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 ひとりで食事することができない者が多いらしいという話題がニュースで取り上げられたのは、今から15年くらい前のことであった。今では、同じことを一緒にやってくれる相手がいないことに覚える恐怖や恥ずかしさは、病気のようなものと見なされ、「ランチメイト症候群」「ひとりじゃいられない症候群」などという立派な名前が与えられているようである。

 ひとりで食事することができないのは、周囲から孤独な存在と見られたくないからであるらしい。私には、孤独な存在であること、あるいは、他人の目に孤独な存在と映ることがなぜ忌避されねばならないのか、今も昔も、わからない。私は、どちらかと言うと、ひとりの方が好きな性質のようである。

 ただ、大学の教室や食堂を観察していると、同じ一つの空間を共有する者の顔ぶれがある程度以上の時間にわたって変化しないところでは、ひとりで着席することを何としてでも避けようとする学生が少なくないことがわかる。(電車やバスの車輌の内部のように流動性の高い空間なら、ひとりでいても平気であるはずである。)

 たしかに、私たちは、群れからはぐれた象(rogue elephant) について危惧を抱く。それは、このような像が、暗黙のうちに全体を支配する秩序を尊重しないおそれがあるからである。ひとりでいることができない者たちは、他者のこのようなままざしを先取りして内面化してしまっているのであろう。また、コーヒー店で着席するとき、店の内部に背を向けて壁や窓に対面する座席を選ぶ客が多いのもまた、同じ理由によるのかもしれない。


コーヒー店でどこに坐るか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

店に背を向ける席の不思議 私は、普段は、所用のある場所を最短の経路と時間で移動するよう予定を組んでおり、外出先で「時間をつぶす」ことはあまりない。それでも、この数年は、授業の時間割の関係で、週に1度、早朝に職場の近くのチェーンのコーヒー店(カフェ)に立ち寄


 もちろん、ひとりでいることが平気であるとは言っても、私にも、誰かに近くにいてほしい状況というものがまったくないわけではない。それは、心身に何らかの痛みを覚えるときである。

 誰も近くにいない状況のもとで、急に胃が痛むことが稀にある。そのようなとき、私は、ただひとりで痛みに向き合わなければならない。もちろん、私の傍らに誰かがいてくれたとしても、痛みがそれ自体としてやわらぐわけではないであろう。それでも、(特に真夜中など、)痛みが去るのをじっと待っていたり、痛みを止めるための処置を考えたりするとき、私は、途方もなく深い孤独、いや、正確に言えば、私の社会的な生存が脅かされているかのような底なしの寂しさと恐怖を覚える。

 ひとりでいること、しかも、社会の秩序を担う責任ある主体であることは、内面の緊張を私たちに要求する。この緊張に耐える強さは、しかし、誰もが具えているものではない。「ランチメイト症候群」が社会の広い範囲に認められること、そして、強い同調圧力が社会を支配していることには、個人に課せられるこの緊張を緩和する積極的な役割があるに違いない。