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 しばらく前、次のようなニュースを見つけた。

移民を蹴り転ばせた女性カメラマンに有罪判決 ハンガリー - BBCニュース

 セルビアとの国境からハンガリーに入国しようとしたシリアの難民を撮影していたハンガリーの女性カメラマンが、子ども2人を蹴り、子どもを抱えて走っていた男性を足でひっかけ転倒させた容疑で起訴され有罪になった事件である。(なお、記事に注記されているように、BBCは、原則として「難民」(refugee) という言葉を使わず、すべて「移民」(migrant) と表現しているようである。)

 日本人の多くは、難民や移民について、同情すべき存在であると考えているであろうが、(私の情報が不足しているのでなければ、)難民や移民との共生については、どちらかと言うと否定的に評価しているように見える。難民や移民の認定や受け入れに対する政府の消極的な態度は、社会全体の空気の反映にすぎないように思われるのである。(もちろん、「労働力として役に立つから歓迎する」という意見がないわけではないが、ここでは、このような即物的で功利主義的な思惑はさしあたり無視する。)

 外国人に対する日本人の関係というのは、日本文化論や日本人論において飽きるほど繰り返し取り上げられてきたトピックである。ただ、日本人を外国人との関係において規定するのが日本人論、日本文化論の課題であるなら、これは、当然のことであるかも知れない。

 多種多様な日本文化論、日本人論から最大公約数的な見解を取り出すなら、おおよそ次のようになるであろう。すなわち、「日本人は、外国に由来するものは何でも『舶来』のものとして積極的に受容し珍重するが、人間だけは例外であり、外国人を社会に受け入れ同化を促すことには消極的であり、外国人は『よそ者』として隔離される。」そして、「外国人の意見は、日本人の意見よりも尊重されることが多いが、それは、あくまでも外国人が『よそ者』だからである。」

 外国の場合、外国人嫌い(xenophobia) には露骨な人種差別が重ね合わせられることが多い。だから、人種差別の要素が希薄である点で、日本の外国人嫌いはやや特殊であるかも知れないが、それでも、外国人嫌いは、それ自体としては日本に固有の傾向ではない。どのような社会でも、よそから来た者を無際限に受け容れるようなことはないはずである。

 難民や移民の受け容れに対する積極的な態度は、それ自体としては合理的であるのかも知れない。しかし、難民や移民を受け容れる前に必ず承知しておくべきことがある。それは、難民や移民が日本に来るとするなら、それは、生存のためであり、日本人と「共生」し、日本人の社会に同化するためではないという点である。日本人との共生、日本社会への同化が実現するなら、それは、難民や移民の側からすれば、やむをえざる共生と同化であるにすぎない。なぜなら、彼ら/彼女らは、本国が平和で安定していれば、(彼ら/彼女らにとっては得体の知れない)日本人などと接触するストレスとは無縁でいられるはずだからである。この点は、決して忘れてはならないであろう。

 さらに重要なのは次の点である。難民や移民は、それ自体として「よい人々」でもなく「ならず者」でもない。難民キャンプの映像を見ると、そこで暮らす人々がボロボロの服を身につけ、最低限の食料で日々を過ごしていることがわかる。そのため、日本人が親切にしてあげれば、彼ら/彼女はさぞ喜ぶであろう、日本人は大いに感謝されるであろうと考えがちであるが、現実には、そのような肯定的な反応はほとんど期待することができないであろう。そもそも、彼ら/彼女らは、難民になる前からボロボロの服を身につけ、最低限の食料で日々を過ごしていたわけではなく、その生活水準は、大雑把に言えば、平均的な日本人と大して違わなかったはずだからである。

 また、難民キャンプについて、「かわいそうな人々が集まっているところ」であると信じている日本人は少なくないかも知れない。しかし、私自身、難民キャンプを実際に訪れたことがあるわけではなく、詳しいことを知っているわけではないけれども、少なくとも、そこが、決して安全な避難所なのではないことは知っている。むしろ、難民キャンプというのは、大抵の場合、ありとあらゆる犯罪が発生する空間、安定した社会を支配する道徳や法の通用しない一種の無法地帯であり、何としてでもそこから逃れて安全な場所に身を置きたいと考えるようなところである。(アフリカに作られた難民キャンプでは、部族間の抗争が発生し、「ミニ内戦」のような状態になったところもある。)シリアからの難民が、考えうるかぎりのさまざまなルートを辿ってヨーロッパへと向かうのも、そのためである。難民は、ヨーロッパ好きなのではない。ヨーロッパの社会に溶け込みたいと考えているのでもない。彼らの切実な要求は、本来の水準に近い生活を取り戻すことだけである。上の記事が紹介した事件で有罪判決を受けた女性カメラマンは、押し寄せる難民に「恐怖」を覚えたと語っているが、これは、難民を迎え撃つ側が抱く自然な感情であろう。何と言っても、「自分たちのことしか考える余裕がない」ほど追い詰められた人々、「生存のためなら犯罪もいとわない」人々が大量に押し寄せてくるのであるから、これが個人にとっても社会にとっても脅威にならないはずはないのである。

 (可能性は低いとしても、)難民や移民が日本に大量に上陸することがあるとすれば、彼ら/彼女らが日本に期待するのもまた、日本人との共生でも交流でもなく、単純に自分たちの生活の回復であるに違いない。外国人の受け容れにあたり、このあまりにも当然の事実を認識することは絶対に必要である。

 難民を受け容れ、移民を受け容れるのなら、彼らの第一の要求、もっとも切実な要求が何であるのかをよく承知することが必要である。日本人が彼ら/彼女らに期待しているものと、彼ら/彼女らが日本人に期待しているものとのあいだに途方もなく大きな隔たりがあることを理解しないまま、難民や移民を受け容れても、幸せな結果は決して期待することができないように思われるのである。