AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:アルコール

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「ノンアルコールビール」の存在理由は、飲めない人間には謎である

 世の中には、アルコールを含む飲料に似せた、しかし、それ自体はアルコールを含まない飲料というものがある。ノンアルコールのブドウ酒、ノンアルコールのシャンパンなどがあり、それどころか、驚くべきことに、ノンアルコールの日本酒(これは形容矛盾ではないかと思う)やノンアルコールのウィスキー(!)やノンアルコールの焼酎(!)まであるらしい。

 そして、このようなアルコール飲料もどきの「ノンアルコール」飲料を代表するのは、ノンアルコールのビールであろう。国内と国外のいくつものメーカーがアルコールゼロパーセントやアルコールフリーを標榜する商品を製造している。

 とはいえ、私には、なぜわざわざノンアルコールのビールを飲むのか、その理由がわからない。

 あらかじめ言っておくなら、私は、酒をまったく飲まない。レストランで夕食をとる機会があると、店員から「ビールもどき」や「ブドウ酒もどき」のノンアルコールの飲料をすすめられることがあるが、もちろん、私は、すべて断っている。

酒はまずいもの

 これは私の勝手な想像になるけれども、ノンアルコールの飲料を製造したり販売したりしている人々は、私のような飲めない人間について、「酒が飲めないとしても、酒と同じ味のものを飲みたいに違いない」と思い込んでいるのであろうか。しかし、そのとおりであるとするなら、これは、実に安直な発想である。

 たしかに、飲めないけれども「酒の味が好き」という人間がいる可能性はゼロではない。しかし、私のように――体質上の理由もあるが――「まずい」という理由でビールやブドウ酒や日本酒などを飲まない人間は、決して少なくはないはずである。

 ビールの味が嫌いな人間にビールの代用品に対する欲求があるはずはなく、このような人間がビールの「まずさ」を忠実に再現するノンアルコールビールに手を伸ばす可能性は、当然、ゼロである。

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大量の酒を日常的に飲む者のアルコール摂取量を抑えるのには役に立つ可能性がある

 もっとも、ノンアルコールビールのメーカーは、酒を飲まない人間のことなど最初から眼中にないのかもしれない。というのも、普段から大量にアルコールを摂取している者が、摂取量を抑えるためにノンアルコール飲料が使われる場合があるからである。つまり、「置き換えダイエット」と同じ要領で、ビールやブドウ酒をノンアルコール飲料に置き換えるわけである。

 けれども、本人がノンアルコール飲料を口にしていることに気づかないのなら、この置き換えは成功するであろうが、自分が口にしているのがノンアルコール飲料であることを知っている場合、本人は我慢を強いられることになるから、よほどの克己心がないかぎり、アルコールの摂取量は抑えられないであろう。

Drunken man

 私は、酒が飲めない。アルコールが少しでも体内に入るとすぐに変調をきたすほどではないが、ビール1杯ですでに気持ちが何となく悪くなる程度には弱い。自宅には日本酒とブドウ酒をつねに用意しているが、これは、料理に使うためのものであって、飲むためのものではない。

 これはおそらく日本に固有の事情なのであろうが、アルコールを受けつけない人間には、夜の居場所というものがない。というのも、「夜の席」は、基本的に「酒の席」であり、酒が飲めることは、当然のこととして前提とされているからである。酒が飲めない人間など、最初からお呼びではないのである。

 何人かでテーブルを囲んでいるとき、私ひとりが酒を飲まないと、その場の雰囲気に水を差しているように感じられて肩身が狭い。だから、酒の席に呼ばれても、必要に迫られなければ行かないし、そもそも、呼ばれること自体がほとんどない。日が暮れてから、仕事以外で誰かと会って食事するなど、もう10年くらいないことである。齢のせいか、夜の席で酒を強いられることもなくなった。

 また、私が酒を飲めないと知ると、「あいつと会うのは、夜はやめておこう」という配慮が先方に働くのか、最近は、仕事上の付き合いでも、会食はほぼすべて昼間または夕方になり、私の夜の予定は、さらにスカスカになっている。(たしかに、深夜まで外出していると、翌日の仕事に差し支える危険があり、この意味では、夜の時間が完全に自由になるのはありがたい。)

 しかし、これもまた日本の特殊事情であることを願うが、「アルコールが媒介する人間関係」というものがこの世にはあり、これが無視することのできない役割を社会において担っているらしい。飲める人々は、この点を特に自覚していないのかも知れないが、飲めない人間の目には、これは、どれほど努力しても入り込むことのできない不可視のネットワークと映る。

 機会があるたびに口実を作って酒を飲みたがる人間は非常にさもしいと思うし、酔っ払いも嫌いであるが、このアルコールが媒介する不可視のネットワークだけはうらやましいとひそかに思っている。

 ※こういうことを考えていたら、次のような記事を見つけた。

西荻窪「ワンデルング」。そこは飲めない人と、飲まない夜のためのお店【夜喫茶】 - メシ通

 これは、JR中央線の西荻窪駅からすぐのところにある新しい店である。飲めない人間にとっては、このような空間は貴重である。

WANDERUNG | 喫茶ワンデルング


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