで繰り返し語られてきた。そして、この問題に関する支配的な見解は、オリジナリティの意味を、学習の失敗によって産み出されるものとして把握する。言い換えるなら、オリジナリティとは、人間の模倣能力が不正確であることが原因で発生する一種のエラーであると考えられていることになる。

 しかし、オリジナリティがエラーであるという主張は、必ずしも妥当ではないように思われる。たとえば、工藝、演藝、音楽、武術などにおける達人や名人は、すぐれた技能や技巧を披露することができるという理由によって「達人」や「名人」と呼ばれているわけではない。彼ら/彼女らが産み出すものには、彼ら/彼女らの個性が反映されており、極められた「」に反映された個性が評価されているのである。

 とはいえ、「藝」の上達の道は、素人には一直線であるように見えるけれども、実際には、上達するほど、「どちらに向かうと前進したことになるのか」明らかではなくなる。そして、このようなレベルに辿りついた者たちは、「達人」「名人」などと呼ばれ、「三昧」と呼ぶことのできる境地で「藝」の上達のために試行錯誤を繰り返すことになるはずである。(だから、これは一種の「遊戯」である。)ここで発揮されるオリジナリティは、記述可能な到達点を基準として測定されたエラーなどではない。そもそも、「藝」には決まった到達点などないからである。

 同じことは、普通の仕事についても言うことができる。それ自体を目的とするふるまい、つまり「遊戯」になりうる職業、そして、遊戯が成果として評価されるような職業は、オリジナリティを要求されるがゆえに、人工知能によっては決して置き換えることができない。残念ながら、いわゆる「会社員」が担っている仕事のかなりの部分は、オリジナリティとは無縁のもの、成果を測定する明瞭な基準が定められているものである。(もちろん、設定された基準の中には、たとえば「売り上げ」のように、明瞭であるが正当性のハッキリしないものもある。)

 これらの仕事がすべて人工知能に委ねられるとき、すべての仕事は遊戯となる。そして、各人は、みずからの職業を――期待される給与ではなく――遊戯として専念しうるかどうかにもとづいて選択することになるに違いない。


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