Kelmscott House

 一昨年の秋、東京都知事がまだ舛添要一氏だったころ、私の自宅に『東京防災』というパッケージが届いた。

東京都総務局総合防災部防災管理課の東京防災を iBooks で

 これは、地震、火災、風水害などに遭ったときの対応が記されたマニュアルであり、東京都によれば、都民向けに250万部が発行され、無償で配布されたようである。(現在は、誰でも入手することができる。)この『東京防災』に対する評価は非常に高く、実用書としてすぐれたものであり、(原則として無償ではあるけれども、)21世紀のベストセラーの1つに数えられるべきものであるに違いない。(また、これは、舛添氏の都知事としての数少ない業績の1つであるに違いない。)

 ところで、世界でもっとも読まれている――あるいは、少なくとも、手に取られている――書物は『聖書』であると一般に考えられている。実際の調査にもとづくものであるのかどうかはわからないけれども、これは、おそらく事実であろう。

 私は、キリスト教がすぐれた宗教であるとは思わない。

 そもそも、キリスト教の「教義」として受け容れられているものは、イエス・キリスト自身の教説とはあまり関係がなく、むしろ、本質的には、布教の戦術という観点から、紀元前後までにヨーロッパと中東に多くの信者を持っていた既存のさまざまな宗教の「いいとこどり」が試みられた結果として出来上ったコラージュであり、「宗教的なお子様ランチ」と呼ぶことができるようなものである。

 しかし、それだけに、キリスト教の教えには、普遍的な要素が認められないわけではない。(「カトリック」という言葉は、「普遍的に」「あまねく」という意味のギリシア語の副詞katholouに由来する。)『聖書』がキリスト教に入信している者たちの聖典にとどまることなく、読み物として2000年近くにわたりおびただしい数の読者を獲得してきたのにはそれなりの理由がある。

 ただ、『聖書』というのは、読者に対しそれなりに厳粛な人生論的な態度を最初から要求するタイプの書物であり、この意味において特殊な書物である。すなわち、好き/嫌い、面白い/退屈などの評価を超えたところに位置を占めているのである。

 もちろん、普通の本は、読者からのこのような評価を免れない。換言すれば、普通の本に関するかぎり、読者は、自分が設定した勝手な尺度にもとづいてその内容を審くことが許されている。(『聖書』が恣意的な評価を大体において免れてきたのは、教会という一種の暴力装置のおかげであると言えないことはない。)

 だから、均質的な社会には、誰にとっても面白い本、「万人のための書物」が出現する可能性がある――しかし、これは悪夢のような全体主義と知的な貧困が支配する社会である――が、社会がよい意味でも悪い意味でも多様性を獲得し、このかぎりにおいて秩序と見通しのよさを失うとともに、『聖書』に代表される「万人のための書物」は姿を消し、権利上、すべての書物が「各人のための書物」となるはずである。

 たしかに、好き/嫌い、面白い/退屈などの評価は、人によってまちまちでしかありえない。特に、「教養書」に分類される書物への評価には、各人の好みが強く反映される。批評家がどれほど高く評価する文学作品であっても、これについて「つまらない」という感想を持つ権利は誰にでもある。そして、この感想を取り下げるよう強いることは、誰にもできない。各人は、所属する社会集団の内部での位置、気分、健康状態などを作品の理解に好きなように持ち込むことが許されているのである。

 教養書は、もともと、普段は気づかない自分のあり方に注意を向け、これを相対化する用意がある読者、つまり、世界に対して「開かれた」態度をとることができる読者を想定るものであるが、もちろん、このような読者はつねに少数派である。むしろ、大抵の場合、教養書は、このような態度をまったく欠いた多数派と出会い、多数派は、「嫌い」「つまらない」「下らない」「わからない」「気に入らない」……などの言葉を吐き捨て、そして、去って行く。

 同じことは、哲学についても言うことができる。すなわち、哲学は、すべてのことを無前提に、フリーハンドで――つまり「善悪の彼岸」で――考え、語る知的な実験である。しかし、哲学が書物という形を与えられるとき、「無前提」は、それ自体として、書物が読者に対し共有を要求する1つの前提となる。そして、この前提を引き受けるかどうかは、読者の自由な選択に委ねられる。もちろん、多くの読者が「無前提」という前提を斥けるなら、その書物は、自分の「神経を逆撫でされた」から「気に入らない」本だということになる。

 このような状況のもとでは、多くの読者に歓迎されるのは、自分のあり方を深く考えることを求めなが、考えているような気にさせる書物、意識の表面に浮かんでいる泡のような問題を手っ取り早く消去する方法を教えてくれる書物、つまり、「万人の機嫌をとる書物」となることが避けられない。しかし、これは、もはや哲学でも文学でもなく、いや、それどころか書物ですらなく、本質的には「活字を素材とするジャンクフード」であり「活字を素材とする麻薬」にすぎない。

 しばらく前、私は、階層を隔てる壁が精神衛生上の必要悪であるという意味のことを書いた。


共生の悪夢と社会の「融和」 : アド・ホックな倫理学

昨日、次のような記事を見つけた。「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見てい



 ただ、社会が無数の壁によって分断されるとともに、教養書は読まれなくなり、「活字を存在とするジャンクフード」や「活字を素材とする麻薬」ばかりが書籍の市場を支配するようになるであろう。そして、社会全体の知的水準は低下し、階層のあいだの壁がさらに高く厚くなるに違いない。これが悪夢であるのか、それとも、「世界に対して開かれた態度をとることができる者はつねに少数派にとどまる」という古代以来の「常道」への単なる復帰にすぎないのか、私はよくわからない。少なくとも確かなことは、私たちの未来に広がるのが、普通の意味における啓蒙というものが挫折した時代であり、このかぎりにおいて一種の薄明ないし暗黒の時代であるということなのであろう。