AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:やり直し

desperate-2100307_1920

命まで奪われることはないという意味では「やり直しがきく」は正しいが……

 「人生で失敗しても、何度でもやり直せる」という意味の言葉を耳にする機会は少なくない。たしかに、現在の日本に範囲を限るなら、「何かあってても生命まで奪われることはまずない」という意味では、失敗することは、それ自体としては、決定的な破滅を必ずしも意味しない。このかぎりにおいて、失敗してもやり直しがきくという意見は、誤りではないと言うことができる。

 しかし、何かが上手く行かなかったとき、「やり直しがきく」が真であるためには、2つの条件が必要となる。これら2つの条件のうち、いずれか一方でも欠いているとき、失敗は、人生のある範囲ないし局面では決定的な破滅を意味することになるように思われる。

「やり直しがきく」ための条件[1]:自分の本当の目的を知る

 第一に、何かに失敗したときには、失敗した当の事柄をそれ自体として目指していたのかを最初に確認すべきである。具体的に言い換えるなら、(1)何かに失敗したとき、失敗したこと自体が目的であったであったのか、それとも、(2)失敗したことは、別の何かを実現するための手段にすぎず、本当の目的は他にあるのか、この点をみずからの心の中で明確にすることが必要となる。

 実際には、上記の(1)であることは稀であり、ほぼすべての場合において、何かを実現するための手段を獲得することができなかったことが深刻な「失敗」と誤って受け取られている。だから、失敗を振り返り、これを実現することで自分が何を得ようとしていたのかを明らかにし、この目的を実現するための他の合理的な手段を探せばよいだけのことである。

 失敗が破滅と受け止められてしまうのは、(1)最終的な目的について真剣に考えることなく、(2)手段の獲得が自動的に何かを実現してくれるという漠然とした期待のみにもとづいて手段が標的となり、しかも、(3)その手段の獲得に失敗するからである。

「やり直しがきく」ための条件[2]:「やり直し」にはそれなりのコストがかかることを理解する

 第二に、私たちが承知しなければならないのは、「やり直し」、つまり、最終的な目的を別の手段によって実現することは、ほぼあらゆる場合において可能であるとしても、この「やり直し」には、相当な覚悟が必要となるという事実である。場合によっては、途方もなく大きな努力や、途方もなく多額の金銭の負担を避けられないであろう。だから、上で述べたように、本当に実現したいものがあらかじめ明確でないかぎり、この負担には耐えられないはずである。

 そもそも、何かを実現するために最初に選ぶ手段というのは、考えうるすかぎりのべての選択肢のうち、時間、体力、費用などの点でもっとも負担の軽いものであるのが普通であるから、この手段の獲得に失敗し、他の道を行くかぎり、負担が増えるのは仕方がないことである。

視野を広げて自分を見つめなおすことが必要

 会社で出世することであれ、大学入試に成功することであれ、宇宙飛行士になることであれ、プロ野球選手となってジャイアンツでプレーすることであれ、それ自体が目的であるわけではなく、いずれも何か別の目的を実現するための手段にすぎず、また、この目的を実現する手段は、つねに複数、いや、無限にある。他の手段が思いつかず、何かに失敗するとすぐに「破滅」の二文字が心に浮かぶのは、視野が狭くなってしまっているからにすぎないのである。

scott-webb-26320

人生の復元ポイントはどこかを考える

 私は、3月生まれである。そのせいなのか、単に私の職業では年度末に当たるからにすぎないのか、よくわからないけれども、3月になると、来し方行く末を考えることが普段よりもやや多いような気がする。

 特によく考えるのが、標題に掲げた問いである。これまでの人生を振り返り、もっとも大きな岐路になったはずの瞬間を思い出すわけである。(とはいえ、瞬間を特定することができず、「そのころ」という漠然とした形でしか思い出すことができない場合もある。)

 一般に、「人生をやりなおせるとしたら、どこに戻るか」と問われるとき、いくつかの瞬間が心に浮かぶはずである。そして、あのとき別の選択をしていれば、人生がかなり違うものになっていたかも知れないと考えてみるのが普通である。人間なら誰でも、人生の中で失ったものは少なくない。実現を望みながら、この望みをかなえることができなかったような事柄もあるであろう。「人生をやりなおせるとしたら、どこに戻るか」をみずからに問うときに誰もが想起するのは、自分の「あのようになっていたらよかった人生」であり、そのような別の人生の可能性が決定的に失われ、後戻りすることができなくなった瞬間である。言い換えるなら、自分が――すでに、あるいは、まだ――手にしていない何かをみずからのものとするような選択が可能であった(かも知れない)瞬間、重大な誤りの瞬間である。さらに具体的に言うなら、今から振り返り、「あのとき別の選択をしていれば、こんなに苦労しなくて済んだかも知れない」「あのとき別の選択をしていれば、もっと楽しい人生を送ることができたかも知れない」と思うような瞬間である。これは、ウィンドウズのパソコンでバックアップをとるときの「復元ポイント」のようなものである。

人生の復元ポイントの見つけ方

 もちろん、形式的に考えるなら、人生を一方向的な「流れ」と見なし、復元ポイントを流れの「分岐点」のようなものとして思い描くことは不適切である。時間と空間のあいだには本質的な差異があり、次の本に詳しく記されているように、復元ポイントを再現することは不可能だからである。


なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性) | 加地 大介 |本 | 通販 | Amazon

Amazonで加地 大介のなぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)。アマゾンならポイント還元本が多数。加地 大介作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またなぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。

 とはいえ、人生の復元ポイントを捜すのは、過去に戻って人生をやり直すための作業であるというよりも、さしあたり、自分の人生の枠組を確認し、これからなすべきことを知ることを目標とする作業である。したがって、形式的な問題をいったん無視し、復元ポイントを探すことには、それなりの意義が認められるであろう。

 復元ポイントに戻る場合、現在から遠い位置にある復元ポイントから再出発するほど、そこから始まる「別の人生」と今の人生との差異は大きくなる。反対に、現在からもっとも近い復元ポイントから再出発しても、現実と大きく異なる人生を辿ることにはならないはずである。

 今後の人生の成り行きにより、新しい復元ポイントが近い過去に(あとから)見つかる可能性はあるけれども、私自身の場合、さしあたり、30歳のときのある出来事に関する選択が直近の復元ポイントである。私は、このとき、明らかに選択を誤った。そして、選択を誤ったことにすぐに気づいた。30歳以降の約15年の人生は、このミスが原因で惹き起こされたさまざまな問題を収拾し、人生をもとの軌道に戻すために費やされたようなものであった。(だから、今のところ、30歳以降に大きな復元ポイントは見つかっていない。)

 さらに人生を遡ると、私の人生では、26歳、25歳、23歳、20歳、16歳に復元ポイントが見つかる。これらが復元ポイントとして私の心に浮かぶのは、今から振り返るとき、これらの瞬間に、進学や職業選択などについて、その後の人生の枠組みを決めるような――しかし、今から考えると、基本的には必ずしも好ましい結果を産まなかったように見える――重大な決断が下されたように思われるからである。(復元ポイントは、若いころに多い。若いころには、選択を誤ることが多いということなのであろう。)

 このようにして、復元ポイントを探しながら、人生を過去へと少しずつ遡り、最終的に、私は、10歳の自分に辿りついた。10歳(つまり小学校4年生)の終わりごろに私のもっとも古い復元ポイントが見つかったのである。(これ以前にも復元ポイントはあるのかも知れないが、もはや記憶が定かではない。)

 私が通っていたのは、自宅の近くにある普通の公立の小学校である。しかし、さまざまな理由によって、この時期、公立の中学校にそのまま進むのではなく、私立の中学校を受験することを決め、学習塾に通い始めたのである。

 もちろん、目指す中学校に合格していなかったら、この決定は人生の岐路にはならなかったに違いない。また、中学校入学以降の生活が楽しいものであったなら、やはり、この決定を人生の岐路として思い出すことはなかったであろう。つまり、中学校を受験するという選択のせいで、不愉快なことが次々と起こり、この不愉快から逃れるために新たな一手を考えざるをえなかったという記憶と自覚があるから、10歳のときの決定が復元ポイントとして想起されるのである。

漂流する人生を肯定する

 復元ポイントを見出し、これまでの人生において自分が何を選択してきたかを確認することにより、人生の「棚卸し」が可能となる。自分が何を選んできたのか、また、それはなぜだったのか、そして、自分が本当にやりたかったことは何であったのか、かつて望んだことを今でもやりたいと思っているのか……、復元ポイントを探す作業は、このようなことを考えるよすがとなる。

 以前、次のような記事を書いた。


人生における「漂着してしまった感」 : AD HOC MORALIST

人生で最初に仕事を持ってから、あるいは、初めて就職するときから、私たちは、「なぜこの仕事に就いているのか」「なぜこの職業を選んだのか」などの問いにたえずつきまとわれる。おそらく、人生を終えるまで、この問いから解放されることはないのであろう。 もちろん、

 人生に復元ポイントが見つかるということは、当人にとっては楽しくないかも知れないが、これが人生に厚みを与えるものであることは確かである。復元ポイントが何もないとは、人生を左右するような選択の誤りを一度もおかしたことがないことを意味する。しかし、現実の大人は、たくさんの失敗、たくさんの向こう傷を負いながら大人になっているはずであり、上の記事で述べたように、「今、ここ」の私が、理想へと向かう直線、曲がり角も分かれ道もない一本の直線の上に位置を占めているという確信など、本来は、ありうべからざるものである。自分のキャリアパスを自信を持って説明することのでできる人間というのは、どこかで自分を欺いているように思われてならないのである。

↑このページのトップヘ