「中傷」と受け取られても仕方がない
今日(2016年10月1日)、ネットで次のようなニュースが流れていた。
長谷川豊アナ「クギズケ」も降板...ブログで人工透析患者を中傷長谷川氏は、すでに番組を1つ降板しており、私の勘違いでなければ、これが2つ目になるはずである。この問題については、以前に書いたことがある。
暴飲暴食は愚行なのか : アド・ホックな倫理学
リソースの功利主義的な配分の是非を考える自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!! : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』 生活習慣が原因で人工透析を受けざるをえなくなった場合
あらかじめ言っておくなら、私は、長谷川氏が出演するテレビ番組を観たことは一度もないし、長谷川氏のファンでもない。また、今回の降板については、放送局の判断として――妥当かどうかはわからないが――少なくとも平均的なものであるとも考えている。
長谷川氏自身は、人工透析を受けている患者を「中傷」したわけではないと語っているけれども、当然のことながら、すべての発言がそうであるように、長谷川氏の発言を「中傷」と受け止めるどうかを決める権利を持つのは患者であって長谷川氏自身ではない。長谷川氏の文章が他人の目に「中傷」と映ったのなら、残念ながら、それは、やはり中傷と見なされねばならないであろう。
「弱者の専制」を許す「空気」が醸成されることが心配
ただ、この問題に関連し、私は、次の点を懸念している。すなわち、ブログに掲載された文章の内容(とされるもの)を根拠として長谷川氏が制裁の対象となり、また、同じような事実がこれ以上積み重ねられると、病を抱えている人々、また、障害を抱えている人々について何らかの否定的な評価を口にすることがそれ自体として許されぬことであるかのような「空気」が社会を支配するようになるという点である。
被害者、障害者、患者……、つまり「弱者」、このような立場に身を置く人々がつねに保護されるべきであることは確かである。また、これらの立場に身を置く人々にしか与ることのできぬ経験、これらの人々にしか知りえぬ事実があり、こうしたことを広く伝えるというのは、このような人々の権利でもあり義務でもある。
ただ、形式的に考えるなら、このことは、「弱者」の立場から発せられる主張や要求の前で万人が膝を屈するべきであることをいささかも意味しない。なぜなら、「弱者」の立場に身を置かぬ者たちは、彼ら/彼女らに対し何か悪をなしているわけではないからであり、「弱者」ではない者たちは、「弱者」に対する「罪滅ぼし」を求められているわけではないはずだからである。
「弱者」の語る言葉には真剣に耳を傾けることがつねに必要であるとしても、社会の構成員であるかぎりにおいて、万人の立場は、公共の言論空間では対等であるのだから、何かを主張したり要求したりすることに関して弱者に与えられた権利は、みずからの主張や要求を他人に理解してもらう努力への義務と一体のものであると考えるべきである。
相手に歩み寄る責務は、「弱者」ならぬ者たちにのみ課せられているのではない。「弱者」もまた、自分たちと立場を同じくしない者たちの声に真剣に耳を傾けねばならないように私には思われるのである。