東京オリンピックまであと4年弱になった。そのせいなのか、あるいは、都知事が交代してオリンピックの運営体制の見直しが進んだせいなのか、よくわからないけれども、最近、オリンピックに何らかの形で関連するニュースを見かける機会が増えた。たとえば、一昨日には、次のような記事を見つけた。
スポーツ全般におよそ関心がない私のような者にとっては、なぜバレーボールのために新しい競技場を建設しなければならないのか、しかも、建設のために税金を投じなければならないのか、サッパリわからない。もちろん、東京オリンピックが終わったあと、新しい競技場が「負の遺産」になるのではないかという懸念が広い範囲において共有されているのか、日本バレーボール協会は、大会のあとの利用に積極的にコミットすることを表明したようである。
アリーナの後利用で「リーダーに」=バレー協会が意欲:時事ドットコム
そもそも、アマチュアスポーツというのは、それ自体としてはカネを産まない。だから、愛好家が集まり、自分たちの負担でスポーツを楽しんでいるかぎりでは、何ら問題は発生しない。そのようなスポーツの競技団体というのは、日本中、いや、世界中にたくさんある。
けれども、その競技がオリンピックの種目、特に重要な種目に選ばれると、競技団体は、世界大会やオリンピックでの代表選手の入賞を目標に競技を上からコントロールする組織となる。そして、このような競技団体や日本オリンピック委員会を受け皿として多額の補助金が投入されることになる。
たしかに、オリンピックの種目となるような競技には、それなりの公的性格がないわけではなく、このかぎりにおいて、スポーツの振興のために多少の税金が投入されることには正当な根拠があるのかも知れない。けれども、公的な性格を具えているのであるなら、競技団体は、自分たちの要求や要望に公共性があるのかどうか、公共の福祉を促進するのかどうか、補助金を受け取る資格があるのかどうか、慎重に吟味すべきであるように思われる。
何年か前、大阪市が文楽協会に対する税金による補助を打ち切ったことが大きなニュースになった。私は、文楽が決して無価値であるとは思わないけれども、補助金というものが、文楽について何の知識も興味もない納税者から徴収された税金を原資とする以上、文楽協会には、当然、文楽に関心のない公衆に対し文楽が公共の福祉を促進するものであることをわかりやすく説明する責任が課せられていたはずである。幸い、文楽協会は、自力更生したようであり、自力更生することができたのであるなら、それは、世間が文楽の意義を承認したことを意味するから、文楽協会に対する公的な補助を再開してもよいのではないかと私は考えている。
各種のアマチュアスポーツの競技団体についても、事情は同じである。少なくとも、アマチュアスポーツが公的な補助を受けるのは決して当然のことではないし、競技場の選定や建設に関して口を出す当然の資格が競技団体や日本オリンピック委員会にあるとも思われないが、なぜか世間は、そして、政府は、学術や文化とくらべ、スポーツに税金を使うことには寛大である。
しかし、私は、大阪市が文楽協会に対する補助金を打ち切ったのと同じように、どこかで一度、アマチュアスポーツにどの程度の公共性があるのか、競技ごとに厳しく査定し、場合によっては補助金を一旦打ち切ってもよいのではないかと考えている。補助金に頼ることができなくなれば、また、政府や地方公共団体の負担で競技場や練習場が建設されないことになれば、そのとき、競技団体は、競技人口を増やし、裾野を広げる努力を死に物狂いで始めることになるであろう。そして、このような努力の結果として、競技の裾野が広がり、競技人口が増えれば、そのときには、競技の存在意義に対する国民の関心もまた深くなっているに違いない。