Santa Claus!

「キリスト教徒でもない日本人がクリスマスを祝うのはおかしい」という主張

 私は、個人的には、クリスマスが好きではない。12月24日に何か特別なことをするわけではないし、周囲の人間に対して「メリー・クリスマス」などと挨拶することもない。私自身は、クリスマスとは一切かかわり合わないことにしている。ただ、クリスマスが嫌いだからと言って、「日本人がクリスマスーーというよりも、正確にはクリスマス・イヴ――に大騒ぎするのはおかしい」と考えているわけではない。

 「日本人がクリスマスを祝うのはおかしい」ことを主張する人は少なくないが、この主張の根拠は単純であり明瞭である。すなわち、クリスマスはキリストの生誕を祝うキリスト教の記念日であるが、日本はキリスト教国ではなく、したがって、キリスト教徒ではない日本人にとってクリスマスは何ら特別な日ではありえない……、これがクリスマス無用論の根拠である。私もまた、昔はこのように考えていた。しかし、私は、その後、意見を変えた。

 たしかに、キリスト教徒は、日本の全人口の1パーセントにもならない。この割合は、近隣の国々と比較してきわだって低い。つまり、日本は、世界でもっとも非キリスト教的な国の一つであり、平均的な日本人には、キリスト教の記念日であるクリスマスを祝う義務も大義もないことになる。「日本人がクリスマスを祝うのはけしからん」という意見は、妥当であるように見える。

 しかし、歴史を振り返るなら、キリスト教には何の縁もない日本人がクリスマスを祝う――というよりも、クリスマスに大騒ぎする――のは、特に不思議ではない。

クリスマスは、キリスト教固有の祭りではないから、これを日本的にアレンジしても差し支えない

 そもそも、クリスマスというのは、キリスト教に固有の祭りではない。12月25日という日付からわかるように、これは、キリスト教以前のヨーロッパ各地で行われていた冬至に関連する祭りをキリスト教が乗っ取ることで形作られてきたものである。

 古代ローマでは、この時期、ローマの守護神であるサトゥルヌス(Saturnus)――ギリシア名はクロノス――を祝うサトゥルナーリア祭が行われていた。当初、クリスマス、つまりキリストの生誕は、冬ではなく春に祝われていたが、キリスト教は、このサトゥルナーリア祭に合わせてクリスマスを冬に移動させ、無礼講を特徴とするサトゥルナーリア祭に便乗してキリストの生誕を祝うようになる。その後、キリスト教は、各地の土着の信仰や祭りを取り入れながら布教を進めて行く。その結果、イエスのもとでは純粋な一神教であった――そして、現在でも建前としては一神教である――キリスト教は、時間の経過とともに「多神教化」することになる。神学的にはともかく、信仰の外観だけを手がかりにするなら、キリスト教はもはや「一神教」ではなく「多神教」であると言うことができる。

 そして、クリスマスもまた、異教の伝統を自由に取り入れることにより、よく言えば豊かな祭りに、悪く言えば雑多で世俗的な祭りへと変質する。この点は、特にカトリックでは大らかに許容されている。

 クリスマスが異教の祭りを乗っ取ることにより成長し膨張してきた融通無碍な多神教的「イベント」であるなら、これが日本の文化や社会と出会うことにより、さらに新たな方向へと進化するとしても、何ら不思議ではない。クリスマスというのは、日本の「非キリスト教的クリスマス」を許容するほど自由なのである。この意味において、融通無碍なクリスマスが日本に浸透しやすいのと同じように、外来の雑多な要素をすべて混ぜてしまう日本のスタイルもまた、クリスマスに親和的であると言うことができる。

 実際、多くの日本人は、「日本がキリスト教国であるかどうか」あるいは「クリスマスがキリスト教徒の祭りであるかどうか」など、一切頓着しない。同じように、クリスマスにとってもまた、祝う主体がキリスト教の純粋な信仰の持ち主であるかどうかなど、どうでもよいことなのである。クリスマス・イヴには、時間を静かに過ごしたい者を邪魔しなければ、大騒ぎしたいだけ大騒ぎすればよい、と私は考えている。